私と伊月くんは、それからも休日になると何度もデートを重ねた。
水族館に行ったり、美術館に特設展示を観に行ったり。
伊月くんの家で映画を一緒に見たこともあるし、お泊りだってあれから何回かさせてもらった。
けれど私は、未だに伊月くんを私の家に招くことができていない。
「そろそろ、俺も杏南の家に行ってみたい」
そう言われたのは、つい昨日のこと。
「部屋を片付けるのが、苦手で……。それが片付いてからでもいい?」
明らかに動揺して目が泳いでしまった自覚はあった。
なんて安っぽい言い訳なんだろう、とも思う。
ちょっとだけ寂しそうに、「そっか、分かった」と身を引いてくれた伊月くんに申し訳なさが募る。
◆
「え? 可愛いものが好きって言ってないの?」
私の家に遊びに来たナナコと、ナナコが持って来てくれた洋菓子店のケーキを食べながら私は頷いた。
ナナコは「嘘でしょ」と額に手を当てる。
「何度も言おうって思ったんだよ」
でも、と続ける私の声は、自分でも分かるくらい小さくて情けない。
「それを話して、もしドン引きされたらって思ったら怖くて……」
「いやいや……話聞いてる限り、王子様、杏南にベタ惚れじゃない」
「……それは、否定しない」
伊月くんの愛は痛いほどに感じる。
だからこそ、だろうか。その愛が大きいからこそ、伝えるのが怖いのだ。
「大体ね、他人の趣味に対してとやかく言う奴のほうがおかしいのよ」
ナナコはプスッとケーキの上に乗っているマスカットにフォークを突き刺した。
「杏南も早く、あんな失礼な奴に言われたこと忘れたほうがいいよ」
「……うん」
「というか……。杏南がずっと探していた王子様が、杏南を傷つけた奴と同じことを言うと思ってんの?」
ナナコの言葉にハッと気づかされる。
今までの私の思考や言動は、私が伊月くんのことを信じられないと言っているのと同じだ。
伊月くんが素敵な人であることは私が誰よりも一番知っているはずなのに。
誰にでも分け隔てなく優しくて、どんな私でもきっと受け止めてくれる人。
20年も、私を探し続けてくれていた人。
「信じてあげなよ、王司さんのこと」
諭すようなナナコの言葉。
「うん」
私はそれを噛みしめるように、深く頷いた。
「ちゃんと早めに伝えるんだよ!」
そうナナコの言葉が、何度も頭の中を巡っている。
私もそうしたい。
早く、伊月くんに私のことをちゃんと話したい。
そう思っているのに、どうしてこんな時に限って企画部も営業部も……いいや、社内全体がこんなにもおそろしく忙しくなってしまうのだろう。
ナナコと話をして、決意をした翌日から大きなプロジェクトが進められることになった。
企画部はマーケティングや企画案の作成に追われ、上層部へのプレゼンが続いている。企画が通ったものから製品化が進められるのだが、営業部がその制作に携わってくれる企業や工場に営業を掛けに行く。
昼休みも返上、休日はお互いにクタクタになりすぎて、会うこともできていない。
メッセージでのやりとりも「おはよう」と「おやすみ」で精一杯の日々。
(早くこのプロジェクトを終わらせて、伊月くんに会いたい……!!)
自然とキーボードを叩く指も強くなるというわけで。
「おお、杏南先輩が燃えてる……」
「みんな、久遠さんに続け続けー!」
隣のデスクで佐々木くんが私を見て呆気に取られるように呟いて、百合川さんが元気よくチームメンバーを煽っている。
仕事を頑張る理由が、恋人に早く会いたいからなんて口が裂けても言えない。
不純な理由でごめんなさい! と心の中で叫びながら、私はまた今抱えている仕事に向き合った。
それでもこの仕事がようやく落ち着きを見せ始めたのは、プロジェクトが開始されてから一ヶ月以上経ったころだった。
これでようやく、伊月くんにもゆっくり会える時間を作ることができそうだ。
「杏南先輩、お疲れさまです」
「佐々木くんもお疲れさま」
「今日、企画部のメンバーで少し早いですけど打ち上げやろうって話になっていて。杏南先輩も参加してくれますか?」
「うん、もちろん。みんなで頑張ったことだから、しっかりお互いに労わり合おう」
「よかった。じゃあ、百合川さんが店の予約してくれるみたいなんで伝えてきますね」
お願いします、と佐々木くんにお礼を言って、私はデスクチェアの背もたれに背中を深く預けて伸びをする。
パソコンのキーボードの横に置いていたスマートフォンがメッセージの着信を告げて短く震えた。
相手は伊月くんからで、『営業、落ち着いてきた。そっちは?』という内容だった。
『こっちもようやく。お疲れさま』
『よかった。今日の夜、こっちは営業部で飲み会になった』
『こっちも企画部メンバーで打ち上げすることになってるよ』
メッセージを送るとすぐに伊月くんから既読がつく。
「久遠さん、口元ニヤけてますよ? 彼氏さんですか~?」
お店の予約を終えたらしい百合川さんが私を見て、ニマニマと笑っている。
「えっ、いや……ちがっ」
「え、違うんです? なぁんだ、ざんねーん。今日の打ち上げで、久遠さんの恋バナが聞きたかったのになぁ」
ふふふ、と笑った百合川さんは、上司に呼ばれて「は~い」と可愛らしい返事をしながら去っていった。
また手の中でスマートフォンが震える。
『次の休み、会いたい』
伊月くんからのその短い文面にさえ、キュンと胸が高鳴る。
『私も。そのとき、話したいことがあるの。悪い話じゃないよ』
自分に逃げ道を作らないように、思い切って伊月くんにそうメッセージを送る。
伊月くんからは珍しくスタンプが飛んできた。目を丸くさせたような猫のキャラクター。
『良い話? 楽しみにしてる』
それから、『もう行かないと。また連絡する』と続けてメッセージが飛んできた。
私はそれに「お疲れさま」と書かれたスタンプを送る。企画部のフロアにも、百合川さんの「じゃあ、お店に向かいますよ~」という可愛らしい声が響いた。
ぐにゃぐにゃと視界が歪んでいる。
ふわふわと、足が地面についていない感覚。
「ちょっと、杏南先輩。しっかりしてください」
「もぉ~! 轟部長がいっぱい呑ませるからですよぉ~! 久遠さん、ひとりで帰れますか?」
佐々木くんと百合川さんの声がする。その少し奥で、部長の「すまん、すまん」と謝る声が聞こえた。
あれよあれよと、お酒をグラスに注がれたのは覚えている。
断ることもできたのに、調子に乗って私が吞んだだけだ。
あー、最近お酒の失敗が多いなぁ。伊月くんが知ったら、さすがに怒られてしまいそう。
「どうする?」
「俺、杏南先輩の家知ってるから送っていくよ」
百合川さんと佐々木くんが何やら話し合って、私は佐々木くんに家まで送られることになったらしい。
「ほら、行きますよ。杏南先輩」
背中乗って、と佐々木くんが私の前にしゃがみ込んで背中を差し出している。
つまり、おんぶをしてくれるということらしい。
「ほんと……迷惑かけてごめんなしゃい……」
「今回は部長が100%悪いんで、全然大丈夫っす。それよりも、気持ち悪くなったら言ってくださいよ」
「一応、袋持ってく?」
偶然バッグに入ってた、と百合川さんが私にスーパーのレジ袋を渡してくれた。
「っていうか、久遠さんって酔ったらこんなにくにゃくにゃになっちゃうんですね。いつもの強い先輩も好きですけど、こういう一面も良いですよ」
百合川さんが私の頬をツンツンと指で突いていった。
こんな私、情けないし。誰にも見せたくないって思っていたのに。
「……ありがとう」
百合川さんにそう言ってもらえたことが嬉しくて、胸が熱くなって、私はそっと静かに目を伏せた。
今日のこの日の出来事がキッカケで、伊月さんとの間に大きな亀裂が生まれることになるとも、私は知らずに……。