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第22話 名前で呼んで

 まずはサラダとお味噌汁を仕込み、出来上がったサラダはラップをかけて冷蔵庫に仕舞う。

 お味噌汁はとんかつが出来上がるタイミングで温め直そう。

 サラダを作っているときのレタスを千切る王司さんは、その作業にも苦戦しているように見えて、料理が苦手だと言う言葉に真実味が増した。


「さすが。手際がいいな」

「そうですか? 王司さんも、やってみます?」

「上手く出来ればいいけど」


 かぼちゃの煮つけを作るために、レンジで一度温めて柔らかくしたかぼちゃを一口大に切っていく。

 それを王司さんと交代するために、王司さんに場所を譲った。

慣れない手つきながらも、包丁を扱う手は決して下手ではない。かぼちゃは王司さんに任せて、私も他のものの仕込みを――。


「あっ」


 王司さんが突然声を上げる。振り向けば、彼は自分の手を見つめていた。それから私を振り返って困り顔で笑う。


「指、切っちゃった」

「えっ、ええっ!? そんな冷静に……!」


 左手の中指。第一関節と第二関節の間から、じわりと赤い血が滲んでいる。

 絆創膏、と私は自分のバッグを慌ててひっくり返した。


「傷口洗って、それから座って待っててください!」


 ポーチの中を漁って絆創膏をひとつ切り離す。

 それから、ソファーに座り傷口を押さえている王司さんの元へ駆け寄った。


「見せてください。絆創膏貼りますから」

「ちょっと切っただけだから、大丈夫だよ。押さえてたら血もすぐ止まると思う」

「ダメです!あとでちゃんと消毒もしましょう」

「……うん、ごめん。心配かけて」


 私はそれに首を横に振って、王司さんの指に絆創膏を貼る。

 真ん中のパッド部分にじわりと赤が滲んだ。


「あまり痛みはないから、安心して」

「それなら、良かったです……」


 ホッと胸を撫で下ろす。王司さんの言う通り、深くは切っていないようでよかった。


「それじゃあ、王司さんはもうこのままここでゆっくりしていてください」


 あとは私がやりますから、と立ち上がったとき。不意に腕を掴まれ、引き寄せられる。

 突然のことで体は傾き、そのまま王司さんの胸に頬を預ける形になってしまった。


「ちょ、あの……?」

「どうして、今日はずっと敬語なの?」


 耳元で囁かれる。優しい声は、どこか意地悪なトーンにも聞こえる。


「ご、ごめんなさい。やっぱり直接顔を見ると、ちょっと緊張しちゃって……」


 王司さんの胸を軽く押してみるけれど、ガッチリとホールドされてしまっていてびくともしない。

 王司さんの体温。シャンプーなのかボディーソープなのか、それとも洗濯洗剤の香りなのか分からないけれど爽やかな香りに包まれてどうにかなりそうだ。


「敬語をやめてくれるまで……いや、違うな。俺のことを名前で呼んでくれるまで離さない」

「えっ!?そんな……!」


 何とか顔を上げれば、にんまりと口角を上げて笑う王司さんがいて。

 そんな顔、一体どこで覚えてきたの……!

 幼少期の面影なんて、そこにはなくて。頭がグラグラと沸騰して、このまま逆上せてしまいそうだ。


「エプロン。さっき、水が撥ねて……王司さんの服、濡れちゃう」

「構わないよ。っていうか、また王司さんって言ってる」

「うっ……」

「二人きりのときくらい、特別感が欲しい」


 さらりと、王司さんの長い指が私の髪を梳く。どうかな、とお伺いを立ててくれてはいるけれど、どこか拒否権のないような雰囲気だ。


「い……伊月……くん」


 勇気を出して、伊月さんの名前を紡ぐ。

 顔が熱い。

 王司さんの言う通り、会社では苗字で呼び合う私たちにとって、下の名前で呼ぶことはとても特別感があった。

 物理的なものじゃなくて、心まで距離が近くなるような……。

 でも、呼び捨てするにはまだ勇気が足りなくて、くん付けで呼ぶのが精一杯だった。それでも声は恥ずかしさから掠れてしまったけれど。


「呼び捨ては、もう少し待って」


 そう言って、王司さん……いや、伊月くんから目を逸らす。

 伊月くんは約束通り離してくれるどころか、私をさらに強く抱きしめた。


「やばい……家に帰したくなくなった」

「え、ええ?」

「家どころか、もう今離したくない」


 他の人のこと絶対下の名前で呼んじゃダメだよ、と言う伊月さんに、そんな相手いませんよ、と返す。

 体が密着しているからか、ドクドクと伊月くんの心臓の音が聴こえる。

 それは私のと同じくらい速くて、彼が同じようにときめいてくれているのだと思うと、なんだか嬉しかった。


「あっ、ご飯の続き……!」


 どんどん遅い時間になっちゃう、と顔を上げる。伊月くんは油断していたのか、今度はあっさりとその腕から抜け出すことができた。

 耳まで熱く、きっと赤くなっている。それがバレないように、手で自分の横髪を梳いて隠した。


「俺も近くにいていい?」


 伊月くんがキッチンで私の隣に立つ。

 そんなに優しく微笑まれたら拒むことなんてできない。……拒む理由も、拒むつもりも、最初からないのだけれど。

 うん、と頷くと伊月くんが嬉しそうに笑って、私の作業を見守った。

 とんかつも綺麗に揚げ終わって、煮物は小皿に取り分ける。今日食べる分は少し味の染みが弱いかもしれないけれど、そこは仕方がないだろう。それまで待っていたら、どんどんと夕飯を食べる時間が遅くなってしまう。

 明日以降はきっと美味しくなっている……はず。

 お味噌汁を温め直すために、火にかけてお玉でかき混ぜる。

 美味しそう、とそれを覗きに来た伊月くんとふと目が合った。背が高い彼を必然的に見上げる形になってしまう。

 顔を上げた瞬間、私の唇に伊月くんの唇が軽く触れて、すぐに離れていった。


「!?!?」

「無防備だったから」


 ふふん、といたずらに笑う伊月くんの目は見れない。油断、できない。

 せっかく冷め始めていた頬がまた熱く火照るのを感じて、自分の手の甲で冷ます。


「そういえば……杏南って、こんなに小さかった?」


 なんか前より目線の位置が……と言いながら、伊月くんは手で私の身長を測る。ちょうど、伊月くんの肩あたりに私の頭があった。


「あ……職場や外では、高いヒールの靴履いているから……」


 そう返せば、伊月くんは思い出したように「あ、そうだ」と手を打つ。


「いつも高いの履いてると思ってたんだ。何センチのヒールを履いてるの?」

「な……7cm」

「7!? すごいな、足、疲れない?」

「もう慣れたから」


 意外と便利なんだよ、と返す。高いところの物を取るときや、電車のつり革を掴むとき。そう笑って言う。


「なんだか、本当の杏南を見られたみたいで嬉しい」


 陽だまりのように伊月くんが笑う。

 その言葉は私の胸の奥をそっと撫でて、柔らかくほぐしてくれるようだった。

――本当の、私。


「あ……あのね、伊月くん」

「うん?」

「聞いて欲しいことがあって、」


 そう言いかけた私の言葉を、炊飯器の炊飯終了音が遮る。

 伊月くんはそんなこと気にせず、私の話の続きを待っている。

 でも……。


「お、お味噌汁! 味見してくれる!?」


 お玉で小皿にお味噌汁を掬って伊月くんに差し出した。


「え? あ、うん。もちろん」


 うまいよ、と一口啜った伊月くんは笑う。

 ああ、なんて私は意気地なしなんだろう。嫌になる。

 けれど、本当の自分を打ち明けて、傷つくのが怖い。伊月くんがもし困った顔をしたらどうしよう。

 そう思ったら、とても本当の自分のことなんてなにも言えない。

 そうなるくらいなら、隠したまま伊月くんの隣にいたいと思ってしまう。

 そんなの……絶対すぐに、どこかで綻びが生まれるって分かっているのに。


(今はまだ……このままで)


 今日はまだ、この甘い幸せを噛み締めていたい。

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