会社のエントランスで、同僚たちに挨拶をしながらエレベーターを待つ。
週の初め。社内は先日までの慌ただしさが嘘のように落ち着いていた。
結局、土日の間は伊月くんから連絡はなかった。
休日だったけれど、仕事をすると言っていたから営業部はとても忙しかったのかもしれない。
今日は、伊月くんの仕事も落ち着いているだろうか。
せめて、数分でも良いから会えると嬉しいのだけれど……。
そう思いながら今日の業務をこなしていれば、あっという間に昼休みの時間帯になる。
佐々木くんや百合川さんに昼食へと誘われたけれど、どうしても伊月くんに会いたくてそれを断った。一度、営業部のフロアを覗いてみようと思っている。
(一応、メッセージ送っておいたほうがいいかな……)
エレベーターで営業部があるフロアへ上がりながら、スマートフォンをポケットから取り出した。
伊月くんとのトーク画面を開いたが、彼からは昨日のメッセージに既読がついたまま新しいものは何も来ていなかった。
『お疲れさま。昼休み5分くらいで良いから時間ある? 少し会えないかな』
そうメッセージを入力している間に、エレベーターがフロアに到着したことを知らせる軽快な音が響く。
シルバーの厚いエレベーターの扉が開いて、一歩踏み出したとき。
目の前をちょうど、伊月くんと西園寺さんが並んで通り過ぎようとしているところだった。
「いづ……じゃなくて、王司さん!」
咄嗟に声をかけたせいで、少しだけ自分の声が廊下に響いた。
伊月くんは足を止めて、こちらを振り向くと驚いたように目を丸くする。
「伊月。私、先に行くわね」
こそっと西園寺さんがそう言ったのが聞こえた。
彼女は私を見ると、すべてを理解していると言わんばかりにふんわりとその口元をほころばせる。それから、「ごゆっくり」とひらひらと手を振って私たちを二人きりにしてくれた。
「あ、あの……少しどこかで話しませんか?」
「……いいけど」
伊月くんは小さく頷く。笑顔を作ってはくれているけれど、何だかそれはとても無理しているように私には見えた。
「大丈夫? なんだか顔色わる……」
心配で、自然と彼に伸びた手。
しかしそれは、伊月くんに触れることなく、空を切る。
伊月くんが、私の手を避けるように体を逸らしたから。
「え……?」
「あ、ごめ……」
それには伊月くん自身もとても驚いたようだった。
それから、もう一度「ごめん」と伊月くんは謝って、自分の額に手を当てる。深い溜息が、私にまで届いた。
「どんな顔して、久遠さんの顔見れば良いか……分からないんだ」
伊月くんの口から紡がれる「杏南」ではなく、「久遠さん」という呼び名。職場だからだってこと、分かっている。
けれど、そこには確かに私との心の距離が生まれているように察してしまう。
伊月くんの声色が、とても辛そうだったから。
「えっと……」
なにか、伊月くんを悲しませるようなことを私はしてしまったのだろうか。
言葉が詰まる。空をきって、手持無沙汰になった手を引っ込めることしかできなかった。
この土日の間に、私はなにをしてしまっただろう。
金曜日は、飲み会に行くっていう連絡を楽しくして……。
また仕事が落ち着いて、お互いに時間ができたら話したいことがあるって伝えて。伊月くんもそれを楽しみだって言ってくれていて……。
「どうして、佐々木くんのことは家に上げるのに、俺はダメなの?」
ぽつりと、伊月くんの口から絞り出すように紡がれた言葉。
どくん、と心臓が鳴る。
「金曜日の夜。杏南、彼のことを家に上げていたよね?」
「そ、それは……。私がちょっとあの日の飲み会で呑みすぎちゃったの。それで、歩けなくなっちゃったから、仕方なく佐々木くんが――」
「俺のことを呼ぶっていう選択肢は、杏南にはなかったの? 佐々木くんなら安心?」
伊月くんと視線が絡み合う。
眉間に皺が寄せられた彼の瞳は、怒りと悲しみが混ざり合っているようだった。
「そういうわけじゃ、」
「そういうわけ、あるだろう」
ぴしゃり、と伊月くんが言い切る。
私は口を噤んで、息を飲みこんだ。
「だって、俺のことはまだ家に入れたくないって杏南がハッキリ言ったんだぞ。片付いていない部屋でも、佐々木くんのことは入れられるくらい心の距離が近いってことが、よく分かったよ」
その声は微かに震えていた。
「ごめんなさい。ちゃんと、話すから、」
「ごめん。今は、冷静に杏南の話を聞けそうにない」
もう行くから、と伊月くんはまだ顔を微かに歪めたまま、私の横を通り過ぎていった。
その背中を、振り向くことすらできなかった。
目の前がじわりと滲んでいく。
伊月くんを、傷つけてしまった。私がちゃんと話をしなかったから。
自分をさらけ出すのを、いつまでも躊躇ったから。
――違うの、私。
――部屋が片付いていないからとかじゃなくて。
――伊月くんに、嫌われたくなくて。
――可愛いものが好きだって、ただ言えなくて。
いくつもの言葉が浮かんでは、何度も頭の中でかき消す。
そんなのどれだって、ただの言い訳じゃないか。
私が、傷つけた。
自分のことばっかり考えて、自分のことばっかり守って。その結果が、伊月くんを傷つけたんだ。
「ごめんなさい……」
誰もいない廊下で、私は両手を覆った。
もう伊月くんには届かないのに、ただ小さく謝ることしかできなかった。
伊月くんに、しっかり話がしたいと伝えたいけれど、メッセージを送る勇気は今の私にはない。
どうにか泣き止んで、昼休みが終わってしまう前に企画部のフロアまで戻ってくることはできたけれど……。
休憩室で、少しでも午後の仕事に支障がでないようにと飲み物を買って気持ちを落ち着かせる。
けれど、考えれば考えるほど思考は絡まっていく。
伊月くんは、もう私には会いたくないかもしれない。
このまま、私たちの関係は終わりを迎えてしまうかもしれない。
そう思うと、ようやく引っ込んだ涙がまた顔を出そうとしてきて、唇を噛んでこらえた。
「あれ? 杏南先輩、こんなところいたんですね」
「佐々木くん……」
俺は午後の業務のお供を買いに来ました、と佐々木くんはいつも通り無邪気に笑う。
小銭を自販機に入れる音が響いている。佐々木くんは、缶コーヒーを買ったようだった。
「先輩、なんか……目、赤くないですか?」
佐々木くんが私を覗き込むから、私はそれから逃れるように顔を背けた。
「泣いてたんスか?」
「泣いてな……」
佐々木くんと目が合う。彼の真っ直ぐな瞳に、言い訳なんてできないくらい情けない顔をしてる私が映っている。
佐々木くんの優しさに甘えてしまったばっかりに、伊月くんの誤解を与えてしまった。
きっとそれは、伊月くんから佐々木くんに対する印象にも関わってくる。
ああ、もう。私はなんて、軽薄な行動を取ってしまったのだろう。
私はまた自分の顔を両手で覆った。泣きたくないのに勝手に涙が出て来る。
目の前では、佐々木くんがおろおろと困っていることが分かる。
もうこれ以上、誰のことも傷つけたくないし、迷惑だってかけたくないのに。
「え、やだ! 佐々木くん、なに久遠先輩のこと泣かしてるの!?」
今度は休憩室に響く百合川さんの声。
それに対して、佐々木くんが「ちが……っ、俺は泣かしてない!」と必死に否定している。
私の泣き声と佐々木くんの慌てふためく声、それから百合川さんの疑いの眼差しが、昼下がりの休憩室で混ざり合っている。
佐々木くんのためにもちゃんと否定しないといけないって分かっているのに、泣きじゃくる私はただ「違うの」と繰り返すことしかできなかった。