伊月くんの部屋のダイニングには4人掛けのテーブルがある。
そこに私たちは向かい合って座って、「いただきます」と両手を合わせた。
伊月くんが綺麗な箸使いでとんかつを一切れ掴む。
それが口に運ばれるのを見守っていると、彼は「美味しい」とその瞳を輝かせた。
「衣もサクサクで。うまいよ」
「よかった。お口に合うかなって心配だったから」
それから伊月くんはどれを食べても美味しいと言ってくれて、とても綺麗に食事を平らげてくれた。
「作り置きもあるから、また明日からも杏南の料理が楽しめると思うと幸せ」
本当に嬉しそうに言うから、こちらのほうが照れてしまう。
今日一日……それこそ伊月くんと合流してから何度赤面したことだろう。
どれだけの時間を一緒に過ごしても、ときめきに慣れるどころか増してしまう。
(このままときめきすぎて高血圧になりそう……)
心の中で自分自身に苦笑しながら、グラスに入ったウーロン茶に口をつけた。その冷たさに少しだけ火照った頬が冷やされるようだ。
「それで……杏南」
「ん?」
向かいから不意に名前を呼ばれ、首を傾げる。伊月くんは一度、「んんっ」と咳払いをした。
「明日は、二人とも会社が休みなわけですが」
「うん」
「よかったら……泊まっていきませんか?」
「と……!?」
今日は帰したくない、と言った伊月くんの言葉は本気だったのか。
ど、どうしよう。
お泊りのセットなんて、当たり前に持って来ていないし。
メイクは……仕事のバッグに手直し用のものが入っているから明日もなんとかなるだろう。
でも、着替えもなにもない……。
伊月くんと目が合う。
少しだけ顔が赤い……? もしかしたら、伊月くんもそう私に提案することに緊張していたのかもしれない。
そう思ったら、きゅんと愛しさが込み上げてくる。
私も……もう少しだけ、伊月くんと一緒にいたい。
うん、と小さく頷き返した。
「ど……どうかな?」
シャワーを借りたあとリビングに戻る。
着替えは、伊月くんが彼のTシャツを貸してくれたのだけれど、私たちは身長差が大きいから彼の服はとてもぶかぶかだ。
肩の部分がずり落ちるのを、襟元を摘まんで直す。
ソファーに座り雑誌を読んでいた伊月くんは私を見るなり、バサバサと雑誌を床に落とした。
「わっ、ちょっと……」
大丈夫? と雑誌を拾うために駆け寄ると、腕を引かれて抱き寄せられる。
腰に腕を回されて、ギュッと抱きしめられて驚いた。
「細い……かわいい」
ぎゅーっと音がしそうなほど私を抱きしめる伊月くんは、私の首元に顔を埋めながらそう呟く。
私の顔は、またボンッと火が出そうなくらい赤くなってしまう。
「キスしてもいい?」
彼の膝の上に跨るように座らされる。
必然的に私が伊月くんを見下ろす形になって、上目遣いの伊月くんに「うっ」と小さな声が漏れた。
その言葉を拒否する強い心を私は持ち合わせていない。……というか、拒否する理由すら、ないのだけれど。
伊月くんの指が私の頬に優しく触れる。たったそれだけなのに、ぴくりと体が揺れてしまう。
そのまま私の横髪を耳に掛けるように、彼の指が動く。
耳を優しく撫でるように触られて、瞳をキュッと強く閉じた。
「かわいい」
また、伊月くんはそう呟いた。
彼の肩に置いた手が震える。
「杏南、好きだよ」
私の返事を待たずに、伊月くんの唇が私の唇に触れる感触がした。
キッチンでした、触れるだけのキスじゃない。
「……ふっ」
段々と深くなっていく口付けに、心臓が苦しいくらい痛くて、呼吸が浅くなる。
体をゆっくりと倒される。力が上手く入らなくて、気付けば柔らかなソファーが背中に当たった。
視界には、真っ白な天井と照明のせいで少し影のかかった伊月くんの顔。
「ごめん。もう、我慢できないかも」
片方の口角の端を上げるようにして笑う、初めて見る伊月くんの余裕のなさそうな表情。
「あ……っ」
するりと服の裾から忍び込んできた伊月くんの大きな手が、私の腹を撫でた。
……。
…………。
眩しさを感じて目を開ける。
(伊月くんの香り……)
すん、とシーツを引き上げて香りを吸い込んだ。
(……落ち着く)
もう一度、瞼を閉じようとして、気付く。
目の前に……寝息がかかるくらいの近さに、とっても綺麗な寝顔があることに。
「……!?」
伊月くん、と言いかけて、慌てて自分の口を両手で押さえた。
微睡んでいた思考が、急速に覚醒していく。
今回はハッキリと、昨日伊月くんにたくさん愛された記憶が残っていた。
全身に残る甘い倦怠感に、思わず顔を両手で覆う。
何も考えられないくらい愛されてしまったけれど、全てが記憶に残っているからこそ恥ずかしくて、ゴロゴロと悶えてしまった。
「杏南? 何してんの?」
くすくすと笑う伊月くんの声に、体が跳ねる。指の隙間からしか、彼の顔を見ることができない。
「お……おはよう」
「うん、おはよう」
彼は私を引き寄せると、顔を覆う私の指とおでこに軽く唇を寄せた。
それから、またギュッと私を抱きしめる。一糸まとわぬ体に、伊月くんの肌の温もりを直に感じてしまってドキドキしてしまう。
「よかった……」
はぁ、と溜息交じりに伊月くんが言う。
その溜息は落胆ではなく、安堵のようだ。
「なにが、よかったの……?」
「目が覚めたあとも、杏南がいてくれて」
「あ……」と私の口から声が零れる。
そうか。前は、伊月くんの目が覚める前に、私は逃げ帰ってしまったんだった。
「あのときは、ごめんなさい」
「もしまた杏南が逃げても、必ず見つけ出すけどね」
ふふふ、と伊月くんは冗談っぽく笑う。
私は彼の頭をきゅっと自分の胸のほうへ抱き寄せて、伊月くんの後ろ髪に指を通した。
ふわふわと少し癖のある黒髪。それでも手触りはとてもサラサラとしていて心地いい。
ちゃんと私はここにいるってことが、彼に伝わるように抱き締める。
「杏南……心臓の音、早い」
「そ、それは……」
「俺が傍にいるから……?」
そうだったら嬉しい、と伊月くんは目を伏せた。
会社で見る彼とは全然違う。まだ、どこかあどけなさの残る微笑み。
こんな風に笑う人なんだと、彼に出会ってから何度思っただろう。
意地悪な笑みだったり、どこか余裕を感じさせる優しい微笑みだったり、子どものようにパッと表情を明るくさせたり……。
もっともっと、色々な表情が見たいと思う。
20年前から伊月くんに感じていた、御伽噺に出て来るような王子様への憧れだけじゃない。
今はもっと、深く深く彼のことを知りたいって思っている。
「そうだよ。伊月くんが……傍にいるから」
ずっとドキドキしてる、と返事をする。
もっと素直になりたい。
もっと真っ直ぐに、伊月くんが好きだと伝えたい。
伊月くんが、とても真っ直ぐに私を見ていてくれると分かっているから。
私の全部を、伊月くんに知ってもらいたい。
本当に心から、そう思っているのに……。
「本当にここまでで良いの?」
「うん。ちょっと実家に寄ろうかなって思ってて」
どうして、伊月くんがせっかく家まで送るって言ってくれたのに私はこうなってしまうのだろう。
伊月くんの家の近くの最寄り駅まで彼の車で送ってもらい、
「じゃあ、また家に着いたら連絡して」
と、走り去っていく伊月くんの車が見えなくなってから大きく溜息を吐いた。
実家に寄るなんて、くだらない嘘をついてしまった。
家まで送ってもらったあと、彼が私の家に上がるかもしれないと想像してしまったら怖気づいてしまった。
自分から「寄っていく?」って聞いてみようか、とも最初は考えていたのに……!
「本当……最低」
情けなくて、涙が滲みそうになるのを唇を噛んでこらえた。