午前中に行われた上層部に対するプレゼンが終わり、会議室で使った機材や書類の片付けをしていた。
「久遠さん」
ホワイトボートに書いた文字をクリーナーで消していると、優しい声色で声を掛けられ振り向く。そこにはニコニコと微笑む王司さんがいて、私に「お疲れ様」と片手を軽く上げた。
「王司さん。お疲れ様です」
上のほうやるよ、と王司さんは私の手からクリーナーを攫って行く。拒む暇もなく、さらりと役割を取られてしまい、「ありがとうございます」と頭を下げた。
こういうところは、すごく紳士的な人なんだよな……と思う。
「プレゼン、大変だった?」
「いえ。みんなが頑張って用意してくれたおかげで、上層部の反応も上々でした」
「それは良かった。営業部まで上がってくるのを楽しみにしてる」
「そのときは、しっかり営業、よろしくお願いします」
冗談めかして言えば、王司さんも「了解」と笑ってくれた。ふわりと目尻を下げる笑い方にドキッとする。
王司さんと関わる機会が増えて気付いたけれど、彼の笑顔には厭らしさがない。爽やかで、優しい顔で笑う人だ。
とても、複数の女性をたぶらかしているような人には見えない。
――久遠さんにだけ。
昨日、資料室での王司さんの温もりがふと自分の中で過る。握られ、絡められた手。それから、耳元で囁かれる甘く低い声を思い出して、思わず自分の耳を隠すように手を当てた。
急に私が奇怪な行動を取るものだから、隣から王司さんが「おおっ」と驚いたような声を上げる。
「どうしたの」
「いいえっ、なんでもありませんっ」
昨日あなたに触れられたことを思い出したなんて、口が裂けても言えない。首を横に思い切り振って、それから騒がしくなった心臓を落ち着かせるために一度、深く深呼吸をした。
「そういえば、今日の昼ご飯の予定は?」
ホワイトボードを綺麗にし終わった王司さんから質問が飛んでくる。私は、ようやく落ち着きを取り戻しつつ、資料をファイルの中に仕舞いながら、私は「まだ……」と答えた。
「これから近くのお店に食べに行こうかなって思っていて」
「そうなんだ。それなら、俺も昼まだだから、一緒にどう?」
王司さんからのお誘い。今までにも何度か誘われたことはあるけれど、まだ一度もそれを受けたことはなかった。
「実は、それを誘いに来ただけなんだけど」
そう言って、王司さんは照れたように頬をかいた。
「いいですよ」
「そうだよね、また今度出直し……って、え!?」
王司さんは、本当に驚いたようで目を見開いて私を見る。
「どこに食べに行きましょうか」
「えっ、いいの?」
「はい。ぜひ」
ちょっと待ってね、と王司さんは言って、顔を背ける。「嬉しい」と、片手で口元を覆った顔は、少しだけ赤い。
本当にその表情は、嬉しそうに見える。
今まで王司さんと関わることは避けてきたけれど、雷雨の日に別フロアから駆けつけてくれた優しさが、心に残っていた。
私が噂で知り、思っているような人ではないのかもしれない。
そう考えたら、もう少しだけ王司さんのことを知りたくなった。
王司さんとやって来たのは、職場近くのお蕎麦屋さん。佐々木くんや百合川さんたちと前をよく通っていたけれど、まだ入ったことのないお店だ。いつも気にはなっていた。
「ここで良い? 俺の行きつけなんだ」
「はい。私、このお店ずっと気になってて」
お店の前に置かれたメニュー表の写真はどれも美味しそうだ。値段も手ごろで、いつか来ようと思っていた。
「それなら良かった。ここはお蕎麦も美味しいけど、俺がオススメするのは天丼」
「天丼、いいですね」
じゃあ今日はそれを頼もうかな、と言えば、王司さんは「俺も」と頷き、店の中に入るとすぐに店主さんに向かって「天丼2つ」と声を掛けてくれた。
お水はセルフサービス式らしい。ウォーターサーバーの隣に置かれたグラスを2つ手に取り、お水を注いで持っていく。
「お水どうぞ」
「ありがとう」
店内はそれなりに賑わっていて、職場から近いこともあって何人か社内で見かけたことがある人たちもいる。
時折、視線も飛んでくるし、ひそひそと私たちを見て何かを話す声も薄っすらと聞こえてきた。
王司さんと二人でお昼を食べに来たことを誰かに見られるかも、というのがすっかり頭から抜け落ちていた私は、自分の背中に冷や汗が伝う。
そういえば、百合川さんの話では、王司さんが私を構い倒しているなんて噂が立っているとも言っていたし……。
「伊月さん」
不意の呼びかけ。私と王司さんは、声がするほうを振り返った。
以前給湯室で王司さんに腕を絡めていた、同じ企画部の女性社員・
可愛らしくラメが瞼に光る大きな瞳を、ギロリと動かして染野さんは私を見る。思わず、喉の奥がキュッと締まった。
近所の野良猫に睨まれたときの恐怖に似ている……。
「どうして、久遠さんと一緒なんですか!?」
怒ったような口調。私はそっと王司さんを窺い見る。王司さんは、それに困ったように眉を下げた。
「俺が、誘ったからだけど……」
「どうして私じゃないんですか!? 私の気持ちを知っているのに、こんなのひどいです!」
これは修羅場では……、と口角が引きつる。
何なら、席を外しますよ、と言いたい。居心地がとても悪い。
王司さんは、染野さんの気持ちにちゃんと応えていないのだろうか。もしそうなら、彼女が怒る気持ちも、とてもよく分かる。
「君の気持ちには応えられないって、俺は前にも伝えたと思う」
王司さんが優しい声色ではあるが、ぴしゃりと言う。
彼女は、わなわなと瑞々しいチェリーのように赤い唇を震わせた。
「でも、久遠さんは王司さんに興味ないですよね!? いつも、冷たくあしらっているの、知ってますよ! 私なら王司さんにそんなことしない!」
周りの視線が集中する。
これ以上ここで、大きな声でこういう話をするのは、彼女と王司さん二人にとってとても良くない。
また、あらぬ噂が社内を駆け巡ってしまうのが目に浮かぶ。
「あの、とりあえず一旦外に……」
「久遠さんが俺に興味がなくても、俺が君を好きになることはない」
私の言葉を遮るように王司さんが言う。とても強い瞳で、彼女のことを真っ直ぐに見ていた。
「君に期待をさせてしまうような態度を取っていたなら申し訳ないと思う。もう二度と、そういう態度で接しない。俺には、久遠さんだけだから」
包み隠すことのない言葉。
染野さんは言い返す言葉が見つからないのか、口をパクパクと動かしていたが、そこに声が乗ることはなかった。
私も、思わず口を噤む。
「何回も誘って、やっと今回一緒に食事に来てくれることになったんだ。申し訳ないけど、外してくれるかな?」
その言葉を聞いた彼女は、目にみるみるうちに涙を溜めて、「ひどい!」と吐き捨てると狭い店内を走り去っていってしまった。その後ろを、彼女と同期の子たちが慌てて追いかけていく。
「あの……よかったんですか?」
おそるおそる、そう尋ねれば、王司さんは「ん」と小さく頷いた。
「今まで俺が、不誠実な態度を取って来たツケだよ。彼女にも申し訳ないことをしたと思ってる」
そう、王司さんは眉を下げてグラスに入った水に口をつける。
それから、小さく溜息を吐いた。
タイミングを見計らったように、店員さんが私たちの席に黄金色に輝く天丼が運んできた。
「……でも、少しだけ王司さんの誠意、伝わりました」
「え?」
ぼそっと言葉を吐いたから、うまく王司さんには届かなかったようだ。彼が、「もう一度言ってくれる?」と首を傾げている。
「早く食べましょう。とても美味しそう」
「えっ、うん」
戸惑う彼に割り箸を渡す。
いただきます、と手を合わせた。
一口食べて、この天丼を彼がオススメする理由が分かった。それはとても良い香りで、衣もサクサクしていてとても美味しい。
オフィスに戻ったら、きっともう色々な噂が飛び交っているのだろうな。でも、今はそれも、あまり気にならなかった。