昼休みは、午後の業務が始まる前になんとか心と落ち着かせることができた。
定時になり、周囲が帰り支度を始める。私もパソコンの電源を落として、ホッと息を吐き出した。
どうしても頭の中に伊月くんのことが浮かんでしまって、仕事が手に着かなくなりそうな瞬間もあったけれど、無事に仕事を終えることができて良かった。
休憩室で大号泣しているところを見られてしまっているし、そこにさらに仕事でも迷惑を掛けてしまうなんてこと絶対にあってはならない。
(帰り……もう一度、伊月くんのところに行ってみようかな)
けれど、迷惑をかけてしまうだけだろうか。
きっと今は、私の顔も見たくないだろう。
でもそれで会話することを躊躇っていたら、伊月くんの隣にいられなくなってしまう。
(どうしたら良いのだろう……)
昨日のことはもちろんだけれど、これまで私が伊月くんにしてきたこともきちんと謝りたい。
それから、ちゃんと私のことを話して、知ってもらいたい。
こんな風に、伊月くんのことを傷つけてしまう前に話がしたかったな……。
大きく、重たい溜息が零れる。
バッグの中に持ち帰る書類やペンケースを仕舞っている私の手を、不意に誰かが掴んだ。
「久遠先輩、行きますよ!」
驚いて顔を上げた先にいたのは百合川さんで。
彼女は私の手を取ると、少しだけ強引に引っ張る。
百合川さんの勢いにつられて、「行くってどこに?」と困惑しながらも、私は慌ただしく椅子から立ち上がるしかなかった。
百合川さんに連れて来られた場所は、会社近くの焼肉屋さん。
私の隣には百合川さんが座って、目の前にはなぜか佐々木くんが座っている。
二人はメニュー表から適当にあれよあれよとお肉を店員さんに注文すると、最後に「飲み物はどうしますか?」と私に尋ねて来た。
「あ、ソフトドリンク……ウーロン茶で」
今回のことはお酒だけが原因ではないけれど、ここ最近の自分のお酒の飲み方にはひどく反省をしていて、しばらく控えようと思っていた。
百合川さんと佐々木くんは、まだ月曜日だからと、アルコール度数低めのカクテルを頼んでいた。
店員さんが去ったテーブル。百合川さんはメニュー表をぱたんと音を鳴らして閉じると、私のほうに向き直る。
「久遠先輩。洗いざらい話してもらいましょうか。どうしてお昼に、休憩室で泣いていたのか――」
百合川さんの表情は、いつもニコニコとしていて可愛らしい彼女とは反対にとても神妙なものだった。
正直、私自身、最悪の結末しか想像することができずに、ずっと胸が苦しかった。
けれど、このまま何も話さずに伊月くんと離れ離れになってしまうことだけは避けたかった。
例え、話した後の先が、やはり暗い未来だったとしても――。
ぽつりぽつりと、伊月くんと私の間に起きたことを二人に紡ぐ。
「……ちゃんと話がしたいの。王司さんと……」
そう話終わったあと、俯きがちだった顔を上げると佐々木くんが顔を覆って「あああ」と唸るような声を上げていた。
「完全に俺のせいじゃないっスか」
「いや……佐々木くんのせいじゃないよ。あのとき、歩けなくなるくらい酔っぱらっていた私が悪いの。それに……王司さんにちゃんと話をしていなかった私が一番悪い」
ウーロン茶の入ったグラスを両手で包むように握る。
冷たさが、私の掌から全身を冷やしていくようだった。
「っていうか、久遠先輩。王司さんのこと、全然興味ないっていう感じだったのに。いつの間にかベタ惚れじゃないですか。交際していたのも知らなかったです」
真剣な表情のままだけれど、百合川さんにそう言われて、思わず「うっ」と言葉が詰まる。
「い、色々誤解しているところがあったの。そういう誤解が解けたときに、この人のこと好きだなって思って……」
「佐々木くんもありがとう。前に教えてくれたあの噂には、色々と事情があったみたい」
そう言えば、佐々木くんは「そうだったんですね」と軽く微笑んでから頷いてくれた。
「杏南先輩が幸せなら、俺はそれでいいんで……って、今はその幸せが壊れそうだから困ってんのか」
「あはは……本当にごめんね。変な形で佐々木くんも巻き込んじゃって」
ぎゅっと瞳を閉じれば、悲しそうな伊月くんの顔が浮かんだ。何度も思い出して、その度に胸が痛くなる。
「でも、とにかく会って話をするしかないですよ」
百合川さんが言う。
「そうだよね……」
「あれだったら、俺も一緒に説明するんで……」
「いや、佐々木くんが出てきたら余計に面倒なことになるでしょ」
絶対ダメだよ、と百合川さんがぴしゃりと言い放つ。それに対し、佐々木くんは「そうだよな~」と溜息まじりに肩を落とした。
「営業部のフロアで、また王司さんに会えるのを待つとか」
「なんだかストーカーみたいじゃない……?」
「会いたいって連絡したら、会ってくれないっスかね?」
「……どうだろう」
ううーん、と私たち三人は同じように頭を抱える。
やはり、確実に話をしようと思ったら伊月くんに直接会いに行くしかないのだろう。明日、また仕事終わりに営業部まで伊月くんに会いに行ってみよう。
そう、心の中で決めたときだ。
「話は聞かせてもらったわ」
まるで、ヒーローの登場シーンかのように背後からそんなセリフが聞こえて来て、私たちは慌てて振り向いた。
そこにいたのは、西園寺さん。
彼女は、私たちと目が合うと「ごめんなさい、盗み聞きして」と眉を下げて笑った。
「偶然、通された席が後ろの席だったの。そしたら、話が聞こえてきてしまって」
「西園寺さん、ひとりですか?」
佐々木くんが軽く身を乗り出すようにして西園寺さんに声をかける。
彼女は「ええ」と頷いた。
そういえば、西園寺さんって佐々木くんに恋をしている……って。
ちらりと西園寺さんの顔を見れば、表情こそ大きく変化はないが、うっすらとその頬に紅が差しているようにも見えた。
「今日、伊月の様子……何だかおかしいと思っていたのよ。彼、久遠さんとお付き合いを始めてから、周囲も勘付くくらい幸せオーラ駄々洩れだったのに」
西園寺さんの「伊月」という呼び方に百合川さんが私を見て首を傾げるから、「王司さんと西園寺さん、幼馴染なの」と紹介する。
元婚約者だという関係性は、百合川さんが噂を知らない可能性があるからあえてそう表現はしなかった。
幼馴染と訊いた百合川さんは納得したようで、西園寺さんの話に耳を傾けた。
「久遠さんは、伊月とちゃんと話がしたいのよね」
西園寺さんが私を見て続けた。
「はい。できるだけ、早く。ちゃんと話がしたいです、王司さんと」
私はそれに背筋を伸ばして、大きく頷く。
膝の上で、拳を握った。
「わかった。私に良い提案があるから……。そうね、佐々木さん。少しだけ私に協力してくれる?」
「え? 俺?」
驚いたように目を丸くして、佐々木くんは自分を指差した。
「ええ。久遠さんは、伊月とどんな風に話をするのか、しっかり考えてみて。セッティングは私と佐々木さんに任せて」
大丈夫よ、と西園寺さんの手が私の硬く握られた手に添えられた。
「20年もあなたのことを探していた伊月を信じて」
その手の温もりはとても優しい。
「久遠先輩、何かあったらすぐに相談に乗りますから。ひとりで抱えないでください」
その手の上に、さらに百合川さんの手が重ねられる。
「私は後輩ですけど、恋愛経験はたぶん私の方が上ですから」
ふふふ、と百合川さんは最後に冗談を交えて、肩を竦めて笑った。
これまでずっと、周りに対して強く見せて来た私を、みんなが温かく抱きしめてくれるようだった。
「……ありがとう」
ナナコがずっと言ってくれていたように、そんな必要はずっとなかったのかもしれない。
嬉しさと同時に、もっと早く……こんなトラウマもプライドも手放してしまえばよかったと、伊月くんを想うたびに悔やんでしまう。