あんなに激しく降り続いていた雨も 私が職場を出るころにはかなり弱くなっていた。
自宅に戻り、シャワーを浴びて寝支度をする。ふと時計を見ると、時刻は22時になろうとしていた。
(王司さんは、ちゃんと自分の仕事進んだのかな……)
雷が落ち着くまで、かなり長い時間私の傍にいてくれていたけれど。
内線で話した内容では、明日は営業に回るようなことも言っていたし。
次に顔を合わせたときに、改めて今日のお礼を伝えて、仕事に支障はなかったか聞いてみよう。
息を切らして、駆け付けてくれた王司さんの姿を思い出す。
そして、なぜか急に真っ赤にさせた横顔も……。
シャワーも浴びて、もうジャケットも手元にないのに、王司さんの香りがふわりと香った気がして、胸がきゅんと締め付けられるような感覚が走る。
――君に『運命』って言ったこと、信じてもらえた?
王司さんの言葉が脳内で響く。
それを言われたとき、私はそれに対して「信じる」とも「信じない」とも言えなかった。
第一印象の軽いイメージが強すぎるというのももちろんあったのだけれど、関わりが増えていくにつれて知っていく王司さんの顔に戸惑っていた。
外したピアスを入れるために開けたジュエリーボックスの中。お祖父ちゃんの指輪が光っている。
(……王司さん、本当は……)
シルバーのリング部分をそっと指先で撫でる。照明を反射して、きらりと優しく光った。
王司さんとの再会は、それから一日もしない内に叶った。
午後の業務で使う資料を資料室まで取りに行った。新しいものは全てデータ化されていつでもパソコンから資料を確認することができるが、数年前の古いものは資料室に紙媒体で保管されている。
「えーと……」
手元のメモを確認しながら、必要な資料をカゴの中に入れていく。
ある程度整理されてはいるものの、なかなか時間がかかる作業だ。
「久遠さん、何してんの?」
「うひゃぁ!」
突然背後から掛けられた声に、悲鳴と共に飛び上がった。
慌てた足元が、高いヒールのせいでバランスを崩す。
(ひゃっ、倒れる……!)
これから受けるであろう衝撃に備えて目をギュッと閉じた私の体には、痛みが走るのではなく、柔らかな温もりに包まれる。
瞬間、舞う爽やかな香り。この香りは……。
「あぶなかった……」
ほっ、と安堵したような声に顔を上げれば、やはり王司さんが私の体を抱き留めてくれていた。
「久遠さんが、すごく怖がりな人だっていうのは分かった。もう後ろから声は掛けない」
まさかあんなに驚かれるとは、と王司さんは反省したように眉を下げながら、私が体勢を整えるまでサポートしてくれる。
「い、今のはちょっと、油断してただけで」
「そうかな」
「そうです」
「でも、前に給湯室で声を掛けたときも……」
「あのときも、油断してただけで!」
怪しむ視線を送って来る王司さんに、「もう大丈夫ですから」と離れるように言う。 心臓は、まだドドドドと早鐘を打っているけれど、はぁ、と溜息を吐くように一息ついて、乱れたジャケットと髪を整えた。
「王司さんこそ、資料室に用事ですか?」
「いや、俺は久遠さんに会いに」
「私? どうして」
「今、営業から戻ってきたところだったんだけど。昨日、データ送ってくれたおかげで、上手くいったから、お礼を伝えようと思って。企画部行ったら、百合川さんがここにいるって教えてくれた」
営業という言葉を聞いて、私もハッと思い出す。会えたら、昨日のお礼を伝えようと思っていたんだった。驚きすぎたせいで、そのことを一瞬忘れてしまっていた。
「あの……昨日は、ありがとうございました」
「ああ、あの後は大丈夫だった?」
「はい。えっと……王司さんは、大丈夫でしたか? 残ってやっていた作業。あのあと、時間かかったんじゃないかなって」
そう問えば、王司さんは「あー……」と言い淀む。
「ちょっと時間はかかった、かも」
「えっ、すみません。私のせいで、」
「うん、久遠さんのせい」
やっぱり私のせいで迷惑をかけてしまっていた。私が、雷と停電なんかを怖がったばっかりに。
本当は早く業務に戻りたかったのに、王司さんはなかなか戻ることができなかったのかもしれない。
サーと血の気が足元へと引いていく感覚がする。
そんな私を見て、王司さんは「ふふ……っ」と堪えきらないと言うように吹き出した。
「ごめん、からかっただけ。冗談だよ、冗談」
「じょ、冗談!?」
やっぱり、一瞬でも優しいと思っていた私が間違っていたのだろうか。
良い人かも、なんて思ってしまったことが悔しい。
やっぱり、この人は私の反応を見て面白がってるだけ――。
「はぁ……。もういいです、私忙しいので、」
早く資料を探して企画部に戻ろう、と振り向いた拍子。
棚に体がぶつかった。
ぐらり、と棚の上に置かれた段ボールが大きく傾くのが視界の端に映る。落ちる……っと、思わず手を伸ばしたとき。
隣から伸びて来た長い腕が、いとも簡単にそれを押し戻した。
私の背中に、ほんのりと温もりがぶつかる。
王司さんの腕があるせいで、抜け出せない。棚と王司さんの体に挟まれて、どこにも行けなくなってしまった。至近距離に王司さんがいるのが分かるから、振り向くことすらできない。
「ごめん、からかうのもやめる。ころころ変わる表情が可愛くて、つい」
低く、真剣な声が、私の鼓膜を揺する。
心臓はまた鼓動を早めるけれど、今度は驚いたからなんかじゃない。距離の近さに動揺している。
「でも、久遠さんのせいで仕事が遅くなったのは、本当」
「……どうして、ですか?」
喉が渇く。
声は、絞り出したように小さく掠れた。
「来てくれて嬉しかったって言ってくれた久遠さんが、あまりに可愛かったから」
あ、と私の口から微かに声が漏れた。昨日、王司さんの顔が赤くなっていたのは、私の一言のせいだったのか。
素直な言葉を言っただけだったのだけれど、今更になって自分が吐いたその台詞がくすぐったい。
「……みんなに、そういうこと言ってるんですよね?」
手持ち無沙汰のまま棚に置いた私の手を包むように、王司さんの手が重なる。その手は、私の手よりも少しだけ体温が高い。
「言ってないよ、久遠さんにだけ。最近は、君にだけ優しくするように努力してる」
王司さんの長い指が私の手の甲を撫でて、それから私の指の間に絡ませるようにしてキュッと握られた。
これを素でやっていると、この人は主張するのか。
王司さんの香りと声と体温にクラクラと眩暈がしそう。
「女性と関わるのはあまり得意じゃないんだ。だから、強く拒否とかできなくて。でも、まさか、それが……女の子をたぶらかしてるなんて噂されてるとは思わなかったけど……。でも、やっと君を見つけられた。だから、俺は、父さんに頼み込んでまで、本社に……」
かたん、と物音がした。
パッと王司さんの手と体が離れていく。
「杏南せんぱーい? 資料、見つかりました?」
入口のほうから佐々木くんの声がする。私の帰りが遅いから、様子を見に来てくれたのだろう。
「あっ、うん! もう見つかったから、すぐに戻る!」
上擦り気味な声で佐々木くんに返事をした。
甘い檻からようやく解放されて、痛いくらい鼓動を早くする胸を落ち着かせるように深く息を吐き出した。
「俺は本気だから。信じて」
王司さんは、私の耳に唇を寄せてそっと小声でそう告げる。せっかく抑えた心臓の鼓動も、去り際にふわりと微笑んだ笑顔を見たら、また跳ねて騒がしくなるから苦しい。
「お疲れさまです」と、入口のほうで王司さんが佐々木くんへ挨拶する声が聞こえてきた。
その声はいつも通りで、さっきまで私に体を寄せていたことも感じさせない。
「うわっ、杏南先輩。どうしたんすか、そんなところで蹲って」
「……なんでもない」
「本当に? いやでも、顔、すげぇ赤い……」
熱でもあるんじゃないですか、と佐々木くんは私の額に手を当てる。
「ち、違うから。熱はない」
みんな待ってるよ、と佐々木くんの手を避ける。
そんな答えじゃ納得していないように、佐々木くんは怪訝そうな目を向けてくる。
「早く、みんなのところ戻ろう」
佐々木くんのその視線から逃れるように、顔を背けて資料が入ったカゴを持ち上げた。
――久遠さんにだけ。
気を抜くと、王司さんの声が頭の中で何度もリフレインされてしまう。
そう言った王司さんの言葉を、私は信じてもいいの……?