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たんぽぽの花束を、君へ
たんぽぽの花束を、君へ
かずさともひろ
現実世界ラブコメ
2025年04月03日
公開日
1.8万字
完結済
睦沢(むつさわ)イスミは、二年生最初の登校時、挙動不審な男子と出会う。彼の名は横芝(よこしば)ヒカル。頭は弱いけれど、たんぽぽを愛でるほど優しい男子だった。二人は仲良くなったが、やがてヒカルは――。

たんぽぽの花束を、君へ

 えーっと。

 なんだろう、この状況は。


 少し遅れた時間の、通学路つうがくろ

 今日から新二年生になるというこの日に……。


 田舎いなかの道なので舗装もされていない土の道の脇で、一人の男子が両手両足をついて、なにかを見ているのを発見してしまった。


 本当に、これは一体、なに?

 気になったあたしは、そっと彼の横からのぞいてみる。

 彼がうれしそうに見ていたのは、たんぽぽのつぼみだった。


「わっ!」


 あたしに驚いた彼が、尻餅をつく。

 あ、ひょっとして彼が、学校でうわさの?


「ひょっとしてキミ、横芝くん?」


 首をひねって顔を近づけると、後頭部で結んだポニーテールの髪が左肩に触れた。


「え、なんで、ぼくのことを?」


「だって有名だもん」


「ああ、そういうこと」


 ふぅん、自覚してるんだ。

 クラスが違ったから話す機会はなかったけれど、横顔を間近で見ると、すっごく綺麗きれいな顔立ちで、きらきらした目をしている。ちょっとうらやましい。


 彼は横芝ヒカル。

 桜ヶ丘さくらがおか中学校の異端児と呼ばれている、かなり浮いた存在だった。

 友達からも「横芝くんだけは近づいちゃ駄目だよ」なんて言われていたっけ。

 でも実際に目にする横芝くんからは、そんな危なそうな雰囲気を微塵みじんも感じなかった。

 噂なんて、あてにならないもんだよね。


「なにをしてるの?」


 あたしが問いかけると、横芝くんはにっこりとした。


「たんぽぽが、もうすぐ、さきそうだなぁ、って。うれしくなっちゃってさ」


「ははあ……」


 こういうところが、噂の原因になるんだと思う。

 普通の人なら道端の花なんかあまり気にしないし、気になったとしても、ちょっと目を向けるくらいだと思う。でも横芝くんは、服が汚れるという概念がそもそもないかのように地面に膝をつき、肘までつけてたんぽぽのつぼみに顔を近づけている。

 その微笑ほほえみは、心から染み出しているかのようだった。


「きみは、なんねんせい?」


 横芝くんが、たんぽぽから視線を動かさないままいてきた。


「あたしは睦沢イスミ。今日から二年生だよ」


「わあ、そうなんだ。じゃあぼくと、おなじがくねんなんだね!」


 ゆっくりで、辿々たどたどしくはあるけれど、なんだか耳に優しい声だった。横芝くんは立ち上がり、手についた汚れをズボンのお尻でぱんぱんと払うと、あたしに右手を差し出す。


「ぼくは、よ、よこしば、ヒカル。いっしょのクラスに、なれるといいね!」


「あ、そ、そうね」


 おう。

 なかなか直球でそういうことを言われたことがないので、少し動揺した。

 でも、不思議と嫌じゃない。

 あたしはヒカルくんの手を、しっかりと握った。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


 それからあたしとヒカルくんは急いで学校に向かった。

 昇降口に、今日からのクラスが張り出されているはずだから、早くそれを確認しなきゃいけない。


 それにしても……あのう。

 手、つないだままなんですが。


 これって、なんだかめちゃくちゃ恥ずかしい。

 でも何故か、心底、楽しそうに様々なことを語るヒカルくんと接していると、このままでもいっかな、と思えてしまう。


 なんだろう、この感じ。

 まるで親戚の子をあやしているみたい。


 なんかヒカルくんって、同じ年の男子、って気がしないんだよなあ。

 しかし、さすがに校門の中に入ってからは、さりげなく手を離したけれど、昇降口に貼り出されたクラス分けの紙は、二人で並んで見た。


「あ……イスミちゃん!」


「二年一組かあ。ヒカルくんと一緒のクラスになったね」


「うん!」


 朝なのに土がついて汚れた学生服のヒカルくんが、まぶしいくらいの笑顔を弾けさせる。

 こうして改めて見てみると……ヒカルくんって、ものすごいイケメンだった。


 身長はあたしより十センチ以上高いから、一七〇センチくらいかな。

 軽くウェーブがかかった髪、凜々りりしい眉、愛嬌あいきようたたえた瞳。

 日本人離れした、高くて整った鼻。表情豊かなヒカルくんをいろどる唇。

 その全てがまるで画面の中にいる存在のように、傑出していた。


「イスミちゃんとおなじクラスになれて、ぼく、うれしい!」


 テノールというよりは、まだ幼いアルトに近い声がまた可愛かわいい。


「そ、そう? あたしたち、ついさっき知り合ったばっかりだよね?」


 そう。

 あたしとヒカルくんが知り合ってから、まだ一時間もっていない。

 なのに、いつの間にか名前で呼ばれてて、しかもそれが嫌じゃなかった。

 ……不思議な男子。


「だってイスミちゃん、いいひとだから」


「なんで会ったばかりでそんなことわかるの? あたしのこと、前から知ってた?」



「ううん、けさ、はじめてあったよ」


「じゃあどうして?」

 ぐいん、と勢いよく、あたしの顔をのぞんでくるヒカルくん。


「いままで、ぼくとおなじ、めせんで、は、はなしてくれたの、イスミちゃんが、はじめてだったからね」


 顔が近くて、少しだけ、どきっとした。

 いやこれは、びっくりしただけ。

 そうに決まってる。


「ねえ、イスミちゃん」


「ははっは、はいっ!?」


 ううっ。

 妙に緊張してしまって、声がうわずっちゃった。


「これからいちねん、よろしくおねがいします!」


 眉間みけんに力を入れ、唇をきゅっと引き締めて、あたしに敬礼するヒカルくん。


「ふっ……あははははははははは!」

 すっごく素直で、シンプルなヒカルくんに、思わずおなかを抱えて笑ってしまった。


「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」


「うん!」


あたしたちは、柔らかな視線を交わして笑いあった。



 それから二人で、新たな教室である二年一組に向かった。

 すっかり遅れてしまったので、あたしたちが教室に到着する頃には、ほかの同級生がそろっていて、担任の先生が何やら話をしていた。


「すいません、遅れました~」


 教室のドアはどこもがらがらと音を立てるので、こっそり中に入ることはできない。

 だから遅れたら遅れたで、堂々と入った方がいい。


「おー、えっと、確か連絡なしでまだ来てなかったのは……横芝と睦沢の二人だったな~」


 その声を聞いて、ぞっとした。

 ああ、まじですか。


 久我原マリコ先生。

 一年の時と同じ担任だ。外見は女性ではあるものの、男性みたいな性格と口調で、早く結婚して教師辞めたい~、とぶちぶち愚痴ってくるので、生徒からは嫌われていた。


 まあ、この桜ヶ丘中学校二学年は、たった二クラスしかない。

 だからこそ、小さな噂が風通し良く隣のクラスにまで届いてくるのだ。

 ……大変迷惑な話だけど。


「睦沢が遅れてくるなんて珍しいなぁ。ん? 後ろのは横芝か。ちっ、新学期早々、カップルで登校してくるとはねぇ。いいご身分だねぇ」


「いや、そういうわけじゃないんですが」


「まあいいや、もう空いてる席は二つしかないから、とっととそこに座れー。正面の一番後ろだからな?」


 おう。

 わざわざ一番、教師の目につきやすい席を空けてくれて、どうもありがとうございます。

 さすがは鬼の久我原。


「わ、イスミちゃんと、と、となりのせきなんだ、やったぁ!」


 あっけらかんと喜ぶヒカルくんの手を引き、すぐ席に座った。



 その日はまあ、うん、二年生初日にしては、散々だった。

 久我原先生の話が終わって姿を消した途端、一年の時のクラスメイトに連行され、何故遅れたのか、ヒカルくんとの関係は何なのか、主に二対八くらいの割合で尋問された。


 これでもあたし、一年の頃は皆勤賞で遅刻など一度もない。それが二年生になった途端にいきなり遅刻した上に、噂のヒカルくんと一緒に現れたのだから、仕方がないといえば、そうかもしれない。

 でも、やましいことなんて何一つないのだから、起きたことをありのまま伝えた。


「登校中にヒカルくんと出会い、二人でたんぽぽを見ていたら遅れた」


 ……ええ。

 当然だけれど、誰もまともに信じてくれなかった。


 ヒカルくんとの関係はなんなのか。

 付き合っているのか?

 どうして一緒に登校しているのか。

 何度説明しても、同じ質問が投げ込まれきて、困り果てた。


 しかしそんな拷問の時間は、チャイムによって救われた。

 鐘の音とともに、あたしを囲んでいたクラスメイトは、引き潮のように去っていく。

 一体、なんだったのか。ヒマだったのかな。


 そんな今日は二年生初日だけあって給食もなく、午前中だけで下校だった。

 この時間まで観察した感じ、一年生で同じクラスだったのと、違うクラスだった人が半々くらいの割合だった。まあ、二クラスしかないから、こうなるかな。


 さて、帰ろう。

 あたしが先生から配られた二年生で使う教科書やワークなどを鞄に入れていると、ふと、隣のヒカルくんが視界に入った。


「え!?」


 思わず、声が出てしまった。

 ヒカルくんは国語の教科書を開いて、くるくる回していたのだ。


「あ、あの、ヒカルくん、なにをしてるの?」


 あたしが声をかけると、ヒカルくんは困った様子で口を開いた。


「もじがよめないの」


「え?」


「なにをかいてあるか、わからなくて」


「ええ!?」


 なにを書いてあるかが、わからないって……。

 どういうこと、だろう?


「そんなに難しいの?」


「ぼくにとってはね。いちねんせいのときも、ぜんぜん、わからなかったし」



「ぜんぜんって、どの辺が?」


「たとえば……なにがもんだいなのか、わからない」


「それでどうやって答えたの?」


「てきとう」


「そ、そうなんだ」


 そういえば、噂にもなってたっけ。

 ヒカルくんはおかしな行動をする上に、学力も低いって。


 でも前者に関して、あたしはその“おかしな行動”というのが、ヒカルくんの純真さからくるものだということを理解した。変にスレて、身近にある美しいものを美しいと思えなくなる方が怖い。ヒカルくんと接していると、いつの間にか自分がそうなっていっていることを気づかされ、身につまされる思いがした。


 でも……学力が低い、といっても、教科書を読めないレベルだとは思わなかった。テストにしても、中学生のうちはどんなに低くたって問題ないだろうけど、高校受験とかになったら、どうなるんだろう。


 というか、知り合ってまだ丸一日も経っていないこの横芝ヒカルくんのことを放っておけない気持ちが沸き起こるのは、どうしてなのか。

 二年生になって、頭を抱えることばかり起きるのか。

 まあ、ぜんぶヒカルくん絡みだけどさ。


「ねえヒカルくん、一緒に帰らない?」


 気づけば、そんなことを口にしていた。

 これまで一度も、男子にこんなことを言ったことはない。

 ……なんでだろう。


「え、ぼくと?」


「うん。ヒカルくんと。ヒカル君の家がどこだか知らないけれど、登校の時に会ったんだから、下校の方向も同じでしょ、きっとさ」


「たぶん、そうだとおもう。ぼくも、もっとイスミちゃんと、おはなししたかったから。うれしいな」


 にこっと笑って、慌てて荷物を片付けるヒカルくん。

 可愛いなあ。


「おまたせ、かえろう」


「大して待ってないよ。行こ~」


 こうしてあたしと不思議なクラスメイト、横芝ヒカルくんとの交流は、始まった。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


 ヒカルくんと登下校を一緒にするようになって、一ヶ月が過ぎた。

 そしてあたしにとって、こんなに刺激的な一ヶ月はなかった。


 あたしとヒカルくんはあれから毎日のように会っていた。きっかけは、ヒカルくんがあたしに勉強を教えてほしい、と言ってきたことだった。


 学校では席が隣ということもあり、いろいろと手伝ってあげた。

 休みの日になると、あたしの家の前まで来て、大声で図書館に行こうと誘ってくれる。ちょっと恥ずかしかったけれど、慣れるとそれが少しだけうれしくなった。


 ヒカルくんはまるで中身は小学生のようだったけれど、向上心や自己研鑽じこけんさんを怠らない子でもあった。自分の欠点を熟知していて、それを直そうと必死にもがいている。


 そんな姿に心を打たれたあたしは、時には図書館で、時にはうちで、時にはヒカルくんの家で勉強や、スマートフォンの使い方など、一般常識を教えていった。


 しかし一週間くらい前。ヒカルくんはあたしの部屋で勉強中、突然、ぱたりと倒れた。

 お母さんを呼ぶと、凄い熱を出していた。


 ヒカルくんのお母さんから、あらかじめ連絡先を聞いていたので、電話して一晩だけうちに泊まってもらった。あたしの部屋のベッドに寝かせて、熱に苦しむヒカルくんの汗を拭う。

 もちろん、男子を部屋に入れたのも、こうしてベッドに寝かせるのも初めてで、緊急事態とはいえ、いいのかなあと自問自答したりした。


 それからの一週間で、ヒカルくんは……変貌した。

 乾いたスポンジが水を吸い込んでいくように、ものすごい勢いで知識を修めていく。


 そして、今。

 制服に着替えてカーテンを開けると、外にヒカルくんの姿があった。

 以前のような、不思議な雰囲気はすっかりと抜け落ちて、ポケットに手を入れてたたずんでいる姿は、まるで別人のようだった。


 急いで鞄を持ち、玄関に向かう。

 今日はテストの日だったので、昨日、少し夜更かしをしてしまった。


「いってきまーす!」


 家の中に向かって叫ぶと、玄関を開けて石畳の通路を抜け、門を開いた。


「遅いよ、イスミちゃん。もう行っちゃおうかと思ってた」


「むあっ!? ヒカルくんってそんなに薄情だったっけ!?」


「あはは、冗談だよ。僕がイスミちゃんを置いていくわけがないじゃないか」


「そ、そう?」


「ほら、行こう」


 くるりと振り返る仕草には、男子特有の頼もしさすら感じた。

 二人並んで、土の道を歩く。


 ヒカルくんは変わった。

 今ではあたしのほうが驚かされるほど、知的で面白いことを言うようになった。

 きっと、あたしがいないところでも凄く頑張ったんだと思う。

 そうでなければ、考えられない変容だった。


 でも、一つだけ。

 今のヒカルくんは、前とあたししか見ない。


 道の脇で咲く、たんぽぽには気にもめなくなった。

 それがちょっぴり、寂しかった。


「イスミちゃん、本当にありがとう」


 ヒカルくんがまたあたしの顔を覗き込んでくる。

 歩きながらは危ないよ!


「な、なに、急に?」


「僕はイスミちゃんと出会ってから、生まれ変わったかのように爽やかな気分なんだ」


「そう、それはよかった」


 なんだか不思議なんだけど……。



 今のヒカルくんには、ぜんぜんときめかない。

 以前のヒカルくんの方が、きらきらしてて、素敵だった。



 今のヒカルくんは一ヶ月前に比べて、断然、かっこよくなった。

 もともと顔が整っている上に、所作もぴしっとしていて、やや大人びている。

 最近ではヒカルくんの変な噂は聞かなくなったかわりに、違う噂が流れ始めている。

 あたしが、おかしいのかな。


「ここまで僕の相手をしてくれたのはイスミちゃんが初めてだったんだ」


「そうなの?」


「うん。でも、なんでイスミちゃんは、こんな僕に親身しんみになってくれたのかなって、疑問に思うことはあるよ」


「ん~、なんでだろうねぇ」


「イスミちゃんもわからないの?」


「強いて言えば……たんぽぽを見てるヒカルくんの横顔が、素敵だった」


 あたしがそう言うと、ヒカルくんはふいっと前を向き、険しい顔になった。


「その頃の僕は、もういないよ」


「そっか……寂しいな」


「イスミちゃんって変わった人だね」


「ほう、ヒカルくんに言われたくはないけれど!?」


「あはは」


 あたしに向けられたその笑顔は、あたしがかれたヒカルくんの顔じゃなかった。


 その日のテストが終わり、またヒカルくんと一緒に帰る。


「じゃあね、ヒカルくん」


「あ……うん。また明日」


 あたしはヒカルくんに背を向け、帰路につく。

 もうヒカルくんがあたしの家に来ることはないし、図書館にも一緒に行っていない。

 もちろん、ヒカルくんの家に行くこともなくなった。


 あたしたちの距離は、親しい友達くらいまで離れたんだと思う。

 じゃあその前は、と自問すると……なんだかよくわからないけど、今よりは楽しい仲だった気がする。

 胸が少し、苦しかった。


 それから日に日に、ヒカルくんはあたしから離れていった。

 その代わり、ヒカルくんの周りには多くのクラスメイトが集まるようになっていた。

 一番のきっかけは、テストの結果と授業での態度だった。


 ヒカルくんは今回のテストで、五教科全て満点を取った。文句なしの、学年トップだ。

 授業でも先生に鋭い質問をして、時には先生をもうならせる。

 そして休み時間には、胸がすく思いだった、と、クラスメイトが集まる。


 そこにあたしは、存在しなかった。


 三国志の時代にあったっけ。

 “呉下の阿蒙あもうにあらず”

 もうヒカルくんは呉下の阿蒙ではなく、学びに学んで、ついに名将関羽を討ち取った才気あふれる呂蒙という武将になったんだ。あたしはそんなヒカルくんの姿を目にして、少しだけよかったね、と思うと同時に、寂しさを覚えていた。


 初めて部屋に入れた男子。

 小さな美しさを愛する、鋭敏な感性を持ったヒカルくん。


 もう、いないんだなあ。

 そんなおもいを巡らせていると、涙がにじんできた。

 咄嗟とつさに、机に突っ伏す。


 教室なんかで泣いてしまったら、誰になにを言われるか。

 あたしはその日、ヒカルくんよりも先に教室を出て、一人で先に帰った。


 翌日。

 窓のカーテンを開ける。

 もうそこに、ヒカルくんの姿はなかった。


 当たり前だよね。

 ヒカルくんから離れたのはあたしなのに、何を期待していたのか。


「はぁ」


 ため息しか出ない。

 ばかだなあ、あたしは。


 でも……あたしは、ヒカルくんに何を求めていたんだろう。

 着替えながら、そんなことを考える。

 そういえば、あたしは気がつくとヒカルくんのことを考えていた。


「好き、なのかな?」


 うん、それは間違いない。

 あたしはたんぽぽをでるヒカルくんに、恋したんだ。


 ぼうっとしながら、お母さんが作ってくれたお弁当を持ち、いってきますと力なく口にして、家を出る。

 天気はとてもいい。少しだけ綿飴わたあめのような雲が浮いていたけれど、その背面は青一色に塗られていた。


 一人で歩く土の道は、いつもより固い気がしる。

 ふわり、と、なにかの花の香りがした。

 たんぽぽも咲いていたけれど、たんぽぽの香りなんて嗅いだことがない。


「もうすぐ夏が来るのかなあ」


 ひとりごちて、目を細める。

 土の香り、花のいろどり、小川のせせらぎ。

 あたしはこの路が大好きだ。


 ぼっかりと穴が開いたようなあたしの心を埋めるように、豊かな生命があたしを包んでくれた。

 ふと、路の先に誰かがいることに気づいた。


「え!?」


 様変わりした立ち姿を見て、鞄を落とす。

 ヒカルくんだった。


「あ!」


 うつむいていたヒカルくんがあたしの姿を見つけると、ゆっくりこちらに歩いてきた。

 あたしも鞄を手にして、ヒカルくんに向かっていく。


 小鳥の声と、柔らかな風が揺らす草の音が混じり合って、心地良い。

 あたしとヒカルくんは、相対して視線を交わした。


「お、おはよう、イスミちゃん」


「おはよ、ヒカルくん」


 ヒカルくんは、視線をきょときょとと動かし、顔を赤らめて、金t尿している様子だった。


「どうしたの? 学校はこっちじゃないよ?」


「僕は、イスミちゃんと一緒に登校したかったんだ。駄目かな?」


「……いいよ」


 あたしがそう返事をすると、ヒカルくんはひまわりのような笑顔になった。

 それからあたしたちは、二人で学校に向かって歩を進める。

 やっぱり、以前とは違う距離感だった。


 なんだろうなあ。

 全然わからない。


「ねえ、イスミちゃん」


「うん?」


 たたっ、と、ヒカルくんが走って、あたしの前に立ちふさがった。

 な、なに?


「イスミちゃん。僕がここまでになれたのは、間違いなくイスミちゃんのおかげだよ。だからその、これからも僕と一緒にいてほしいんだ」


「それって……まさか、告白!?」


「うん。僕は、イスミちゃんが好きだ! 付き合ってください!」


 あたしに頭を下げる、ヒカルくん。

 今のヒカルくんなら、あたしみたいに地味な女じゃなくて、もっと可愛いこと付き合えると思う。

 なのに、あたしを選んでくれるんだ。


 うれしい。

 それが正直な気持ちで、ヒカルくんの言葉を受け入れようと思った、その時だった。


 ヒカルくんの足下に目がいく。

 そこには、ヒカルくんに踏まれたたんぽぽが、苦しそうに横を向いていた。


「ごめんなさい」


「…………!」


 頭を下げたまま絶句する、ヒカルくん。

 やっぱり駄目だ。

 この人は、あたしが恋したヒカルくんじゃない。

 あたしが好きな人は、たんぽぽを踏まない!


「わ、わかったよ。でも、友達のままではいてくれる?」


 絞り出すように言葉を紡ぐヒカルくん。


「それは、うん、いいよ。あたしもヒカルくんが嫌いになったわけじゃないし」


「それでも、好きなわけではない……」


「今のヒカルくん、格好かつこいいしさ。あたしよりいい人が山のようにいるよ」


「イスミちゃんは一人しかいない。僕に寄り添ってくれた人は、イスミちゃんしかいなかった」


「小さくて、細かいところに喜びを見い出していた素敵な人も、ヒカルくんしかいないよ」


「うん? どういう意味?」


「ヒカルくんは大事なものを忘れちゃったってこと」


 土の路を踏みしめながら、歩き出す。


「ねえ、教えてよイスミちゃん。僕はなにを忘れちゃったの?」


「それをあたしに教えてくれたのはヒカルくんなんだから、自分で考えて」


「????」


 ヒカルくんが、あたしの横を歩く。

 以前よりもずっと深い溝があり、その先には高い壁がある。


 普通の女子が見たら、今のヒカルくんはとっても魅力的なんだろうなあ。

 でもあたしは、もっと、もーっと、強烈な引力を持ったヒカルくんを知ってる。


 あたしとの勉強会で、成績が上がったのなら、それはきっといいこと。

 社交的になって滑舌も良くなって、友達が増えたのなら、それもきっといいこと。


 あたしにとっては……とても複雑なことだった。


 ちょっと物覚えが悪いけれど、たんぽぽをも愛でるヒカルくん。

 賢くなったけれど、あれだけいつくしんでいたたんぽぽを踏んでいることにも気づかないヒカルくん。

 ねえ、どっちの君が本物なの?


 ヒカルくんの横顔を見ながら、自分の心に問いかけた。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


 それからもヒカルくんの知力は伸び続けていった。

 学校の図書室にある本を読み尽くし、今では図書館に通っているという。


 そして家では疑問に思ったことをネットで調べ、学んでいるという。

 学校側としても、横芝ヒカルという生徒が急激に成績を伸ばしたということで、騒然となっていた。

 そしてこの日、ヒカルくんは職員室に呼ばれていた。


 なにをしてるんだろう。

 そんな疑問は後日、ヒカルくんの口から判明した。

 どうやら教室でIQテストをさせられていたらしい。


 結果は182だという。

 その数値がどれだけ凄いのかは全くわからないけれど、きっと高いと思う。


 もうあたしなんかより、ずっと頭がいいに違いない。

 でも本当に……ヒカルくんには、なにが起きているのか。


 ほんの少し前、ヒカルくんは教科書も読むことができなかった。そこからあたしと勉強会をして、文字や数字を読み、覚え、学び、急速に学力をつけて、今やテストで五教科満点を取り、中学二年生とは思えないほどの品格も備えた。


 これ、たった一ヶ月の出来事だよ?


 ヒカルくんは別人のようになって、今では人気者だ。

 そのヒカルくんが今、あたしの横にいて、一緒に歩いている。

 あたしは告白を断ったのに、ヒカルくんの気持ちは微塵も揺らがなかった。


 ヒカルくんはあたしが好む話題を見つけ出すと、深い知識であたしを補完してくれる存在になっていた。だから話をしていて、とても楽しいのは間違いない。

 この距離感なら一緒にいてもいいかな、と思う。


「ねえ、どうしてヒカルくんは、こんなあたしと一緒にいるの?」


 あたしは客観的に見て、ヒカルくんと釣り合う容姿じゃないと思う。

 身長は低いし、髪はそうめんより簡単に切れそうだし、たいした特技もないし、眼鏡だし。


「イスミちゃんが大好きだからさ」


 顔が熱くなる。

 そそ、そんな直球で言われても……困る。


「その、えと、どこが?」


 ヒカルくんは正面を向き、やや顔を上げる。

 そこには、果てしなき蒼穹そうきゆう

 邪魔するものなど、なにもないほど透き通った空がある。


「一ヶ月くらい前の僕は、なにを見ても楽しくて、心が躍って、夢中になってしまう癖があった。だから僕は今までずっと友達ができたことがないし、気味悪がられていじめの対象にすらならなかった。でも、そんな僕に、肩を並べてくれたのがイスミちゃんだった。感動したんだ。こんな僕にも、親身になってくれる人がいるんだ、って」


 思わず、ヒカルくんの横顔に見とれる。

 凜々しい表情のヒカルくんは、とても綺麗だった。


「だから頑張って賢くなればイスミちゃんは、僕をただの友達じゃなくて、もっと大事な人にしてくれるんじゃないかと思ったんだ」


「その理論だと、世界一賢い人があたしの好みってことになるわよ?」


「イスミちゃんが望むなら」


「……ううん、望んでない」


 あたしは全力で、首を振った。


「ヒカルくんの努力は凄いよ。ヒカルくんに比べればあたしなんか、なんの取り柄もなくて、おっちょこちょいで、少し肝が据わってるところがあって、なんにでも首を突っ込んじゃうところもあるけれど、ぜんぜん可愛い女の子じゃないもん」


「でもそんなイスミちゃんが、僕の背中を押してくれたんだ」


「それは、きっかけに過ぎないよ。いつまでも飛び立てない雛鳥ひなどりを、巣から押し出した親鳥ってだけ。そのひな鳥は、もともと親鳥よりも高く飛べたの」


「それでも、そうしてくれなければ雛鳥は、いつまでも巣の中で閉じこもっていたんだよ」


「むぅ……」


 強い。

 今のヒカルくんに、弁舌で戦っても勝てないや。


「僕の世界は、イスミちゃんがいなかったら存在していなかった。それは間違いないんだ。それに、僕はイスミちゃんと出会ったあの日から、ずっとれてる」


「え!?」


 そんな。

 ま、まあ、あの頃のヒカルくんから恋愛感情なんてうかがえなかったから、仕方ないか。


「イスミちゃんは僕のことを嫌いじゃない。そうだよね?」


 好き? とか、嫌い? って質問じゃないところが、なんだか怖い。


「うん。嫌いじゃないよ。嫌いな人と、一緒に帰らない」


「今は、それでいいよ」


 ヒカルくんはたたっ、と、走って、振り返る。


「睦沢イスミさんは、僕に世界を与えてくれました。だから横芝ヒカルはいつまでも睦沢イスミさんが好きです。想い続けます。これから先、僕がどうなろうと。君がどうなろうと。ずっと好きです!」


「なによ、それ……」


 あたしは目を閉じて、両手で顔を覆った。

 眼鏡がまぶたに当たって痛かったけど、関係ない。

 こんな熱を持った告白をされたら……


 嬉しいに決まってるじゃん。

 熱い顔を、冷たい手のひらが触れ、その隙間から涙が流れ落ちた。


「ああ、ごめん。泣かしちゃったね」


 そんな謝罪の言葉とは裏腹に、笑みを浮かべるヒカルくん。


「ばか」


 ああ、もう心が吸い込まれそう。

 あたしも、ヒカルくんが好き。

 大好きだ。


「ねえイスミちゃん。今だけでいいから、お願い」


「ふぇ?」


 あたしの身体を、ヒカルくんが抱きしめてきた。

 もう、気持ちを制御できない。

 あたしもヒカルくんの背中に腕を回し、きつく抱きしめあった。



「違う」


 家に帰って、だりそうになった頭をすっきりさせようとして、一足早めにお風呂に入った。


「これは違う」


 湯船にかって天井を眺めながら、何度もつぶやく。

 ヒカルくんは勘違いをしてるんだ。

 たまたまあの場に居合わせたあたしが、たまたまヒカルくんに興味を持って、たまたま一緒のクラスになって、たまたま勉強を教えることになった。


 それだけ。

 だから……勘違いなんだ。


「ヒカルくんは、現実を知ったら、あたしから飛んで行っちゃう人だ」


 心の中のもやもやを、口から吐き出す。

 こうでもしないと、あたしの内部で爆発しちゃいそう。


「あ~~~~~~っ!」


 ぶくぶくぶく。

 頭の中がぐっちゃぐっちゃになって、あたしは叫んでから湯船に沈んだ。

 この日は結局、なんだか悶々もんもんとして食欲がわかず、布団に入っても寝つけなかった。


 あー、これが恋なのかなー、などと考えていると、もう朝だった。

 もぞもぞと布団を蹴飛ばし、朝ご飯はお母さんが作ってくれた目玉焼きだけを口にすると、制服に着替えて鞄を持ち、家を出た。


 なんだかんだで、登下校のどっちかはヒカルくんと一緒だな。

 今日は、どこかでまた待っててくれるのかな。

 いつのまにか、ヒカルくんのことばかり考えてる。


 ははっ、と笑ってしまった。

 こんなに好きなら、なんでヒカルくんの告白を素直に受けなかったのか。

 あの時は咄嗟の判断で断っちゃったけれど、間違っていたとも思わないし、後悔もしていない。


 でも、もうあたしの心は完全にヒカルくんに傾いている。

 こうなったら。

 チャンスがあれば……あたしから告白しよう。


 そしてヒカルくんが得たもの。

 ヒカルくんが失ったものを告げよう。


 もしかしたら、もう遅いのかもしれない。

 あれだけ素敵な男子になったんだから、いつ気持ちが変わってもおかしくない。


 その時は、めちゃくちゃ泣こっか。

 今みたいな気持ちで生活するより、ずっといいと思う。


「よし! 行こう!」


 あたしはどこでヒカルくんに出会ってもいいように、気合いを入れて土の路を踏みしめた。


 ……け、れ、ど。

 肩透かし!

 結局、緊張しながら歩いた路で、ヒカルくんと出会うことはなかった。


 そして学校に到着し、教室に入る。

 ヒカルくんは現れないまま、予鈴が鳴った。



 珍しいことに、ヒカルくんは欠席していた。

 これまでなにがあっても学校には来ていたのに。

 おかしいなあ、と思ったけれど、最近は変なウィルスやら病気があるから、体調でも崩したのかな、と思っていた。


 そんな時。

 学校の内線が鳴り、担任の久我原先生が何やら言葉を交わすと、なんだか複雑な表情であたしを見た。


「睦沢、帰り支度して私と一緒に来て。大至急!」


 なにがあったのか。

 どうしてあたしなのか。

 そんな質問は一切受け付けないぞ、という圧を感じる言葉だった。

 あたしは先生の言うとおり、鞄に教科書やノートを詰めていく。



 とんでもなく嫌な予感がした。



 朝から帰り支度をしろって……かなり重大なことだと思う。

 今日の欠席者はヒカルくんだけ。


 まさか……ヒカルくんの身に、なにかあったの?

 あたしは急いで鞄を持ち、久我原先生と教室を後にする。

 早足で、無言で。

 ついた先は、校長室だった。


「ああ、久我原先生。その生徒が睦沢さんですか?」


 中に入ると、五十代後半くらいで背が高く、口ひげがよく似合う白髪交じりの男性が、慌ててこちらにやってきた。

 桜ヶ丘中学校校長の……名前は覚えてない。

 校長でいいや。


「はい。それで電話は?」


 久我原先生が、いつになく真面目なトーンで校長にく。


「まだつながってますよ。睦沢さん、横芝くんのお母さまから、君に電話です」


 上半身の血液が、さああ、っと下半身に落ちていくのを感じた。

 これだけ先生を介して行われてくる連絡が、吉報のはずがない。

 校長先生が、電話の子機をあたしに差し出す。

 あたしは震える手でそれを受け取ると、送話器に向かって「もしもし、睦沢です」と声を吸い込ませた。


【……睦沢、イスミさん?】


「はい」


 ちょっと疲れたような、女性の声だった。


「もしかして……ヒカルくんのお母さんですか?」


【!……ええ。よくわかりましたね】


「ヒカルくんの身になにかあったんですね!?」


 あたしは半ば、確信に近いものを感じていた。


【睦沢さん、お願い。今からうちに来てもらえないでしょうか? 校長先生には了承を得ていますので】


「それは構いませんけれど……」


 あたしは困ったように久我原先生に視線を向けると、あたしのスマートフォンを渡してくれた。

 これはいつも朝、持ってきたら担任に預けるルールになっているものだ。


 そっか。住所がわかれば、マップアプリで近くまではいける!

 防犯のために持たせてくれた両親に対して、こんなに感謝したことはなかった。


「お母さん、今すぐ行きます!」


【ああ……ありがとうございます。あの子、ずっとあなたの名前を呼んでいて……】


「えっ!?」


 ヒカルくん、なにが起きているの?


「じゃ、じゃあ、今すぐに行きます! 住所をマップアプリに打ち込みますので、ご住所をお願いできますか!?」


【はい!】


 あたしはヒカルくんのお母さんから住所を聞いて、それをマップに打ち込むと、あたしは……ぎょっとしたけれど、急いで電話を切り、久我原先生に許可をもらって、学校を出た。


 その方向は……あたしの家とは、真逆の方向だった。


 なんで気づかなかったんだろう。

 あたしの家から出てすぐ伸びている、あの一本道。


 あそこで出会うということは、小学校も同じ学区のはずだった。

 でも、小学生の頃にあたしはヒカルくんを知らない。

 中学一年生の時にこちらに引っ越してきた可能性はあるけれど、それにしては土地勘があった。


「ヒカルくん」


 走りながら、ぽろぽろと涙がこぼれる。

 ヒカルくんは毎朝、早くに家を出て学校を通り過ぎ、あたしの家の近くまで来てくれてたんだ。

 そして帰り道はあたしを送った後、引き返して長い長い帰路についていたんだ。


 なんて優しいことをしてくれるのよ……。

 ヒカルくんは今、なにを思ってるの?


「ヒカルくん!」


 事態も状況も飲み込めなくて、ただ、彼の名を呼んだ。

 時折、スマートフォンの画面を確認しながら走り続けると、この辺りでは一等地の住宅街に入っていった。小学生の時は学区外だったし、中学生になってもこちらの方面に友達がいないので、全く土地勘がない。あたしはスマートフォンのマップアプリを拡大し、辺りの家を見る。


 どの家にも改札がないので、とにかくインターフォンを鳴らし、横芝さんのお宅ですか、と訊いて回る。

 そして三軒目で、やっとヒカルくんのお宅を発見した。


「あ……もしかして、睦沢さん?」


 インターホンから流れてきた声は、学校で受けた電話のものと酷似していた。


「はい。ヒカルくんの友達の、睦沢、イスミです!」


 あたしは肩で息をして、お母さんに応える。


「ちょっと待ってね、すぐ行くから」


「はい」


 しばらくすると、玄関のドアが開いて、疲れた顔の女性が出てきた。

 身長はあたしより少し高いくらいで、すごく綺麗な人だったけれど、重たい疲労がその表情に暗い影を落としていた。


「あの、ヒカルくんは!?」


 そう問いかけると「こっちへ」とつぶやき、あたしを家の中へと招き入れてくれた。

 ヒカルくんの家の中は、壁に掛けられた絵画や、滑らかな光沢を持つつぼなどが置かれていて、とても綺麗だった。そして二階に案内されると、一室に通された。


「ヒカル、くん?」


 そこにはベッドで苦しそうにうめく、ヒカルくんの姿があった。

 鞄を投げ、ヒカルくんに近づく。

 眉間にしわを寄せ、汗をにじませて呻いていた。


「い……イ、スミ……ちゃん……」


「!?」


 ヒカルくんはあたしの名前を、うわごとを発していた。


「イスミさん、って言ったわね?」


 背後から、お母さんの声がした。


「はい。あたしが睦沢イスミです。ヒカルくんとは二年生から仲良くさせています」


「そう……」


 お母さんはあたしの横に来て、横に置いてあったバケツに手を入れると、中に入っていたタオルを絞り、ヒカルくんの額を拭う。


「イスミさん、聞いてもらえる?」


「はい」


 きっと、ヒカルくんのことだろう。

 あたしは正座し、お母さんに向かった。


「この子、おかしなところがあったでしょう? 勉強も全くできなかったし、とても小さなことを気にしたり」


「はい」


「でもね、親である私たち夫婦にとって、そんなヒカルは宝なの。だから、二年生になって、ここ一ヶ月で急に人が変わったかのように賢くなって、はきはきしやべって……嬉しかった」


「はい」


 あたしは、聞きに徹した。

 お母さんの想いを、全部知っておきたかったから。


「急に変わったヒカルに、訊いてみたの。そうしたら、あなたの名前が出たの。睦沢イスミちゃんっていう女の子と出会って、頭の中で何かスイッチが切り替わった、ってね」


「あたしと……」


 それは、確かに、そうだったのかも。


「それからのヒカルはもう、私や夫よりも賢くてね。勉強でわからないところがあったらなんでも訊くよ、ってい言ってたんだけれど、ふふっ、「アインシュタインの一般相対性理論について、もう少し深く教えてくれない?」って言われて。思わず泣いちゃった。答えられなかったけれど」


「ヒカルくんは、凄く勉強してましたから」


 今、寝込んでしまっているヒカルくんの状況は、その反動なのだろうか?

 だとしたらあたしは、なんてことをしてしまったのか。


「イスミさん、ヒカルはね、生まれた頃から頭の中に腫瘍があるの」


「……えっ!?」


 腫瘍?

 それって、あの、ガンとかの、あれ?


「幸い悪性のものじゃなくて、それそのものは小さくて無害なものらしいけれど……脳の中に異物があるということがなにを引き起こすのか。それはお医者さんでもわからないって言われちゃった」


「だから、ヒカルくんは――」


「そう。中学一年生の時点で、知能は小学二年生レベルだった」


 それがきっと、初めて会った時のヒカルくんなんだ。

 あたしが心を震わせられた、ヒカルくんだ。


「それが一ヶ月前、イスミさんに出会ってから、この子は急激に変わったわ。まるで漫画を読むように参考書を見て、どんどん知識をつけていった。私も夫もその姿に喜んで戸惑ったけれど、同時に不安でもあったわ。まるで私たちのヒカルじゃないみたいで」


「……すごく、わかります」


 そうなんだ。

 きっとあたしは、ご両親と同じ気持ちだったと思う。

 感性豊かだった頃のヒカルくんがいなくなってしまって、寂しかったんだ。


「お母さん、お願いがあるんですが」


「なに?」


「ヒカルくんの看病、私にもさせてもらえないでしょうか?」


「…………」


 お母さんはヒカルくんの額に手を当てて、目を落とした。


「ひとつ聞かせてくれる? あなたのそのお願いは、贖罪しよくざい? それとも――」


『ヒカルくんが好きだからです!』


 お母さんの言葉を遮って、あたしは叫んだ。


「うん、それならお任せできるわ」


「ちなみにお医者さんには?」


「もちろん、昨日連れて行ったわ。風邪かインフルエンザか、コロナかだろうって。検査結果はどれも陰性。なにもわかってないし信じてもくれないから、もう面倒でね。薬も買わずに帰ってきちゃった」


「でしょうね」


 ヒカルくんの場合は、たぶん病気じゃない。

 どんな薬を出されたって、それは無駄でしょ。


「ただね、この高熱と、食事がとれないことだけはなんとかしてあげたいの。イスミちゃん、あなたになら任せられる。今だけ少し、お願いできるかな? 実は、あまり寝てなくて」


 はっとして、お母さんの顔を見る。

 お母さんの目はとろんとしていて、目の下にくまができていた。

 ずっと……ヒカルくんのお世話をしてたんだ。


「お母さんはすぐ眠ってください!」


「うん、少しの間、お願い、ね」


 あたしの言葉に押されるように、お母さんはふらふらと部屋を出て行った。

 きっと、頼れる人がいなかったんだと思う。


 お父さんはお仕事だろうし、親戚の方に頼むにしても、その人だって忙しいだろう。

 あたしは腕まくりをして、ベッドで苦しそうにしているヒカルくんの額に手を当てる。


 熱かった。

 きれいなバケツに三つのタオルが掛けられているのを確認すると、一つをらし、ヒカルくんの額に置く。


 今、ヒカルくんの中では何が起きてるの?

 どうしてこんなに苦しそうなの?


「うう……イスミ、ちゃ……」


 ヒカルくんが急に頭を振ったので、タオルが落ちてしまった。

 汗も凄いから、熱冷ましのシートも使えなかったと思う。

 だからお母さんは、ずっとこうやって額を冷やしていたんだ。


「ヒカルくん、イスミだよ! ここにいるよ!」


 あたしはヒカルくんの耳に唇を近づけて、きちんと聞こえるように言った。


「イ、スミ、ちゃん?」


「うん。ここにいるよ!」


 布団の中に手を入れて、ヒカルくんの手を握った。


「本当に、イスミ、ちゃん?」


 目が開かないのか、あたしを認識する術がないみたい。

 どうすれば信じてくれるかなあ……。

 咄嗟に。唐突に。

 あたしは、一つ思いついた。


「ヒカルくん、ごめん」


「え……んっ!?」


 そっと、口づけをする。

 ヒカルくんは唇も熱かったけれど、あたしも負けないくらいの温度になっていった。

 あたしはやっぱり、ヒカルくんが好きだ。


 ヒカルくんを失いたくないし、ずっと一緒にいたい。

 ちゅっ、と、唇を離し、タオルを濡らして額を拭く。


「イスミちゃん、あり、がとう」


「お礼なんかいいから、早く元気になってよ。ヒカルくんがいない学校なんて、つまらないよ」


「でも、僕の部屋に、来てくれるなら、こうしてるのも、いいかも」


「バカ!」


「はは……」


 あたしは顔を熱くしながら、ヒカルくんの額や顔、首回りを拭いた。


「イスミちゃん、すき」


「うん。あたしも。ヒカルくんが好きだよ」


「……うれ、しい、な」


 その一言だけを残して、また意識を失った。



 それからヒカルくんは、意識が戻ったり失ったりを繰り返した。

 熱もずっと高いわけじゃなくて、急激に上がっては、平熱に戻る。


 身体も汗をかいていたので、シャツを脱がせ、胸やおなかを拭き、着替えさせる。

 どうしても食事だけはさせてあげられなかったので、仮眠から起きたお母さんは、ヒカルくんを明日にでも入院させるとのことで、あたしがヒカルくんの様子を見ている間に、入院の準備をしていた。


「イスミちゃん、本当にありがとう。おかげで、ヒカルを病院に連れて行けるわ」


 もう遅い時間になったので、お母さんは救急車を使うらしい。

 あたしもそれが正解だと思った。

 どっちみちどの病院に行っても、ヒカルくんの病名はわからないのだから。


「こちらこそ、少しでしたけれど、なにかお手伝いができることがあれば、なんでも言ってください!」


 あたしがそう言うと、お母さんは微笑み、スマートフォンを出した。


「私とつながるというよりは、ヒカルの近況を伝えたいから、かな。ともだち登録、してもらえる?」


「もちろんです!」


 こうしてあたしとヒカルくんのお母さんは、お互いにLINEのアドレスを交換し、その日はおとなしく帰宅した。

 本当は、ずっとヒカルくんのそばにいたかった。



 でも、それはかなわなかった。



☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


 ヒカルくんが有名な大学附属病院に入院したとの連絡を最後に、お母さんからのLINEは途切れた。

 あれから三ヶ月経って、夏休みに入った。


 心配で、不安で、とても辛かったけれど、こちらからあれこれも聞けない。

 だからあたしはヒカルくんに負けないよう、勉強に打ち込んだ。


 何を聞かれても、答えてあげられるように。

 数学も、国語も、英語も、理科も、社会も。

 あたしの気持ちも。


 外ではひぐらしが鳴き始めた。

 涼しそうだなと思い、玄関でサンダルを履き、表に出てみる。


 いつも通りの、土の路。

 草と土が入り交じった、良い香りがする。

 その脇には青々と草が生えていて、バッタやカマキリ、ありなどがたくさんいる。


 そして、たんぽぽもたくさん生えていた。

 たんぽぽを見ると、やっぱり思い出しちゃうな。


「ヒカルくん……」


 あれから三ヶ月も経ってるからね。

 少しは熱が冷めてるんじゃないか、とか思ってるかな。


 残念でした。

 あたしはずっと、ヒカルくんが好きだよ。


 連絡は全然来ないけれど、いつかきっと、またあたしの前に現れてくれると信じてる。


「んんっ……!」


 手を組んで、コバルトブルーに染まってきた空へと、かかともあげて、肩を解す。

 ちょっと勉強し過ぎちゃったかな。

 夏の新鮮な空気で肺を満たすと「よし!」と声に出して、気合いを入れて振り返ろうとした、その時。



 視界の隅に、誰かが入ってきた。



 その誰かが手にしていたものを見て、身体が硬直する。

 自然と口が開き、眉が上がった。

 まさか……まさか?


 あたしの足が、自然と彼に向かっていく。

 彼は足下に咲いていたたんぽぽを避けて、こちらにやってくる。


 ぼろぼろと涙があふれ、前が見づらい。

 転んでもいい。

 やっと……やっと。

 会えたから!


「ヒカルくんっ!」


 何度も突っかけながら、かっこ悪い走り方だったと思うけれど、一秒でも早く彼に触れたかった。


「イスミちゃん!」


 ヒカルくんは両手を広げ、私を抱き留めてくれた。


「もう……ずっと心配かけて! なにがなんだか、わからないじゃないのよぅ!」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔を、ヒカルくんのシャツで拭う。

 これくらいは許してね。


「ごめんね、イスミちゃん。いろいろと検査ばっかりさせられてさ。僕みたいなケースはまれだから、調べさせてくれって。嫌になっちゃうよ」


「ヒカルくんはもう、入院していなくていいの?」


「ずっとそうってわけじゃないけれど、現状だと問題はないみたいなんだ。だから退院してきてからすぐ、イスミちゃんに会いたくて、来ちゃった」


「来ちゃった、じゃないよ! お母さんのLINEもつながらないし……」


「ごめんね。それは僕が止めておいてくれって頼んだんだ」


「は、なんで!?」


「ある意味、命がけの検査だったから」


「!?……」


 ヒカルくんが何をされたのかはわからないけれど。

 万が一のことがあった時に、その経緯まで知られたくなかったんだろう。

 それも、ヒカルくんの優しさだ。


 意味が全然わからなくて困惑しているあたしの前に、ヒカルくんは黄色い花の束を差し出してきた。

 たんぽぽだけで作られた花束だった。


「以前、僕はイスミちゃんに告白して、振られた。あの時のことを事細かに思い出して、気づいたんだ。僕はイスミちゃんとたんぽぽを通じて知り合った。それを踏みにじって告白した僕に、イスミちゃんは失望したんだって」


「失望って、そこまでじゃ、ないけど。冷めたのは、まちがいない」


「だからこの花束は、一本一本、祈りと謝罪と、願いを込めて摘んだんだ」


「そう、なんだ……」


 ヒカルくんは、柔らかな風に髪を揺らしながら、笑顔でたんぽぽの花束を、あたしに差し出す。


「睦沢イスミさん。僕はあなたの嫌がることをしません。大好きです。まずは恋人から始めませんか?」


 思わず、ふふっ、と笑ってしまった。


「恋人からがスタートなんだ。ヒカルくんはその後、あたしをどこに連れて行ってくれるのかな?」


「もちろん、最高に幸せな時間へ」


 心に刺さった。

 私は世界でいちばん美しい花束を受け取りながら、満面の笑みを見せた。


「約束だからね? 絶対、幸せにしてね!」





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