佐々木くんが家まで送ってくれて、とても助かった。
家の前でタクシーを降りたあと、自分の部屋までの道のりを佐々木君が肩を貸してくれたおかげで、あまり足の痛みもそこまで辛く感じなかった。
「ゆっくり座ってください」
佐々木くんに支えられながら、ソファーに腰を下ろす。佐々木くんは私の前に座ると、タクシーを拾う前に立ち寄ったコンビニの袋の中から、湿布を取り出した。
「明日も腫れてるようだったら、ちゃんと病院行ってくださいね」
「うん、そうする」
足首に優しく湿布が貼られる。その冷たさが心地よくて、痛みで詰まっていた息を小さく吐き出した。
できました、と言って私を見上げた佐々木くんと目が合った。彼はそっとその視線を下げた。
「先輩、あんなにヒールの高い靴、履く必要ありますか?」
ぽつりと零すような言葉に、私は戸惑う。まさか佐々木くんから、そんなところを指摘されると思わなかった。
「えっと……ほら、私、背が低いから。佐々木くんも、知ってるでしょ? 私が小さいこと。ちょっとでも高い方が、何かと便利で」
資料室で高いところの資料取らなきゃいけないときもあるし、と冗談っぽく笑って返す。佐々木くんは反芻するように「資料室……」と繰り返した。
「高いところの資料は、言ってくれたら俺が取ります。それで足怪我してたら、元も子もないじゃないですか」
「それに、先輩……」と、佐々木くんは何か言葉を続けようとして、言い淀む。私の部屋を軽く見回してから、軽く唇を噛んだ。
「杏南先輩。王司さんのこと、ちゃんと知ってるんですか?」
その台詞は、言いかけた言葉の続きでないようだった。
「王司さんのこと……?」
知っているとは、一体何のことなのだろう。聞き返せば、ようやく佐々木くんと目が合った。彼の瞳は、少しだけ怒っているようにも見える。
「あの人、婚約者がいるんですよ」
どくん、と胸が鳴る。婚約者、とその言葉が私の胸をざわざわと不安にさせた。
「王司さんと同じ営業部の
婚約者がいるなんて話は、これまで一度だって聞いたことがない。それこそ、噂話でも知らないことだ。
それは本当なの? と佐々木くんに聞きたかったけれど、素直に聞くことはできなかった。
まだ、王司さんが私に言った、「運命の人」という言葉を信じていたいと、心の隅っこで思ってしまったから。
「……やだな。私と王司さんは別に、特別な関係じゃないよ。たまに、仕事の話をしたりしてるだけで」
いつも通り、笑ったつもりだった。けれど、その口角は引きつってしまったかもしれない。
佐々木くんが、どこまで私と王司さんの関係を知っているか知らないけれど、ただ同じ会社に勤めている他部署の同僚だと誤魔化すように答える。
動揺している自分を、彼に悟られたくなかった。
「俺、先輩が傷つくところ、見たくないですよ」
佐々木くんは私を昔から知っていて、後輩として心配してくれているのだろう。けれど、その強い口調に目を逸らしてしまった。
「だから、そういう関係じゃないから……」
そう返す声は微かに震えてしまった。
佐々木くんも言葉を飲み込んだのが分かった。私たちの間に沈黙が流れ、それはやがて部屋の中に広がっていく。
どれくらいの時間、そうしていただろう。決して長い時間ではなかったのかもしれない。
佐々木くんはおもむろに立ち上がると、「帰ります」と静かに呟いた。
「足、お大事にしてください」
「……うん。今日はたくさん、ありがとう。気を付けて帰ってね」
「はい」
彼は、小さく頷いた。通勤バッグを持って、玄関へと向かう佐々木くんの背中を見送っていれば、彼は不意に私のほうを振り向いた。
「王司さんは、先輩の好きなもの、知ってるんですか?」
静かな問いかけに、「え?」と聞き返す。
「俺は、ちゃんと知っています。先輩の好きなもの」
彼の手が、身体の横で拳を握ったのが分かった。切なげに歪む表情と、その言葉の意味が分からず、私はただ口を閉ざすことしかできない。
佐々木くんは私の言葉を待つことはなかった。「じゃあ」と踵を返すと、そのまま玄関を出て行ってしまって、私はただ茫然と、閉まった白い扉を見つめていた。
翌日、足首の腫れは少し引いていたものの、午前休を使って念のため病院を受診した。軽い捻挫ということで足首にテーピングを施してもらうと随分と楽になった。
昼休憩時間のオフィス。佐々木くんと昨日交わした会話のせいで、少しだけ入りにくい。
企画部のドアの前で平静を装うために深呼吸をしていると、後ろから伸びて来た手がドアを押して開けてくれた。
驚いて仰ぎ見れば、そこにいたのは佐々木くんだった。
「どうぞ」
どうやら、昼ご飯を食べに行ってちょうど戻ってきたところのようだ。ドアを支えていないほうの手には財布が握られている。
「あ、ありがとう……」
佐々木くんも少なからず私に気まずさを感じているのか、いつもの元気な様子はない。
捻った左足を引きずり庇いながら、オフィスの中に入ると百合川さんと野々山さんが私を見つけて駆け寄って来る。
「先輩! 足、大丈夫ですかぁ!?」
「昨日、捻ったって聞きました」
心配そうに私の体を、他に怪我しているところを探すかのようにあちこち覗き込む二人に圧倒され、それから吹き出してしまった。
「あはは、大丈夫。軽く捻っただけだから。病院で一応テーピングしてもらって、かなり楽になったよ」
「もぉ~、本当に気を付けてくださいね」
先輩に何かあったら生きられません、と泣き真似をしながら言う百合川さんに、私が「大袈裟」と返すと、野々山さんも笑った。
しばらく談笑していると、もうすぐ午後の業務が始まる時間になる。それぞれがデスクに戻る中、佐々木くんがそっと控えめに声を掛けて来た。
「……あの、杏南先輩」
「うん?」
「昨日は、すみませんでした」
申し訳なさそうに下げられる眉。私よりも随分と大きな体だけれど、それはまるで仔犬のような雰囲気だ。
「ううん、こちらこそ。心配、してくれたんでしょう?」
「はい。いや……でも、」
佐々木くんは言葉をまごつかせる。けれど、何かを言葉にするのを諦めたのか、もう一度「はい」と頷いた。
私も、もう一度彼に、「王司さんとはどんな関係でもない」と言おうとして、やっぱりそれは飲み込んだ。
少しずつ王司さんに惹かれている自分自身を、どこかで認めたかったから。
それが、その一歩になればいいと密かに願いながら。
退勤時間になり、帰宅の準備が済んだ人たちからオフィスを後にしていく。
午後の業務はとてもスムーズに終わり、私も私と同じチームに所属している社員たちもみんな、残業はなく帰宅することができそうだ。
「杏南先輩、ひとりで帰れますか? 俺、また送りますよ」
「大丈夫。今日はタクシー呼んで帰ろうと思ってるから」
「分かりました。何かあったら呼んでください!」
すぐ駆けつけるんで! と佐々木くんは自分の胸を叩く。それから、「お疲れさまでした!」といつもの彼らしく、元気な声とともに帰って行った。
いつも通りの佐々木くんに戻ったことに安堵しながら、私も帰り支度を済ませる。
エレベーターに乗り、会社のエントランスに向かう。社員証を出して、ゲートを抜けようとしたとき。
会社の外に、王司さんの後ろ姿を見つけた。声をかけようか、と悩んでいると、彼の隣に女性が立った。
絹のように艶やかで真っ直ぐなロングヘアーを揺らし、その人――西園寺茜さんは、王司さんの腕に控えめに触れた。
――あの人、婚約者がいるんですよ。
佐々木くんの言葉が、脳内に響く。
王司さんが、ふわりと笑いかける。ただそれだけなのに、二人の間には特別な何かがあると、感じさせるには充分すぎた。