新しいプロジェクトも無事に一段落つこうというころ。
これまでの自分たちへの労いと、最後まで共に頑張ろうと士気を高めるために飲み会が行われた週末。
程よく酔いが回ったころに居酒屋を出る。
「王司、二次会どうする?」
「俺は帰ろうかな。二次会まで行ったら、さすがに酔い潰れそうだから」
「そっか。王司が酔い潰れてるところも見たいけどなー」
同僚が冗談っぽく笑う。それから、「二次会行くメンバーはこっち」と楽しそうに手を挙げて、ほとんどのメンバーがそちらに着いていくようだった。
「伊月」
「ああ、茜」
「よかったね、久遠さんとのこと」
茜が口元をニヤつかせながら、声を潜めて言う。
茜には杏南と交際が始まったその日に報告していた。一応、親が勝手に決め、お互い恋心はなくても婚約者であったわけだから、きちんと筋は通さなければならない。
茜はその報告をとても喜んでくれて、俺たちの婚約関係は約束通り解消されることになった。
「茜が杏南と話してくれたからだろ。感謝してる」
「そうね、今回はハッキリと私のおかげかもね」
「今度なにか驕る」
「いいわよ、そんなの。それよりも久遠さんを大事にして」
そう言い終えてから、茜は良いことを思いついたように「あ、」と声を上げた。
「それなら、今度は私の恋を応援してよ」
私も本気で頑張るから、と彼女が愛嬌よく笑ったところで、同僚たちから「西園寺さん行くよ」と声が掛かる。
どうやら茜はこのまま二次会に参加するらしい。
「じゃ、また月曜日に、職場で」
「ああ。またな」
賑やかな週末の夜の街に、営業部のメンバーたちが溶け込んでいくのを見送った。
それから俺も帰路につくことにする。その途中で、ふと杏南の顔が思い浮かんだ。
(会いたいな……)
仕事が忙しくなってからもメッセージでのやり取りはしていたけれど、1ヶ月以上杏南の顔を見ていない。
杏南に作ってくれた料理の作り置きも、あっという間になくなってしまって彼女を感じられるものは日に日に薄れていっていた。
意外と背が小さいこと。
抱き締めたら分かる華奢な体。
柔らかで艶のある髪や、滑らかな肌と甘い香り。
何より、照れたように笑う杏南の顔が恋しい。
「いやいや、だからって……」
自分自身に愕然し、呆れて苦笑いしか漏れない。
電車に乗って、自分の家に向かっていたはずなのに。
この先にあるのは杏南が住むアパートだ。
(疲れてるのか!? びっくりした。足が勝手に杏南の家に向かうなんて)
彼女に会いたくて仕方がない気持ちが溢れて、勝手に体が動いてしまったらしい。
このまま杏南の家に向かうか……?
彼女も今日は飲み会だと言っていたけれど、もう21時になろうとしているし、そろそろ帰ってきているだろうか。
けれど、杏南は後輩たちに良く慕われているし、二次会にも足を運んでいるかもしれない。
スマートフォンを取り出して、杏南とのやり取りが並ぶメッセージアプリの画面の上で指が彷徨う。
(……急に尋ねたら、迷惑か)
そろそろ家に行きたいと言った俺に、彼女はひどく困ったような顔をした。
杏南は、部屋が片付いていないからもう少し待っていて欲しいと言っていたけれど……。
本当にそれだけだろうか、と思ってしまう自分がいて嫌だ。
それは、きっとこれまで杏南と関わってきた中で、彼女が時折何かを言いかけて辞めてしまう姿を見て来たからかもしれない。
何度もデートをして、色々な話をして、唇も体も何度も重ねてきたけれど、どうしても越えることのできない『何か』が俺と杏南の間にはあるように思えた。
(いや、考えすぎ)
最初こそ、俺の周囲に対する態度のせいで杏南に拒否されることはあったけれど、今はハッキリと彼女からの好意が分かる。
それだけで充分じゃないか。20年間、何も手掛かりがなかったころに比べたら、想いが通じ合って一緒にいられるだけで幸せなことだ。
俺にとって杏南が運命の人であることには変わりはない……。
「杏南先輩、鍵! 鍵どこですか?」
元来た道を戻ろうとしたとき。
不意に響く、困っているのに軽快な声に振り返る。
そして、視界に捉えた『それ』に、足が竦んだ。
「鞄の中ぁ」
杏南のアパートの前。
企画部の佐々木くんに背負われる杏南は、そう返しながらふにゃふにゃと笑っている。
「勝手に鍵開けますよ? いいですか?」
「うん、ありがとぉ」
初めて彼女に会った日のように、呂律に回っていない可愛らしい口調。
オフィスではしっかり者の杏南のそんな姿を知っているのは、自分だけだと思っていた。
それなのに杏南を背負う佐々木くんは、まるでそんな彼女が『素』であることを知っているかのように戸惑いがない。
杏南を背負ったまま、彼はアパートの階段を上がっていく。
彼女の部屋は、このアパートの2階にあることすら俺は知らなかったのに。
彼の手には、杏南のヒールの高いパンプスが引っ掛けられている。
自分しか知らないと思っていたことが、がらがらと崩れていくようで心臓が嫌な拍動を続けていた。
扉が開く音がする。
俺は決して入ることを許されていないその扉の奥に、杏南と佐々木くんは消えていった。
あれからどんな風に家に帰ったのか全く覚えていない。
酒なんて店を出てからすぐに残っていなかったくらいなのに、一晩明けた今はひどい頭痛に襲われている。
ベッドの上、何度寝返りを打っても眠ることができなかった。
いつの間にか窓からは朝陽が差し込んでいる。
今日が休日でよかった。とても仕事なんてできるメンタルにない。
佐々木くんに背負われる杏南の姿が何度もフラッシュバックを繰り返している。
俺と杏南の関係なんかよりも、もっと深く結ばれているように俺には見えてしまった。
(杏南が酔い潰れてしまったから、佐々木くんが送ってくれただけかもしれない)
そんなこと、分かっている。
頭では理解していても、心が理解してくれないんだ。
俺には一切足を踏み込ませてくれなかった杏南の心の柔らかな場所に、彼は踏み込むことを許されている。
どうしても、そういう風に見えてしまって……。
ベッドの枕元で、スマートフォンがメッセージの着信を告げる。
そういえば、昨日の夜中に杏南からメッセージが来ていたけれど、まだそれにも既読をつけていない。
スマートフォンを手繰り寄せて、画面を点ける。
通知には杏南の名前が並んでいた。
『おはよう』というメッセージがつい1分前に届いている。その続きには、『伊月くんは無事に家に帰っていますか?』というこちらの身を案じるものだった。
『昨日、杏南のアパートの前まで行ったんだ』
そう入力して、消した。
『佐々木くんと杏南って、仲が良いんだね』
そう入力して、また一文字ずつ消していく。
胸の苦しさを吐き出すように、溜息を吐き出した。
『ちゃんと帰ってるよ。ごめん、返事が遅くなって』
そう、いつも通りを装った返信を送る。
『今日は、少し仕事をしなくちゃいけないから。あまり連絡できないと思う、ごめん』
杏南に初めて嘘を吐いた。
数分もしない内にそれに既読がつく。
『無理しないでね。応援してる』
パッとその文字が表示されて、それからワンテンポ遅れて、こちらを応援する可愛らしいクマのスタンプが送られてきた。
ほんの少しの罪悪感が胸に広がる。
彼女の声が聴きたい。
その髪や体に触れたい。
けれど、それ以上に胸が痛くて、とてもいつものように杏南に会うことはできそうになかった。
スマートフォンをまた枕元に放り投げる。
目元を腕で隠すようにして、深く深く、溜息を零した。