突然の交際の申し出に、自分の眉間に自然と皺が寄るのが分かった。
(運命の人って言った……?)
未だに信じたくはないけれど、何かの手違いで一夜を一緒に過ごしただけの私に……?
「ええっと……どうして、そんなに怖い顔で俺を見るの?」
私の頬に手を添えていた王司さんの手が困惑したようにぴくりと動いた。
その手を私は軽く払って、「触らないでください」と応える。
「自分の胸に聞いてみてはいかがでしょうか?」
「俺の胸に……?」
はい、と頷く。
王司さんは眉を下げて、苦笑いを口元に浮かべて首を傾げた。
私の態度が本当に不思議で仕方がないらしい。きっとこれまで、何度もこうやって女性に声を掛けて、その気にさせて、上手くいってきたのだろう。
けれど私は違う。
……昨夜は、お酒に失敗して、確かに間違いを犯してしまったかもしれないけれど、こんな風に流されるように交際するつもりはない。仮に彼の言葉を真に受けて交際に発展したとしても、きっと都合の良いように扱われるだけに決まっている。
「色んな女性にそう言ってるんですよね? 王司さんの噂、やはり本当だったんですね」
自分にできる精一杯の怖い顔をして腕を組む。
「噂?」
「今まではそれでうまくいってきたのかもしれないですけど……」
「ちょ、ちょっと待て。……なんの話?」
「社内の女性たちを、たぶらかしてるって知ってるんですよ」
「……は!? たぶらかしてる? 君、なにか誤解して……。あ! そうだ、君だって昨夜は、」
「昨夜は……っ! 昨夜は、私とても酔っていて。何を言ったか覚えてないですけど、それは全部私の本心じゃないので! とにかく! 私は、王司さんとそういう関係になるつもりはありませんから!」
失礼します! と、王司さんの体を押しのけて給湯室を出る。
王司さんはまだ私に何かを言っていたけれど、入れ違いで入った女性社員が、「伊月さん」と語尾にハートをつけて王司さんを呼んでいる声が聞こえてきた。
軽く後ろを振り向けば、王司さんの腕に女性社員が腕を絡ませて密着している。ただの社員同士には到底見えない。
――ほら、やっぱり噂の通りじゃないですか。
目が合った王司さんに私はそう目で訴えかけた。
王司さんとはこれっきり。
これまでと同様に、一切関わり合いなく生きていくつもりだった。
一夜の過ちのことなんて忘れて、気持ちを入れ替え、何事もない平穏な毎日を送っていくつもり……だったのに。
「久遠さん、おはよう」
会社に到着すれば、エレベーターで鉢合い。
「久遠さん、今日は昼食一緒にどうかな?」
昼休みになれば企画部のフロアにまで王司さんは下りて来る。
「あ、久遠さん。良かったら、ちょっと一緒にお茶でもどう?」
交流スペースにもなっている喫煙室前の自販機。
王司さんが満面の笑みで私に手を振っている。
「飲みません! これから会議なので!」
王司さんとの事件から1週間が経とうとしているのに、あの翌日から王司さんは毎日、私に声をかけてくるようになった。
私がどれだけ強く拒否をしても王司さんはしつこい。
まるで不死身のゾンビのように次の日には笑顔で話しかけてくるし、今では私の突き放す反応すら面白がっているようにも見える。
「最近、王子様が久遠さんに夢中だっていう噂、本当だったんですね」
会議室に向かう途中、私たちのやり取りを隣で見ていた百合川さんがコソッと私に囁いた。
「お二人の間に何かあったんですか?」
可愛らしく首を傾げた百合川さんに、私は大きく頭を左右に振って否定する。
「な、何もない! 何もないよ、ほとんど話したこともないし!」
「えー? そうなんですか?」
「そうなの!」
一夜だけ体の関係を結びました、なんて誰にも言えるわけがない。ましてや、私を慕ってくれている可愛い可愛い後輩たちには、口が裂けてもそんなこと教えられない。
せっかく築き上げた私のイメージが崩れ落ちてしまうことが怖かった。
「久遠さん美人だし、王子様のお姫様が久遠さんなら大歓迎だよねって、この前他部署の子たちと話してたんですよぉ。それに、王子様が本社に来たのって、運命の女性を見つけたから……なんて噂もあって。それが、久遠さんなのかなーって」
そんな風に王司さんと私のことが社内で話されているなんて知らなくて、思わず「なにそれ……!?」と大きな声で訊き返してしまった。
しかも、運命の人を見つけたから本社に来たって、どういうこと……!?
王司さんは私のことを『運命』って言ったいたし、ずっと私のことを探していたとも……でも、どうして?
ボールペンを拾ったから、名前を分かったとも言っていたし……。
よくよく考えてみれば、王司さんの発言には矛盾がたくさんあるように感じて、頭が混乱する。
「でも、何もないんですよね。残念です」
本当に残念そうに百合川さんが肩を落とすから、「なんだか、ごめんね」と返すことしかできない。
一週間前の夜のことを誰かに知られてしまったら、きっとあっという間に社内に広まっていくのだろう。これは、王司さんにも口止めしておかないといけないかもしれない……。
「それじゃあ、どうしてあの人、あんなに杏南先輩に毎日話しかけてくるんですか?」
百合川さんとは反対側の隣を歩いていた佐々木くんの声に振り向く。
佐々木くんの眉間には僅かに皺が寄っていて、難しそうな顔をしている。
「えっと……それは……」
誰にも知られないようにと決意したばかりなのに、「どうして」という質問に、自分の瞳が自分でも分かるくらい右へ左へと大きく泳いでしまった。
「気まぐれで、なんじゃないかな。きっと、女性なら誰でも良い、とか」
それがたまたま、私だっただけ。都合が良かったのが私だっただけ。
それとも、あんな甘いルックスの王司さんなら、拒否なんてほとんどされたこともないだろうし、私の存在が彼にとって新鮮だっただけなのではないだろうか。
考えていて、なんだか虚しくなってくる。
やっぱり、本当の私を知って愛してくれる人なんて、いないのかもしれない。
「もうすぐ会議始まっちゃう。この話はもう終わりね。急ぎましょう」
強引に会話を切り上げる
佐々木くんは、まだ何かを言いたいような顔をしていたけれど、私は一足先に会議室へと急いだ。
それから、もう一週間が過ぎた。
朝のニュースで梅雨入りしたという情報があっただけあり、今日は夜が明けても空は雨雲がかかって暗く、強い雨が降っている。
「久遠さん、おはよう」
「……おはようございます」
「今日はひどい雨だな」
傘の意味なんてないくらいだ、と彼はハンカチでスーツについた雫を払うように拭った。
その姿を横目に、特に投げかけられる言葉に応えないまま、エレベーター前に並ぶ。
王司さんは、まだ飽きることなく私を見かけると話しかけてくる。
……まだ、彼は私に、飽きないのだろうか。
「……久遠さんも、頬が濡れてる」
不意に、横から伸びて来た手。柔らかなハンカチが私の頬に触れて、雨粒を拭う。
それに驚いて私は、思わず強く、彼の手を払ってしまった。
乾いた音が響き、払った私の手の甲にもじんと痺れるような痛みが残っている。
少し驚いたように、王司さんは目を丸くして私を見ていた。
「……あっ、ごめんなさい……」
気まずい空気が私たちの間に流れる。王司さんから目を逸らせば、彼は「いや……」と
「俺のほうこそ、勝手に触ってごめん」
苦く笑ったのが視界の端に見えた。
それから数秒もしない内に、エレベーターが上階からエントランスに下りて来た。
扉が開き、私たちは乗り込む。
出勤時間帯には珍しく、エレベーター内は私たち二人だけだった。
階数がゆっくりと上昇していく。
私に会えば何かと話しかけてくる王司さんからは、何も言葉を発せられることはなかった。
重い沈黙が流れたまま、企画部のフロアがある5階に到着する。
「……お先に、失礼します」
それに対する王司さんからの返事はなく、軽く俯き気味に立っていた王司さんと視線が交わることもなかった。
扉が閉まり、エレベーターは上へと上がっていく。表示灯が営業部のある8階で停まるのを、呆然と眺めていた。
(……あんなに、傷ついた顔をする人だったんだ……)
王司さんが私に話しかけてこないことを望んでいたはずなのに。どうして、彼の表情を思い出すと、胸がちくりと痛むのだろう。