そっと腕に触れた西園寺さんに、王司さんはふわりと笑いかけた。
その空気感は、独特で。他の女性に腕を絡められたときの王司さんとは全く異なる表情をしていた。
どんな会話が交わされているかは私のところにまで届かないけれど、王司さんも西園寺さんもとてもリラックスしていて、お互いに心を許し合っていると分かる。
王司さんと関わり出してまだ数週間しか経っていないけれど、私には見せない表情だと、なぜかちくりと胸が痛んだ。
(佐々木くんが言っていたことは、本当だったのかな……)
真実はどうか分からない。けれど、佐々木くんがとても適当なことを言ったとは思えなかった。
その痛みに耐えるように、自分の胸元のシャツをきゅっと握り込んだ。溜息が零れる。
あのまま、昨夜は色々と考えすぎてしまってあまり眠ることができなかった。
王司さんが私に見せてくれた優しさは一体何だったのだろう。
ジュエリーボックスに入った指輪を取り出し、そっと指の腹で撫でる。
この指輪を20年間も持っていてくれた理由は?
運命の人だと、言ってくれた言葉の真意は?
「なにがなんだか、もう分からない」
頭を抱える。
寝不足のせいでメイクも上手くいかないけれど、もう家を出なければ仕事に間に合わなくなってしまう。
(行きたくないな……)
王司さんと顔を合わせたくない。今日は、どこかで鉢合うことがありませんように。
深い深い溜息を吐いて、仕事用のバッグを肩に掛け立ち上がった。
出勤時、エントランスで王司さんとエンカウントすることは何とか回避できた。
数メートル先に王司さんの背中を見つけたけれど、歩調を少し緩めたおかげで同じエレベーターに乗らずに済み、ホット胸を撫で下ろす。
そのあとも、午前中は企画部があるフロアから出る用事がなかったのもあって、王司さんだけでなく営業部の誰とも出会うことはなかった。
そして何とか昼休憩を迎えることができて、今日は社員食堂へと来ている。
昨夜の夕飯の残りや、作り置きしておいたおかずを詰めただけの、簡単な手作り弁当を真っ白な長机の上に広げる。
外に食べに出る社員が多いため、空席が目立つ。
百合川さんや佐々木くんにランチに誘われたけれど、王司さんに会う確率を減らしたくて、社内の食堂を利用することにした。
食堂のお姉様たちが作ってくれた定食を社割で安く食べることもできるし、家やコンビニで買ってきた弁当を食べても良い。
新入社員のころはお金の節約も兼ねてよくここを利用していたけれど、最近はあまり来ていなかったから、懐かしい空気が少しだけ心を和らげてくれた。
小さな豆腐ハンバーグに箸を入れて、二つに割る。その片割れを口に運ぼうとしたときだ。
「この席、いいですか?」
顔を上げて、驚く。
そこには、染野さんの姿があった。染野さんは、A定食のハンバーグが載ったトレイを持って、私を見下ろしている。
「え……ど、どうぞ」
他にも空いてる席はたくさんあるけど……とは、言えなかった。染野さんは「ありがとうございます」と淡白な口調で言うと、私の前の席に腰を下ろす。
そして、割り箸を箸袋から取り出すと、染野さんは「いただきます」と丁寧に手を合わせた。
しばらく、沈黙が流れる。彼女は私の前に座ったものの、特に何かを話しかけてくることもなく、黙々と食事を頬張っていた。
私もそれとなく彼女の様子を窺いながら、お弁当に口を付ける。
染野さんと向き合うのは、王司さんと行ったあのランチの日以来だ。
……気まずい。
何か話を振ったほうがいいだろうか。私のほうが先輩ではあるし……と、話のネタを頭の中の引き出しから、ああでもないこうでもないと引っ張り出そうとしていたときだ。
「久遠さん、知ってますか?」
先に口を開いたのは、染野さんのほうだった。
彼女は、定食についていたお味噌汁をずずっとすする。そして、私に視線を向けた。
「え……知ってるって……?」
「伊月さんのことに決まってるじゃないですか」
染野さんの目つきは鋭い。
そのあとに続く言葉に、心臓が鼓動を早める。なぜだか分からないけれど、染野さんが言おうとしていることを、私は予想できてしまった。
「あの人、婚約者がいるんですよ」
彼女はそれから、苦笑いをするように片方の口角だけを上げる。
「まぁ、私が言うことだから、信じられないと思いますけど」
別に二人の邪魔をしたくて言ってるわけではないです、と染野さんは私から視線を少しだけ外して、赤いリップが似合う唇を拗ねているように尖らせた。
「……西園寺茜さんのこと?」
え、と染野さんから声が上がる。彼女は、少しだけ目尻がつり上がった瞳を丸く見開いた。
「知ってたんですか?」
「本当のところがどうかは知らないけれど。噂で、少しね」
「私も最近、他部署の同僚から聞いたんです。本当、だと思います」
ひどいですよね、それなのに女性をたぶらかすなんて。と、染野さんはとても不満そうだ。大きく取り分けたハンバーグをもぐもぐと咀嚼する姿も、不満を表現しているように荒っぽさを感じる。
「どうして、本当だって思うの?」
「久遠さん、西園寺さんがどんな方か知らないんですか?」
「え? ええ……ごめんなさい。あまり、他部署の人には詳しくないの」
そう答えると、彼女は決して「そんなことも知らないんですか」とバカにしたりすることもなく、「そうなんですね」と頷いてくれた。
気が強い子だと思っていたけれど、それだけではないのかもしれない。
「カシェソワールグループは、さすがに知ってますよね」
「うん、それはもちろん」
カシェソワールはブライダル業界の中でも歴史ある企業だ。老舗ならではの安心感と流行を積極的に取り入れていく姿勢が、これから結婚をする人たちだけではなく、その両親、祖父母世代からも絶大な信頼を得ている。
ありがたいことに王司商事とも長年取引があり、いい関係を続けさせてもらっている企業だ。
「西園寺茜さん、カシェソワールのご令嬢なんです」
「……え!?」
思わず大きな声が出てしまった。慌てて口を塞いで声を潜めて、「そうなの?」と染野さんに聞き返す。彼女は、こくりと一度大きく頷いた。
「ど、どうして、そんな西園寺さんが王司商事に……?」
「西園寺会長の意向のようですよ。それを、うちの会長が受けたみたいで。親族を置いてもらうことで、お互いにこれからの取引の牽制にもなりますし。それが婚約している関係なら、納得じゃないですか?」
だから、と染野さんは続ける。
「うちに西園寺さんがいるから、伊月さんは、子会社のミアルカから本社に来たんです」
それは、私を納得させるには充分すぎるくらいの理由だった。
いつだったか百合川さんが言っていた、「久遠先輩を探すために本社に来た」なんて言葉より、もっともっと信ぴょう性がある。
彼はこれから、この会社を継いでいく人だ。そして、西園寺さんはその夫人になる人。一緒に仕事をして内情を知り、王司商事のさらなる発展に繋げていく。
「久遠さんが、王司さんに本気になってしまう前に、伝えておきたかったんです」
染野さんは食べ終わったようで、箸をトレイに置いた。
「……大丈夫ですか?」
心配そうな彼女の目が私を見ている。
私はそれに、へらりと笑ってみせた。きっと上手に笑えたと、思う。
「うん、私は全然。大丈夫。そもそも、王司さんの言うことなんて、信じていなかったし。私にああ言っていたのも、きっと気まぐれかなって」
改めて女性関係にだらしないって分かって良かった、と返す。
お弁当のおかずをつつく箸の先が、少し震えていることに自分で気付いてしまった。
「だから、大丈夫。教えてくれて、ありがとう」
大丈夫という言葉は、自分に言い聞かせるためでもあった。
大丈夫、大丈夫。
王子様がいないことなんて、ずっと昔から分かっていたじゃないか。