静かなオフィスに響く着信音に一瞬肩が跳ねた。
「な、内線……?」
私の他にもまだ誰か仕事をしているのだろうか。
おそるおそる受話器を耳に当て、平静を装った声を作る。
「お疲れさまです。企画部の久遠です」
『あ、お疲れさまです。営業部の王司ですが、』
その名前に私が「あ、」と声を上げるのと、王司さんが「って、あれ?」と気付くのはほぼ同時だった。
『久遠さん、また残業?』
「またってなんですか、またって」
『この前も残業してたよね』
そう言って王司さんは笑うから、私はムッと電話越しなのに顔を顰めてしまう。
「それは、王司さんもそうでしょう?」
『確かに他人のことは言えないかもな』
それにしても、と王司さんは続けた。
『さっきの停電には驚いたよ』
「あ、そうですね。急に真っ暗になっちゃって、私も少し驚きました」
パソコンも無事に再起動できて良かった、と返す。
「それで、王司さんは企画部に何か用事があって内線かけてきたんじゃないんですか?」
『あっ、そうだった』王司さんは用件を思い出したような声を上げた。
『さっきの停電のせいか、企画部から貰ったデータが少し壊れてて。明日の営業で使うから、再送してもらいたいんだけど』
「あ、分かりました。えっと、どの商品のデータでしょうか」
『瀬尾工房のジュエリーで……』
王司さんからの情報で、パソコン内のデータからファイルを検索する。目的のものはすぐに見つかった。
「あっ、ありました。王司さんのメールに送ったらいいですか、」
そう言い切る直前、また窓の外でピカッと稲妻が走ったのが見えた。雷鳴は遠くのほうで聞こえるが、私の心を動揺させるには充分すぎる。
『うん。俺のアドレスに送ってもらえると助かる』
「……」
『……久遠さん?』
名前を呼ばれ我に返り、慌てて口を開く。
「えっ、あっ、はい、すみません」
なるべく、窓の外は見ないようにしよう。雷も遠いし、また停電になるとは限らないし……。
「王司さんのアドレス宛てですよね、分かりました、えっと……」
平静を装うと思っても震える手ではマウスもキーボードもうまく操作できなくて、余計に焦る。動揺を隠すために愛想笑いが口から漏れ出た。
「あ、はは。すみません、片手だからかな? もたついちゃって、」
『……ごめん。やっぱりUSBメモリにデータもらおうかな。今からそっちのフロアに受け取りに行くから、待ってて』
「えっ、」
受話器を置く音と共に、一方的に王司さんからの電話は切られた。
こっちに来るって言った?
どうして?
私がメール送信に手間取っていたから!?
入社して4年も経つのにそんなこともまともにできないのかと呆れられてしまったのかもしれないと慌てていれば、扉が開いた。
企画部のオフィスに入って来た王司さんは、なぜか息を切らしている。
「い、急いで来たんですか?」
私のデスクまでやって来た王司さんに問えば、彼は呼吸を整えながら
「また停電になってエレベーター止まったらいけないと思って、階段で下りて来た」
「それにしても、そんな息が切れるほど急がなくても……」
「久遠さん、雷とか停電、苦手なのかなって思って」
「そんなこと、」
ないです、と続けようとした瞬間、また心臓を揺さぶるような雷鳴が響く。
「ッ!!」
悲鳴は何とか堪えたものの、思わず目の前にいる王司さんの腕を掴んでしまった。
「ご、ごめんなさい、急に掴んじゃって。」
「手、震えてる」
慌てて離そうとした手を王司さんは一度、優しく握った。
そして、頭にふわりと何かが被せられ、視界が暗くなる。
「えっ、なに……」
「落ち着くまで、それ被ってていいよ」
その声に王司さんを見れば、ワイシャツ姿になっている。被せられたものにそっと触れて、それがさっきまで王司さんが着ていたグレーのジャケットだと気付いた。
「でも、」と言いかけて、また鳴った雷の音にギュッとそのジャケットを握り込んでしまう。
「あ、ありがとうございます」
大人しく、これをお借りすることにしよう。そうしないと、ずっとバクバクと鳴っている心臓のせいで醜態を晒してしまいかねない。
……もう充分、これだけでも恥ずかしい姿を晒してしまっているとは思うのだけれど。
「今、画面に表示されてるデータで良いのかな?」
「あ、はい。それです」
「じゃあ、俺のUSBにコピーさせてもらうね」
「はい」
王司さんは隣のデスクから椅子を拝借すると、私のデスクのほうへ寄せてからパソコンの操作を始めた。
その横顔をジャケットの隙間からそっと覗き見る。
綺麗に整った顔立ち。そう言えば、彼の顔をしっかりと見たことはなかったなと気付く。『王子様』と表現される噂以上に、とても綺麗な人だ。
私の視線に気付いたのか、王司さんがこちらに視線を動かすから、私は慌てて目を逸らした。
くすっ、と小さな笑い声が聞こえてきて、なぜだかそれだけなのに自分の顔が赤くなっているような気がする。
「おかしい、ですよね」
「なにが?」
ちら、と王司さんを見る。彼は首を傾げていた。
「もう良い大人なのに、雷とか停電とかを怖がるなんて……」
昔から怖がりなんです、と紡ぐ。
「全然、おかしくないと思うけど」
間を置かず返された言葉に、「えっ」と顔を上げた。王司さんは「おかしくないよ」ともう一度言った。
てっきり「そうだね」と頷かれるものばかりだと思っていたから、思わず目を丸くしてしまう。
「誰にだって怖いものの一つや二つあるでしょ。久遠さんは、それが雷とか停電だっただけで。俺だって、真っ暗なオフィス怖かったし」
あはは、と王司さんは眉を下げて笑った。
「あ、でも。久遠さんは、俺に知られたくなかったよね?」
「そ、それは……」
「ごめん、心配だったとはいえ勝手に来て」
「いえ……。心細かったので、来てくれて嬉しかったです。ありがとう」
ぎこちなく頭を下げる。
王司さんには変に意地を張ってはいけない気がして素直に答えたけれど、王司さんから反応が返ってこない。
頭を上げた瞬間、私の頭に被せたジャケットで、私の視界を隠すように引き下げられた。
「うわっ、なに、」
「今、すげぇ外光ったから! ちゃんと隠れて!」
「えっ、あっ、はい!」
慌てる王司さんの口調に私も身構える。
けれど、外が光ったという割に雷鳴は一向に聞こえてこない。
怪訝に思って、こっそりとジャケットから顔を出した。そこには、パソコンのモニターを見つめる王司さんがいる。けれど、さっきまでと違うのは、その綺麗な横顔が首元から耳まで赤くなっている点。
それを見られたくなくて、私の顔を隠したのだろうというところまでは予想できた。けれど、どうして王司さんは顔を赤くしているのだろう。
でも、それを尋ねてみたところで、きっと彼は答えてくれないような気がするから、何も言わないでおこう。
見てしまったこともバレないように、また私はジャケットの中へと身を潜める。
ふと、爽やかな甘い香りが私の鼻をくすぐった。
(良い香り……)
そう思って、それからすぐにそれが王司さんの香りだと気付いて、私まで耳まで顔が赤くなってしまった気がする。
王司さんの香りを嗅ぐつもりは全然なかったし、偶然の出来事でこうなってしまったのに、何だかいけないことをしているような気持ちになった。
きっとそれは、心の隅の隅で、この香りが心地いいと感じてしまっているからだ。
いつの間にか、体の震えも止まり、雷や停電への恐怖は消えてなくなっていた。
(もう、とっくにデータ移行終わっているのに……)
それでも、この場に残ってくれているのは、私をひとりにしないための優しさだろうか?
胸に広がる甘い温もりに、私は静かに目を伏せた。