日曜日の午後。
私はナナコと一緒にカフェに来ていた。
フランス系のカフェで軽食とコーヒーなどのドリンクが楽しめるお店。
ランチも兼ねて、この店を選んだ。
「杏南からお茶のお誘いしてくるなんて珍しい」
どうしたの? と、ナナコは届いたばかりのキッシュを切り分けながら言った。
マッシュルームとベーコンが入ったキッシュは、とても良い香りがしている。
「この前の合コンのこと、ちゃんとナナコに謝りたくて」
「え? ああっ、なに? そんなこと気にしてたの?」
ナナコは目を見開いて私を見て、それからクスクスと笑った。
「杏南が謝ることなんて何もないって」
「でも、せっかく用意してくれたチャンスだったのに」
「確かにそれはそうかもしれないけど。でもあれだって、杏南のことを無理やり誘ったのは私だし。むしろ謝らなきゃいけないのは私のほうよ」
ごめんね、とナナコが眉を下げるから、首を横に振った。
「杏南が自分を見せても良いって思える相手を、ゆっくり見つけていけばいいよ」
無理したってしんどいだけだよ、とナナコは切り分けたキッシュを取り皿に載せて、私の前に置いてくれた。
「さぁ! 食べよ、食べよ」
「うん、ありがとう」
「次、私と出かけるときは可愛いワンピース着て来てよ。可愛いものが好きな杏南に私は癒されてるの」
もう長いこと見てない、とナナコは不満そうに唇を尖らせた。私はそれに「考えとく」と笑って返す。
ナナコは、昔から私のことを否定しないで受け入れてくれる。
こんなに最高の幼馴染はいないと噛みしめながら、キッシュを一口頬張った。ベーコンの香ばしさが口いっぱいに広がる。
美味しいね、と私たちは顔を見合わせて笑った。
「ところで。今日話したいことって、他にもあるんでしょ?」
キッシュを食べ終わったころ、ナナコがコーヒーの入ったカップを口元に運びながら言った。
ナナコの言う通り、今日は他にも話したいことがあった。
けれど、なかなかそれを言葉にすることが出来ず、心の中でもだもだとしていたのだけれど、ナナコにはそれすらバレていたらしい。
「うん……あのね、実は――」
ナナコに、王司さんとの数日間を話す。バーで記憶がなくなるまで飲んで、王司さんと一夜を明かしたことは、さすがに濁してしまったけれど……。
「え? つまり、会社の他部署に、杏南がずっと再会を望んでいた王子様がいたってこと?」
「う、うん。そういうこと、かな」
ホイップクリームが乗ったカフェクレームに口をつける。
「それで、付き合おうって言われてるの?」
「うん」
クリームの甘さとコーヒーの苦さが、私の口の中で程よく混ざった。
「よかったじゃない。ずっと待ち焦がれてた王子様と再会して、相手に求愛されるなんて、それこそ御伽噺の世界みたい」
「いや……でも、ちょっと問題があって……」
「問題?」
うん、と頷いた私は、あくまで噂話だという前置きをした上で、ナナコに王司さんの女性関係について話す。
実際に女性をたぶらかしているところを見たわけではないけれど、給湯室で女性社員に下の名前で呼ばれ擦り寄られているところは見たし……。
火のないところに煙は立たない、ということわざもあるわけだし……。
「ふぅん、チャラいんだ」
「うん。なんだか、私の記憶の中にある王子様のイメージと違い過ぎて……」
はぁ、と大きく溜息が口から漏れ出た。
「運命の人って言葉も、誰にでも言ってるんじゃないかって軽く感じちゃう」
うーん、とナナコは腕を組んで考え込む。でもすぐに、「考えても分かんないか」と腕を解いた。
「一回付き合ってみればいいんじゃない? そうしたら、本当に彼が杏南にとっても運命の人かどうか分かるし」
合わなかったら別れればいいんだよ、とナナコは不敵に笑った。
「ええ、でも、もしそれで本当にダメだったとき、心折れちゃいそう」
「そのときはそのとき。また一緒に考えようよ」
ナナコの言っていることも分かる。飛び込んでみれば、という気持ちも。
(でも……)
噂話の彼と私の態度に傷ついた顔をした彼、それから優しく微笑む彼と、いたずらに私の指先に唇を寄せた彼が、ぐるぐると私の中で巡る。
一体どれが、彼の本当の顔なのだろう。
カフェクレームの甘さとほろ苦さが混ざり合うように、私の心も乱されていく。
ナナコとカフェを楽しんだ休日も終わり、また新しい1週間が始まった。
いつも通り出社したが、晴天だった土日とは打って変わって、今日は朝から雨が降り続いていて、時間が経つにつれてその雨脚は激しくなっていた。
定時を過ぎたが、今扱っている企画が大詰めということもあり、チームメンバーで残って作業をしている。
まだまだやっておきたい作業は残っているが、そろそろ帰宅を促さないと天候的に帰られなくなってしまう子もいそうだ。
「雨、強くなってきてるから、みんなそろそろ帰って」
定時になり、まだ作業をしている後輩たちにそう声をかける。
「杏南先輩は? まだ帰らないんですか?」
首を傾げた佐々木くんに私は頷いた。
「私は家も近いし。もう少し作業してから帰るよ」
「え、じゃあ俺も一緒にやります」
「いいから、いいから。佐々木くん電車でしょ? 早く帰らないと電車止まっちゃいそうだよ」
お疲れ様、と強引に佐々木くんの背中を押して退勤を促す。彼と同じように、後ろ髪を引かれるように私を見る後輩たちに「あとは私に任せなさい」と胸を叩いてみせた。
「杏南先輩も、もっと雨がひどくなる前に帰ってくださいよ」
「うん、そうするから大丈夫だよ」
「本当にそうしてくださいね。じゃあ、お先に失礼します」
心配そうな表情でオフィスを出ていった佐々木くんや他の子たちに「お疲れさま」と手を振りその背中を見送る。
「よし、やるか」
後輩たちには格好つけてしまったけれど、私にも本当は早く帰りたい気持ちはある。
聞き間違いでなければ、遠くで薄っすらと雷がゴロゴロとなっていたような気がして、心臓がバクバクしているけれど、何とか今日中に予定通り作業を進めておきたい。
「早くやって、さっさと帰ろう!」
がんばれ杏南! と私しかいなくなって静かなオフィスで自分自身を鼓舞し、両手で頬を軽く叩いて気合を入れて、パソコンデスクへと向き直った。
作業はひとりになったことで多少スピードは落ちたものの、それまでのみんなの頑張りもあってスムーズに進んでいた。
もう少し作業をしたら帰ることができそうだ。
けれど、こういうときに油断してはいけない。先日の百合川さんのように、こういうときに限ってデータがぶっ飛んでしまうというトラブルは、よくあることだ。
消えてしまわないように念のため作業ファイルの保存ボタンを押し、USBメモリにもデータを映し終えた瞬間。
鋭い閃光が窓の外で弾けた直後、大きな雷鳴が響く。そして、フロアの電気が一斉に消え、辺りは突如暗闇に包まれた。
「やだ、停電……!?」
思わず声が漏れた。
夜のせいで外の明りもなく、入り口の非常灯だけが緑色にぼんやりと光っているのが見える。
誰もいないオフィス。自分の呼吸と心臓の音だけが耳に響いている。
ひとりぼっちで心細い。また大きな雷が鳴るんじゃないかと不安で、体が震える。
(早く電気ついて……)
きっと今は、とても後輩に見せられないくらい情けない顔をしているだろう。
そういう意味では、ひとりぼっちで良かったのかもしれないけれど……。
早く、と電気の復旧を願っていると、チカチカと天井の蛍光灯が小さな音を鳴らして電気がついた。
目の前のパソコンも、再起動を始める。
まだ少し手は震えてしまっているけれど、明るくなった部屋にホッと胸を撫で下ろしたとき。
デスクに置かれた電話が着信音とともに、内線を示す赤いランプを光らせた。