朝はあんなに強かった雨も、15時を過ぎたころにすっかり止み、16時ごろには綺麗なオレンジ色に空は色づいていた。
自分が抱えていた仕事は一段落つき、コーヒーを飲んでいたマグカップを給湯室まで洗いに行こうと席を立ったときだ。
向かいのデスク、1年後輩の女性社員が腕時計を何度も気にしながらパソコンに向かっている姿が目に入った。
その瞳には焦りが見える。
「野々山さん。どうしたの、何か困ってる?」
「あ、久遠さん。えっと、大丈夫です……」
「本当? 分からないこととか、心配なことがあったらすぐに言ってね」
はい、と最初は笑みを浮かべて頷いた野々山さんだったけれど、すぐに、その口角を引きつらせた。
それから、「あの……」と言いにくそうに、言葉を淀ませる。
「今日……彼との3年記念日で、定時終わりでディナーに行こうって話をしてて……」
「そうなんだ、おめでとう」
「はい、ありがとうございます。でも、あの……明日の朝一で、営業部に提出する資料がまだ終わってなくって……」
みるみるうちに野々山さんの瞳に涙が溜まっていく。
そういえば、彼女が任されている案件は、作成に必要な資料がなかなか担当者から届かなくて作業に取り掛かれていなかったのを思い出した。
恋人との用事なんて……と彼女の中で葛藤があったのだろう。だから、誰にも言えず、ひとりでこんな時間になるまで頑張っていたのだろう。
「野々山さん、すぐに気付いてあげられなくてごめんね。この作業は、あとは私が引き受けるから、野々山さんはもう上がっていいよ」
「え、でも……この時間からだったら絶対に残業になってしまうから……。久遠先輩に申し訳ないです」
「私は大丈夫。今日は何も予定ないから」
お疲れさま、と彼女の背中を押す。
「ディナー、彼と楽しんで」
「……はい! ありがとうございます!」
お先に失礼します! と野々山さんは深く頭を下げる。その表情には、まだ私に対する多少の申し訳なさが残っているようだったけれど、帰り際には笑顔も見えて安心した。
「さて……もうひと頑張りしようかなっ」
定時になり、人もまばらになったオフィスで伸びをする。洗いに行こうと思っていたマグカップには、追加でコーヒーを淹れることにしよう。
私しかいなくなったオフィスに、私がキーボードを叩く音だけが響いている。
用意してもらった資料と見比べながら、営業部に渡す企画書の作成を進めていく。大枠は野々山さんが作り上げてくれているから微調整だけなのだけれど、まだまだ時間がかかりそうだ。
彼女を早めに帰してあげることができてよかった。
時計は定時をぐるぐると2周して19時を回った。窓の外はどっぷりと夜の闇に染まっている。
パソコンのモニターを凝視していて凝った肩をほぐすために、軽いストレッチをしていると、不意にオフィスの扉が開いた。
こんな時間に誰だろうか。何か忘れ物だろうか、と顔を覗かせた私は「あっ」と声を上げてしまった。
「あれ、久遠さん。まだいたんだ」
瞳を瞬かせながら王司さんは言った。
「はい、明日までに仕上げなければいけない資料があって……」
朝の気まずさを思い出しながらも、彼が想像以上に普通に話しかけてきてくれたことに内心面食らう。
「王司さんも残業ですか? 企画部に来るの、珍しいですね」
「ああ。今商談から戻って来たところ。借りてた資料を返しに。ありがとう、企画部の資料のおかげで商談は上手くまとまったよ」
「本当ですか? それはよかった」
商談が成功したことが素直に嬉しくて、顔が綻ぶ。
しかし、ふっと微笑んだ王司さんと目が合って、慌てて顔を逸らした。笑顔を誤魔化すために、唇を噛む。
「あ、もうお仕事終わりですよね。お疲れさまでした」
「うん、お疲れさま」
会話を切り上げるために言ったのに。
なぜか王司さんは私の隣のデスクに腰を下ろした。
「え……あの、帰らないんですか……?」
「何の仕事しているのかなって思って」
どれどれ、と王司さんは私のパソコンモニターを覗き込んだ。
顔が、近い。なぜだか心臓がうるさくなる。
「この仕事、野々山さんの担当だろう? どうして久遠さんがやってるの? 残業してまで」
「え……っ、ああ……野々山さんは、今日、大切な用事があったので、私が引き継いだんです」
「大事な用事?」
「はい」
私は頷く。
「今日、恋人と3年目の記念日なんだって言ってました」
黙った王司さんは、とても難しそうな顔をしている。
王司さんのその表情の裏にある感情は分からなくもない。
おそらく野々山さん本人も感じていたであろう「そんな理由で」という気持ちや、それを引き継ぐものの負担。
彼はきっと、そういうことを考えているのだと思う。
でも、私は……。
「とても素敵な理由だと思いました。素敵で、大切な理由です。だから、私が引き継いだことも、残業も全然苦じゃありません」
それに、と続ける。
「野々山さんがいつも頑張っていることは、先輩の私が一番よく知っているので」
王司さんを安心させるために笑いかける。
視線がぶつかった彼は、また瞳を瞬かせてから、私の言葉に「そっか」と優しく微笑んで深く頷いてくれた。
はい、と私ももう一度頷く。
私たちの間に、柔らかな空気が流れる。朝の気まずさは、もうない。
だからこそ、ちゃんと今朝のことは謝らないと……。
「今朝は、すみませんでした」
「え?」
「エレベーターのところで。王司さん、私についた雨を拭いてくれようとしただけだったのに。結構強く、振り払ってしまって」
「ああ……いや、あれは俺も本当に悪かったよ。申し訳ない」
不用意に女性に触れるのはいけなかった、と王司さんは頭を下げた。
「手、痛くなかったですか?」
「全然。ただ、今朝は結構ショックが大きくて、あのあと何話していいか頭が真っ白になっちゃって」
王司さんは、照れ臭そうに苦笑いを浮かべる。それから、気まずそうに頬を指でかいた。
「でも、今は普通に話してくれて、安心した」
それから……と王司さんはスーツの内ポケットに手を忍ばせる。
(あれ……なんだろう。この感じ、見覚えがある……)
彼はそっと小さなケースを取り出すと、丁寧に蓋を開いた。
中には、ピンクコーラルの石がついた小さな指輪が輝いている。
それは紛れもなく、お祖父ちゃんが私のために作ってくれた指輪だ。
「えっ、これって……」
「やっぱり。あの日、バーで話したこと、久遠さん覚えていなかったんだね」
一度は君に返したんだけど、と王司さんは笑う。
「あまりに君が酔ってるから、また俺が預かっていたんだ。でも、また渡す前に久遠さんは消えてしまうし、なんだかすごく拒否されちゃうし」
困ったな、と王司さんは「うーん」と冗談っぽく唸り、肩を落とした。
王司さんが指輪を持っていて、私に返そうとしてくれているということは、つまり……。
「もしかして、あの植物園で出会った男の子って……」
「そう、俺だよ。指輪を見つけたら、必ず君に会いに行くって言ったでしょ」
王司さんが私の右手を取る。
リングケースから指輪を外すと、私の薬指にそれを通した。
指輪のサイズは今の私にはもう小さくて、第二関節で引っかかってしまう。
それでも、シルバーの台座に収まったピンクコーラルは、あのころと変わらず可憐な輝きを放っていた。
「どう? これで、君に『運命』って言ったこと、信じてもらえた?」
指輪がついた私の手を取って、その指に口づけをするように王司さんは唇を寄せる。
(……この人が、本当に私の探していた王子様?)
御伽噺の王子様顔負けの、いたずらな笑みに眩暈がしそうだ。