昼食をともにして以来、王司さんとは社内でも顔を合わせれば、普通に話ができるようになった。
休憩室で他愛ない話をしたり、営業前に企画部からのアドバイスが欲しいと仕事の話をしたり。
どんな話でも、王司さんは私の目を真っ直ぐに見て聴いてくれる。そんな些細な仕草が、とても嬉しかったし、彼の人柄の良さを感じさせた。
「ありがとう。企画部のその話、先方にも交えて伝えてみるよ。きっと向こうも納得してくれると思う」
「また何かあったら、いつでも」
そう返せば、王司さんはニッコリと笑って、もう一度「ありがとう」と言った。
「じゃあ、そろそろ打ち合わせの時間だから」
「はい。上手くいくことを祈ってますね」
お疲れ、と右手を上げ、休憩室を出ようとしている王司さんの背中に思わず「あ、」と声を掛けてしまった。
王司さんは、私の小さな声も聞き逃すことはなく、「うん?」と足を止め、振り向いてくれる。
「あの……今度、営業部的にこんな商品があったら良いな、とか教えてください」
王司さんが、きょとんとした顔をする。
「営業部が一番、クライアントと関わっている機会も多いですし。そういう意見も訊けると、また新しい形で企画を上げられるかなって思って」
どれも本心で話しているけれど、なんだかとても照れ臭くなってしまって王司さんから目を逸らす。
うまく目を見ることができなくなってしまったけれど、王司さんが優しく笑ってくれたことが空気で分かった。
「もちろん、俺で良ければ」
柔らかな声色に誘われるように視線を戻せば、穏やかに微笑む王司さんと目が合う。
心臓の奥で、小さな水滴が落ちたよう。甘い痛みが、波紋のように広がる。
思わず、キュッと胸の前で小さく拳を握った。
「それじゃあ、また」
「はい。また」
手を振り合い、王司さんは休憩室を後にする。扉が閉まった後も、私はなかなか自分の手を下げることができなかった。
いつの間にか私は、王司さんの『運命の人』という言葉を、そして、『久遠さんにだけ』という言葉を、信じたいと思っていた。
それからまた、数日後の午後。
私は、オフィスの前方に置かれているホワイトボードの外出欄に、『久遠』と『佐々木』と書かれたマグネットシートを貼り付けた。
今日はこれから、佐々木くんと一緒に街まで出て、マーケティング調査に出掛けることになっている。
「それじゃあ、佐々木くん。行こうか」
「はい」
佐々木くんと一緒に、他の社員たちに「行ってきます」と挨拶をしてオフィスを後にする。
エントランスを抜けると、外は夏の到来を告げるような陽射しで眩しい。
午前中に降っていた雨は止んで、ところどころに水溜まりはあるが、この天気ならすぐにそれも乾くだろう。梅雨が明けるのも近そうな雰囲気が漂っている。
「まずは、丸藤デパートから行きますか?」
「そうだね。うちの商品を扱っているショップだけじゃなくて、最近はライバル会社も参入してきたみたいだし。動向をチェックしておきたいかも」
「そうっスね」
さっそく行きましょう! と、佐々木くんは元気よく歩き出す。彼は、持ち前の明るさからいつもチーム内の空気を良くしてくれるムードメーカーだ。
彼とは大学時代も一緒に過ごしたことがあるけれど、そのときもいつも場の空気を明るく、そして活気づけてくれる人だった。
彼と一緒に行動していると、私も「先輩として頑張らないと」とやる気が出てくる。
丸藤デパートまでは徒歩で十五分ほど。衣料品、雑貨、食品と幅広い商品を取り扱い、この辺りでは一番大きく、歴史あるデパートだ。
西洋のお城のような外観に、来るたびいつも圧倒され、そしてその美しさに心が躍る。
それを顔に出さないよう気を付けながら、デパートのエントランスを抜けようとしたときだ。
前方から走って来た子どもを上手く避けきれず、足元がふらつく。
「うわっ、先輩、大丈夫ですか!?」
ちょうど左側を歩いてくれていた佐々木くんが支えてくれたおかげで、派手に転ぶことはなかった。
「うん、大丈夫。ありがとう」
私の体に軽くぶつかった男の子は、「ごめんなさーい」と謝りながら去っていった。その後ろを母親と思わしき女性が、私に「すみません」と申し訳なさそうな表情で駆けてくる。その女性に「大丈夫ですよ」と声を掛けると、彼女はもう一度私に頭を下げてから、男の子の背中を追いかけていった。
「元気ですね」
佐々木くんが苦笑いをして言う。
「そうね」と頷き、走り去っていった2人を見送った。そして、店内に入るために一歩足を踏み出したとき。左足首に、ズキッと痛みが走る。うっ、と漏れそうになる声を、唇を噛んで堪えた。
大丈夫とは答えたけれど、どうやらふらついた拍子に足首を捻ったようだ。
まだ仕事も残っているし、佐々木くんに心配はかけたくはない。
今のところ、我慢できないほどの痛みでもない。外回りが終わるまで、何とか耐えることもできそうだ。
……そう思っていたけれど。
時間が経つほどに、足の痛みは増してくる。ズキンズキンと響き、熱を帯びた痛みが足を動かさなくても襲ってくるようになってしまった。
「杏南先輩……?」
ついに足を止めてしまった私に気付いて、数歩先を歩いていた佐々木くんが慌てた様子で引き返してきた。
「ごめんなさい、ちょっと座ってもいいかな」
デパートを出た先。街路樹を取り囲むようにできたベンチに腰を下ろす。
「足、めちゃくちゃ腫れてるじゃないですか」
私の前に跪くようにしてパンプスを脱がせてくれた佐々木くんが私の足にそっと触れる。痛みで顔を顰めれば、「すみません、痛いですよね」と佐々木くんは手を引っ込めた。
「いつからですか?」
「デパートの入り口で、男の子とぶつかりそうになったときに捻ったみたい」
「そんな前から……!?」
もう二時間は経ってますよ、と佐々木くんは目を見開く。
「そのときはあまり痛くなかったの。それに、心配かけたくなかったし……」
「心配かけたくないって……」
はぁ、と佐々木くんは大きく溜息を吐く。それから、ぐしゃぐしゃと苛立ったように自分の髪を右手でかき乱した。
「ごめん、なさい」
「杏南先輩に苛立ってるわけじゃなくて。気付けなかった自分に腹が立ってるんです」
佐々木くんは唇を尖らせる。それから、彼はもう一度深い溜息を吐くと、スマートフォンを取り出してどこかへ電話を掛け出す。その様子を見守っていると、どうやらオフィスに電話を掛けたようだった。調査に想ったよりも時間がかかっているから、そのまま直帰するという内容を話していた。
そして、通話を切ると彼は私に手を差し出した。
「先輩の家まで送っていきます」
「え、でも……」
「どうせすぐ無理するでしょ」
じとっとした目を向けられ、口を噤んだ。
「ちゃんと家に帰って、安静にするところまで見届けてから帰ります」
「……信頼されてないのね」
今度は私が溜息を吐いた。
「伊達に、大学時代から先輩のこと見てませんよ」
ほら、ともう一度、自分の手を掴むように佐々木くんに促される。
「タクシー捕まえるんで、少しだけ立てますか?」
大人しく私は頷き、佐々木くんの手を借りて立ち上がった。
佐々木くんに家まで送ってもらうことは少し気が引けたが、それ以上に足の痛みが激しく、ここは甘えたほうが良いと私の本能が告げている。
それに佐々木くんは、大学生時代の私を知っていて、ナナコ以外に可愛いものが好きな私のことも知っている貴重な人だ。
「迷惑かけてごめんね」
「何言ってんですか。いつも迷惑かけてるのは俺たちのほうなんで、たまには頼ってくださいよ」
佐々木くんはそう言うと、くしゃっとした笑顔で可愛らしく笑った。