「ん……?」
インターホンが鳴ってる? 遠くから聞こえてきた音に、私はゆっくり目を覚ます。どうやら、あのまま本当に眠っていたようだ。
こんな時間に誰だろうかと思いつつ、智哉さんだと嬉しいなと期待してしまう。だけど、電話はかけ直してもらえていないし、きっと違うだろう。最近、入居者が酔っ払って部屋を間違える苦情が増えtいるみたいだ。
たぶん、このインターホンもそれに違いない。気づかない振りをして、やり過ごしてしまおう。
二回ほどインターホンが鳴ったけれど、間違いに気づいたのか静かになった。智哉さんとぎくしゃくしている今は、他のことに対応する心の余裕がない。
本格的に布団に潜り込み目を閉じたとき、今度はスマホが鳴った。もしかして……と期待を膨らませて起き上がると、ディスプレイに智哉さんの名前が出ている。
「もしもし!」
いかにも待っていたという調子で応答してしまい、ちょっと恥ずかしくなる。電話をかけ直してくれて、本当に嬉しい。
「乃亜、今どこにいる?」
彼の口調は硬く、まだ機嫌は直っていないようだ。嬉しさがしぼんでいき、どんよりとした気分になる。
「自宅です……」
智哉さんこそ、どこにいるのだろう。この時間まで私の着信に気づかなかったのだから、どこか店にでも行っていたのだろうか。
「え? でも、インターホン鳴らしたのに、出てこなかったじゃないか」
「えっ!?」
さっきのインターホンは、智哉さんだったのか。無意識にスマホを放り投げて、玄関へ走る。そしてドアを開けると、廊下でスマホを片手に智哉さんが立っていた。
「よかった、いてくれて。もしかして、畑野さんと食事にでも行ったのかなって、また一人でヤキモチ妬いてたよ」
苦笑する彼を前にして、私の想いは溢れていく。感情のまま駆け寄ると、智哉さんの胸に飛び込んだ。
「ごめん、こんな遅い時間に。電話も、マナーモードにしてたから、気づくのが遅くなってしまった」
「いいえ、気にしないでください。こうやって、来てくれたのが嬉しいんで」
彼の背中に手を回し、その温もりと色っぽい香りに浸る。恋人になる前は、自分の気持ちを抑えようとしていた。
でも恋人になったら、それはできないのだと実感する。智哉さんを好きだと思う気持ちが止められない。
「乃亜……。ここだと人に見られるから、キスもできない。玄関、入っていいか?」
「はい。ごめんなさい、感情が昂ってました」
照れ笑いをする私に、彼は優しく微笑んでくれる。二人で玄関に入った瞬間、彼に強く抱きしめられ唇を重ねられた。
少し強引なところが心地よくて、どんどん智哉さんに惹かれていく。仕事でもプライベートでも、ずっと一緒にいたいと思っていた。
「畑野さんには、断りの連絡した?」
唇を離され、額と額をくっつけられる。彼に見つめられ、ボーっとした頭で答えた。
「いえ、そんな気になれなくて。智哉さんを怒らせたと思ってたので、ずっと落ち込んでたんです」
「嫉妬はしてるけど、怒ってないよ。乃亜こそ、さっきは居留守使ってたけど、ここ危なかったりする?」
心配性の智哉さんだから、私の行動が引っかかったのだろう。
「違います。きっと、誰かが間違えたんだろうなって。智哉さんじゃないなら、応答する気も湧かなかったんです」
でも、もう大丈夫。彼が会いにきてくれたのだから、元気が出てきた。
「それならいいが。なあ、もしきみさえよければだが……。俺と、一緒に暮らさないか?」
「えっ!?」
一気に我に返り、身体を離す。すると、智哉さんは真剣な顔で言った。
「乃亜とは、結婚を前提に付き合いたい。加奈のことは残念だったが、きみのことは絶対に失いたくないんだ。未来を思い描きながら、俺のマンションへ来ないか?」
私との結婚を、考えてくれている……? 言葉が出てこないほど感動して、胸が熱くなっていた。
「焦っているように見えるかもしれないが、乃亜のお陰で前に進めた。きみのことは、心から大切にしたいし、俺の側にずっといてほしいと思ってる」
「嬉しすぎて……。本当に、いいんですか?」
「もちろんだよ。きみが、ここを離れていいと思ってくれるなら。強引な誘いだが、俺は乃亜を独り占めしたい」
再び抱きしめられ、私も彼を抱きしめた。こんなに強く求められたことはなく、智哉さんの想いにすべて応えたい。
「私も、独り占めされたいです。智哉さんのマンション、行かせてもらいます」
ずっと一緒にいたい、その気持ちが彼と同じなのが心から嬉しい。私が返事をすると、彼にそっと身体を離された。
「週末から、うちへおいで。もちろん、畑野さんの誘いは断るんだよ」
「はい……。あの、話は変わるんですけど、今夜はどこかに行かれてたんですか? マナーモードにしていたとはいえ、気づくのが遅いと思う……」
気になることは聞いたほうがいいかもしれないと思い、おずおず尋ねてみる。智哉さんの反応を窺っていると、彼はバツ悪そうに苦笑した。
「不安にさせてすまない。実は、ずっと会社で仕事をしてたんだ」
「お仕事ですか? もしかして、なにか急用な案件が入ったとか?」
「いや、そうじゃない。一人になると、畑野さんのことで悶々としそうでね。できるだけ考えないようにしようと、仕事に没頭してたんだ」
私が帰ってからも、ずっと社内に残っていたなんて。健司のことで、そこまで振り回していたとは思わず、申し訳なくなる。
少し落ち込んでいると、智哉さんにそっと髪を撫でられた。
「俺の勝手な嫉妬だから。乃亜が、気にしちゃだめだよ」
「はい……。健司には、明日断りの電話をしておきます」
「約束だよ」
また唇を塞がれ、しばらく智哉さんとのキスに浸る。お互い離れ難く、何度も口づけを交わしていた──。
「ちょっと、待って! なにがどうして、そうなったの!?」
電話の向こうの佐知は、驚きを隠すことなく声を上げた。智哉さんと付き合っていることをを報告すると、佐知は興奮した口調になっている。
「自分でもびっくりなんだけど、そういうことになって……」
いざ報告すると、とても照れくさい。だけど、佐知に交際の報告ができることは心から嬉しかった。
「よかったね。おめでとう。すごくホッとした。でも、畑野くんって人のこと、きちんとしないといけないよ?」
「うん。このあと、断りの電話をしようと思うの」
健司のことを佐知に話す機会がなかったから、そんな親しい男友達がいることにも彼女は驚いていた。
「それがいいよ。副社長、大きな失恋したんだし、乃亜の異性関係には神経質になるんじゃない?」
「そう思う?」
「思うよ。だから、乃亜のこと自分のマンションに誘ったんじゃないかな? 本当、羨ましい。ずっと、仲良くいるんだよ?」
「うん、ありがとう」
佐知の気遣いに感謝しながら電話を切ると、健司をアドレスから呼び出す。佐知が言ったとおり、智哉さんは私の異性関係をかなり気にしている。
佐知のことも彼に話しているけれど、彼女は同性だから智哉さんはいつも微笑ましく聞いてくれているのだ。
「よし、断ろう」
緊張しながらディスプレイをタップすると、コール音が鳴る。そして数コールして健司が出た。
「乃亜、お疲れ。どうした?」
「あ、あのね。週末のことなんだけど」
普段どおりの健司の明るい口調に、圧され気味になる。断りにくいと思いながら、たどたどしく切り出した。
「ああ、この前メモで渡したやつだよな? 予定、大丈夫?」
「それが、難しくて……」
「そうなのか。残念だな。じゃあ、来週は?」
やっぱり、中途半端な断りだとそうなってしまう。健司に申し訳なさを覚えつつ、思い切って言った。
「実は、九条副社長とお付き合いすることになって……。だから、健司の誘いは受けれないの」
「えっ?」
健司が呆然としたのが分かり、気まずくなってくる。どうしようと困っていると、健司の少し混乱したような声が聞こえた。
「九条副社長に、騙されてるんじゃないよな?」
「違うよ。絶対に、そんなことはないから」
健司がそう思うのも分からなくないけれど、智哉さんが誤解されるのは不本意だ。即否定すると、健司はそれでも疑わしそうに続けた。
「結婚まで考えた女性がいたんだろ? その人のこと、簡単に忘れられるのか?」
「もしかしたら、百パーセント忘れてないかもしれないけど。でも、副社長は前に進もうとされてるから……」
「自分の心の整理のために、乃亜を使ってるのか?」
健司らしくない言い方に、私は戸惑ってしまう。
「そんなんじゃないんだよ。副社長は誠実な方で、私を都合のいい存在には考えてないから」
「乃亜は、人がいいからな。疑うことなんて、しないんだろうけど。だけど、九条副社長はないよ。世界が違いすぎるって」
彼の考え方も理解できるけれど、私は智哉さんを疑っていない。想像より健司が交際に否定的で、悲しくなってくる。
「心配してくれてありがとう。だけど、本当に大丈夫だから。誘ってくれたのに、応えることができなくてごめんね」
強引に電話を切ってしまい、僅かに後悔する。健司とは、仕事で顔を合わせることがあるのに。これでは、次に会うときにかなりやり辛い。
その後、健司から電話がかけ直されることも、メールがくることもなかった──。