いつか父親が会長を務める本社【王司商事】を継ぐための勉強として、父親から子会社である【ミアルカ】の経営を任されてから4年目の春。
イタリア語の『私の』という意味の『ミア』と、『光』という意味の『ルカ』から造られたブランド名で、ウェディングアイテムのデザイン、製造、販売を行っている。
経営の難しさは日々感じながらも、売上も上々。世間からの反応も良く、父親からの評価もまずまずといったところだ。
昼下がりの社長室。俺は、小さな指輪を眺めていた。
上質なシルバーが窓から差し込む光を反射して、キラキラと光っている。台座にはピンクコーラルの石が輝いていて、まるで可愛らしい小花のようだ。
子どもサイズとは思えないくらい、丁寧で高品質なものだ。
その指輪の内側にそっと目を凝らす。そこには小さな文字で『Dear Anna』と彫られている。
植物園で出会った、指輪を失くした女の子。俺の初恋の人。
この指輪の持ち主で、彼女の名前が『アンナ』だというのに気付いたのは、ローマ字が読めるようになった頃だった。
10年以上、頭の中で何度もその名前を呼び続けて来た。
――指輪を見つけたら、必ず君に会いに行く。
そう言った俺に、目に涙をいっぱい溜めながらも笑顔で頷いてくれたあの子は、今どこで何をしているのだろう。
20年経ってもまだ、俺は彼女を見つけられず、この指輪を返すことができていない。
扉をノックする音が社長室に響く。指輪をケースに入れ、ジャケットのポケットに仕舞いこみながら「どうぞ」と入室を促せば、「失礼します」と静かな声と共に、秘書の
年齢は俺と同じくらい。元々はアパレル会社を経営している母親の秘書を務めていた男性だ。
「伊月さん、こちら明日のスケジュールです。目を通しておいてください」
「ああ、ありがとう」
プリントアウトされた紙を受け取り、軽く目を通していく。彼はそんな俺を見ながら、「それと」と言葉を続けた。
小野崎は片手で細い銀フレームの眼鏡を直した。涼しげな切れ長の瞳と目が合う。
「伊月さんが探していらっしゃる、指輪の持ち主が分かりました」
淡々と紡がれたその言葉に、一瞬だけ呆けてしまう。
「え……見つかったのか?」
「はい。そちらの指輪は、アトリエ唐沢の職人である
「どうやって調べたら分かるんだよ、そんなこと……」
俺が二十年探しても分からなかったんだぞ、と返せば、小野崎は「秘密」ですと軽く微笑む。
「まぁ、ワタクシにも伝手は色々ございますから。といっても、今回はとても難しい案件でございましたけれども」
骨が折れました、と小野崎は自分の肩を揉む仕草をした。クールな見た目に反し、なかなか茶目っ気があるとも取れる。
「それで、その、久遠杏南さんはどこに……」
「本社です」
食い気味に返された言葉に、「うん?」と首を捻る。
「ごめん、どこって?」
「ですから、本社です」
「どこの?」
「うちの。
「はぁ!?」
思わず大きな声が出た。小野崎は「うるさいですね」と眉を顰める。
いやいや、大きな声も出したくなるだろう。探していて、何年も想い焦がれていた相手が、自分の父親が会長を務める会社に3年も務めていたのに気付かなかったんだぞ。
そんなのって。そんなのって……!
「俺は今すぐミアルカの代表を降りて、本社に異動する」
今度は小野崎のほうが「は?」と目を白黒とさせた。
「伊月さん、それは正気ですか?」
「ああ」
「しかし、会長が何と仰るか……」
「無理を承知なのは分かってる。でも、必ず会いに行くって約束したんだ」
いや、会いに行くだけなら別に……、と小野崎が何やらごにょごにょと言っている。
小野崎が言うことも分かるけれど、俺は彼女の傍にいたい。指輪を渡しただけで、そのあとまたすぐに会えなくなってしまうなんて嫌なんだ。
今、彼女がどんな人かも分からない。けれど、きっとこれは『運命』だと、俺は信じているから。
今後のために本社で学びたいとあれこれ理由をつけて父親を何とか説得し、ミアルカの代表から本社勤務になったのはそれから1ヵ月後のこと。
久遠さんと同じ企画部を望んでいたが、営業職のほうが色々と学ぶことも多いからと、そこだけは望みは叶わなかったが背に腹は代えられない。
「……って、全然探せないじゃないか!」
外回りから帰って来た俺の声が、受付スタッフしかいない吹き抜けのエントランスに響き渡る。
こんなはずでは……こんなはずではなかった!
せっかくミアルカから本社にまで異動してきたというのに……!
想像していた以上に営業の仕事が忙しすぎる。社内で久遠さんの存在を探している暇なんて皆無だ。外回り、外回り、商談、商談の連続だ。
顔写真を、と言ってくれた小野崎に、「運命の人なら探し出せるはずだ」と見栄を張って言った、ミアルカを去る日の自分を責めたい。小野崎が「言わんこっちゃない」と眼鏡を指で押し上げている姿が見える。
しかし、こんな風に項垂れている俺に、すぐに好機が巡り訪れることになる。
「放っておいてくだしゃい、わたし、いま、ひとり反省会ちゅうですので」
行きつけのバー。初めて見る顔の女性が、ものすごい勢いでお酒を煽るから咎めれば、彼女はふにゃふにゃとした表情で、お気遣いなく、と手のひらを差し出してきた。
「いやいや、そういうわけにもいかないでしょう。マスター、お水」
マスターは俺に頷いて、ピッチャーから冷たい水をグラスに注ぐ。そして、彼女の前にそれを差し出した。彼女の目の前にあったお酒は、手が届かないように遠ざけておく。
「お姉さん、話聞かせてくれる? 俺でよければ、だけど」
きっと何か思い悩んでいるのだろう。お酒で流してしまいたい何かがあるのかもしれない。
俺の言葉に促されるように、彼女はぽつぽつと自分のことを話し始めた。
お姫様に憧れていること。けれど、今はそれを隠して生きていること。
確かに彼女の服装は、ビジネスルックというのもあるのだろうけれど、可愛いとは真逆のクールなパンツスタイルだ。
女性も色々あるのだな、と相槌を打ちながら話を聞く。
眠ってしまいそうな瞳と、か細い声で彼女は言葉を続けた。
幼い頃に植物園で失くした大切な指輪を、一緒に探してくれた王子様を、今も待っていることを。
「ちょっと待って」
彼女の言葉を遮り、止める。彼女は、ふわふわとしたミディアムボブの毛先を揺らして、俯き気味だった顔をあげた。
ジャケットの内ポケットを探る手が、いつもより焦る。
何とか引っ張り出した小さなリングケースを開く手が、微かに震えた。
「植物園で落とした指輪って、もしかしてこれのこと?」
子どもサイズの指輪が、照明の光を反射させて光り輝いている。
「これ……!」
パッと丸く開かれる瞳。その大きな瞳に、面影を見る。
あの日、指輪が見つけられなかった夕暮れの植物園。色とりどりの花の中で、目に涙をいっぱい溜めながらも、「うん」と俺に頷き返してくれた女の子。
その子が、今、目の前の彼女に重なった。
やっぱり、彼女は、俺の運命の人だ。だからこうして、再び巡り合うことができたのだろう。
もう何があっても、絶対に、彼女を見失ったりしない。
前の前でふわりと柔らかく微笑む彼女に、俺は誓う。