「おはようございます、副社長」
「おはよう、原田さん」
照れくさい思いを隠しながら、私はいつもどおり彼に挨拶をする。智哉さんも穏やかに返事をすると、小さく手招きをした。
「どうかされましたか?」
不思議に感じながら、彼の側へ駆け寄る。すると、彼に抱き寄せられた。
「始業前だから、ちょっとだけ」
「え?」
その瞬間、智哉さんの唇が重なる。途端に胸が高鳴り、私は目を閉じた。昨夜のことは夢じゃなかったと、実感して幸せな気持ちになる。
「仕事中は、ちゃんと割り切るから」
「はい。私も、メリハリをつけますので」
濡れた唇を拭われながら、お互い小さく微笑み合う。こんな愛おしい時間を、心から大切にしたいと思った。
「じゃあ、今日もよろしく。さっそく、午前中は畑野さんとのアポだな。彼に、俺たちのことは報告する?」
「そうですね。さすがに、仕事中に話せませんけど。機会があれば……」
わざわざ話すことなのかも分からず、濁したように答える。智哉さんは納得したように頷くと、執務室へ入っていった。
(本当、信じられない……)
昨日の夜までは、彼は憧れの副社長でしかなかったのに。一日開けたら、彼は私の恋人になっているなんて……。
それも、あっという間に一線を越えてしまったのだから。昨夜、智哉さんは日付けが変わった頃に帰っていった。それでも、彼の温もりや匂いは残っている。
余韻にゆっくり浸る暇はないけれど、言葉にならない幸福感を覚えていた……。
「副社長、それでは失礼します。資料はのちほどPDFでお送りしますので、ご確認をお願いします」
智哉さんとの打ち合わせを終えた健司が、執務室から出てきた。友人とはいえ、業務中は仕事相手だ。他の来客のときと同様に、私は立ち上がると彼を見送る準備をした。
「はい、よろしくお願いします」
智哉さんは、ドア付近で健司と短い挨拶をする。健司は深々とお辞儀をすると、踵を返すと私のほうへやってきた。
「それでは、失礼します」
健司は爽やかに私にも挨拶をすると、そっと手の中になにかを押し込む。それは小さな紙のようで、健司は僅かに口角を上げて副社長室を出ていった。
「なにを手渡された?」
「えっ!?」
なんとなく智哉さんに気づかれてはいけない気がして、あとでこっそり見ようと思っていた。だけど彼は分かったようで、さっそく聞かれてしまった。
「なにか、メモみたいなんですけど……」
私もまだ確認していないから、正直ドキドキする。彼に見られてはいけないようなことが書かれていたら……と心配だけど、そんなことがあるはずはない。
智哉さんが側に来て、私はゆっくり手の平を開ける。すると、くしゃくしゃになったメモ用紙に、達筆で書かれてあった。
『週末、空いてたらご飯食べに行かない?』
(こ、これは)
心の中で焦っていると、メモを覗き込んだ智哉さんが、真顔で私を見た。
「デートの誘いだな」
「そ、そうとは限りませんよ。二人きりとは、書いてないですし」
「だったら、電話とか他の誰かが誘うとか……。こういう誘い方は、しないんじゃないか?」
「そう思いますか?」
本当のことを言うと、私もそう思う。早く約束を取りつけたくて、こうやってメモを渡したのだろう。
「思うよ。乃亜は、どうする? 食事に行く?」
「い、行きません。智哉さんは、そういうの気にしませんか?」
彼と付き合うことになってすぐ、こんな誘いを受けるなんて。まさか、前に言っていた健司の言葉は本気だったのだろうか。
「気にしないわけないだろう。嫉妬でいっぱいだ」
智哉さんはそう言い残し、執務室へ戻っていった。もしかして、怒らせただろうか。交際初日から彼と険悪な雰囲気になり、私は心の中でベソをかいていた──。
「業務も終わり……」
今日の仕事が片付き、私は退社準備をする。そういえば、今夜はどうするのだろう。仕事では、一緒に行動することがほとんどだけど、終業後は必ずしもそうでない。
取引先や同業他社の知人など、プライベートでの飲み会や食事などは私は誘われないのだ。
これまで、そのプライベート予定までは把握してこなかった。だから智哉さんと付き合うことになって、会社が終わったあとどうすればいいのか分からなかった。
(健司のことで、機嫌を損ねちゃったしな……)
仕事中は、智哉さんはいつもと変わらない様子だったけど、目は笑っていなかったと思う。
健司の誘いを断らなければいけないし、今日は早く帰って彼に電話しよう。パソコンを落とすと、挨拶のために執務室へ向かった。
「副社長、お疲れ様でした。お先に、失礼します」
心のどこかで、智哉さんに引き留めてほしいと思っている。だけど彼は、デスクから顔を上げて短く返事をしただけだった。
「お疲れ様。また、明日」
「はい、失礼します……」
彼はすぐにパソコンに視線を戻すと、残りの業務を進めていく。気を散らせてはいけないから、静かに出ていった。
(やっぱり、夢を見てただけかも)
いくらなんでも、智哉さんがあっさりしすぎている。名残惜しそうな雰囲気もなかったし、まさかたった一日足らずで心変わりをされてしまったのだろうか……。
「断らなきゃ」
自宅へ帰り、寝支度を済ませるとベッドへ寝転がる。健司から手渡されたメモを見返しながら、深いため息をついた。断りの電話をしようと思うのに、気分が乗らないのだ。
布団に顔を埋めると、微かに智哉さんの香りがする。昨夜の記憶が蘇り、切なくなってきた。
「智哉さんは、寂しくないのかな……」
彼と恋人同士になった途端、欲が出てくる。もっと、智哉さんの心が欲しくなってきたのだ。
伊藤さんのときは、どうだったのだろう。毎日、電話していたのだろうか。毎日、会っていたのだろうか。
そんなことばかり、考えてしまう。悶々と悩むくらいなら、自分から連絡すればいい。
スマホを持ったまま起き上がり、ディスプレイを見つめた。どんなに待っても、今夜は彼からの電話もメールもないだろう。
思い切って智哉さんに電話してみたものの、コールはするけど応答がない。そのうち留守電に繋がってしまい、そのまま電話を切った。
「今、なにしてるんだろ……」
想いが叶ったら、別の悩みが出てくるのだと改めて分かった。今までなら、気にならなかったことが気になる。
この時間智哉さんがなにをしているのかとか、それを考えたことはなかったのに……。
(折り返してくれるかな……)
スマホを握りしめ、再びベッドに寝転がる。早いけど、もう寝てしまおうか。そうすれば、すぐ朝になる。そしてまた、智哉さんに会えるから……。