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第21話 フリルのエプロン

 ついにこの日が来てしまった。

 この1週間、チームメンバーには大変申し訳ないが仕事に集中しきれていなかった自覚はある。

 昼過ぎ、王司さんからスマートフォンに1通のメッセージが飛んできた。

 内容は『仕事が終わったら、駐車場で待ってる』という内容だった。

 王司さんはいつも電車通勤なのだけれど、今日は車で来ると事前に教えてもらっていた。食材を一緒に買って帰るだろうから、そのほうが動きやすいだろうと。

 それはつまり、王司さんの車に私も乗るということではあるのだけれど。助手席に乗るのが普通なのか、それとも後部座席に乗るのが普通なのか。助手席に乗った場合、王司さんとの距離が近くて私は耐えられるだろうか、とか。

 そんなことが、数日前からずっと私の頭の中を騒がしくさせている。


 なんとか残業を回避して、予定通り定時で仕事が終わったことを王司さんにメッセージで送る。

 するとすぐに既読がついて、王司さんからは『俺も終わった』と返信がきた。

 上司や同僚、後輩たちを「お疲れさまでした」と先に見送ってから、私もオフィスを出る。

 駐車場に行くにはいつもと違うルートを通らなければならず、できるだけ人目につかないようにして行きたかった。

 というのも、交際を公にするかどうかという話を最初のデートのときにしていて、王司さんが私の希望に任せると言ってくれたから、「じゃあ、今はまだ内緒で……」とお願いしたのだった。

 社内でも王司さんに憧れている人は多くて、ただでさえ王司さんが私に構うだけで大きな注目を集めていたのだ。百合川さんは、王司さんの相手が私なら……と言ってくれていたけれど、中には疎ましいと思っていた人もいると思う。

 そんな中で、王司さんと私が交際とスタートさせたなんて知られたら…

 想像するだけで背筋がゾッとする。今はまだ、私には王司さんの隣に堂々と立てるような魅力はないと思うし……。


 そんなことをじめじめと考えている間に、オフィスの裏手にある駐車場についた。王司さんの車はどこにあるだろうか。車種くらい訊いておけばよかったと思いながら、辺りを見回してみる。

 すると、駐車場の1番奥。あまり人目につかない位置に停められた黒い車の前で、スマートフォンを触りながら立っている王司さんを見つけた。

 他に駐車場に人がいないことを確認して、そっと彼に駆け寄る。

 私の足音に気付いたのか、王司さんはパッと顔を上げると「お疲れ」と微笑んだ。


「お疲れさまです。お待たせしました」

「いや、全然。じゃ、行こうか」

「は、はい」


 どうぞ、と王司さんは運転席側にはいかずに助手席のドアをスマートに開けてくれた。私が悩む暇もないくらいスムーズな動作に、ドキマギしている心だけがついて来られないまま助手席に乗り込む。

 車内はホワイトムスクの爽やかな香りが嫌味なく漂っていた。シックなシートに腰を下ろし、シートベルトを締める。

 王司さんは運転席に乗り込みエンジンを掛けると、私の準備ができているのを確認してからゆっくりと車を発進させた。

 車には詳しくないから実際のところは分からないけれど、乗り心地がとても良くて、それだけでこの車が『良い車』であると分かる。

 それ以前に王司さんの運転がとても丁寧であることも間違いないのだけれど。

 横目で王司さんを見る。広い車内だから、王司さんとの近さを感じないのは今の私におってはありがたかったかもしれない。

 ハンドルを握る、白いシャツの袖を捲った少し筋肉質な腕にさえ、見ているだけでドキドキとしてしまうくらいなのだから。



 途中で、大きなスーパーに寄る。


「何が食べたいですか?」


 買い物かごを載せた買い物カートを押しながら王司さんに尋ねる。

 王司さんは「今日一日、ずっとそれを考えてたんだけど」と顎に手をやった。


「仕事中に?」

「うん。今日が楽しみすぎて仕事どころじゃなくて」


 あはは、と王司さんは眉を下げて自嘲した。


「杏南は普段、どんな料理を作るの?」


 野菜コーナーをゆっくり見ながら、王司さんは私に尋ねる。


「うーん、結構何でも作ります。和食も洋食も、満遍なく……」

「へぇ、すごいな」

「新卒のとき、慣れない会社と一人暮らしでストレスが溜まっていて。そんなとき、料理を作ってるときはそれに没頭できて楽しかったんです。それから、ハマっちゃって」


 今度は私が自嘲気味に笑いながら言った。


「だから、別にすごくはないんですよ」

「なるほど。杏南の料理は今まで頑張って来た証なんだな」

「え……」


 まさかそんな風に言われると思わなくて、言葉が出て来なくなる。

 頑張って来た証。

 その言葉が照れ臭いような、くすぐったいような。決してなぐさめて欲しくて言ったわけではないのに、思わず王司さんから目を逸らす。

「ありがとうございます」と何とかお礼を紡ぐことはできたけれど、その声はとても小さくなってしまった。


「じゃあ、いつも杏南が作っているような料理でお願いしたい。メニューは任せる」

「ええっ、本当にそんなので良いんですか?」

「ああ。凝ったものじゃなくて、いつも杏南が食べてるようなものを一緒に作って、俺も食べたい」


 うっ、と胸を撃ちぬかれる感覚。思わず胸を押さえそうになってしまった。

 どうしてこの人はこうも、優しく甘いセリフをズバッと言うことができるのだろうか。心臓がいくつあっても足りない。

 けれど、王司さんが昔から優しい人だということは私自身一番理解している。

 何時間も一緒に指輪を探してくれて、その日の内に見つけられなかったものを見つけてくれたような人なのだから。

 きっとその優しさを失くさないまま、大人になった人なのだろう。

 だから、誰にでも分け隔てなく優しくて、彼を慕っている人が男女関係なくたくさんいるのだと実感した。



 今日はとんかつとお味噌汁、サラダ、それから作り置きとして保存しておける副菜をいくつか作ることにした。

 王司さんの家に来るのは2度目。

 1度目は彼の家から逃げ帰ることしか覚えていないから、実質初めて来ると言っても過言じゃない。

 高級マンションの高層階。一人で住むには、私では広すぎると思えるほど大きなリビングに通される。

 ダイニングと繋がっていて、その奥にアイランドキッチンがあった。

 食材が入っていた買い物袋を置いて、家から持ってきたエプロンをつける。

 背中でエプロンのリボンを結んでいると、王司さんが「おお、」と小さく声を上げた。

 振り返れば王司さんと目が合って、それから彼の目が私を全身を見るように動く。


「結構可愛いエプロンつけるんだね」

「え……、あっ」


 今日、王司さんの家に行くことで頭がいっぱいでエプロンのデザインにまで思考が回っていなかった。

 血の気が引いていく感覚がする。

 自分を見下ろせば、フリルがついたピンクのエプロンが目に入った。


「あ、あの……これは、」

「いつもと雰囲気違うけど……うん、可愛い」


 ふわりと王司さんが目元を細め、微笑んだ。

 言い訳を紡ごうとした言葉は、そのまま喉の奥に詰まり飲み込む。


「すぐ使わない食材は、一旦冷蔵庫入れておく?」


 けれど王司さんは私の様子を気に留めることはなく、そう話題を変えた。


「あ、はいっ。そうですね、一回入れておきましょう」


 お願いしていいですか? と王司さんに返せば、彼は「分かった」と頷き、鼻歌まじりに冷蔵庫を開けた。

 楽しそうな王司さんの横顔。また打ち明けるタイミングを失ってしまったとエプロンの裾を握る手に力が入る。

 王司さんに決して見つからないように、小さく小さく溜息を吐き出した。

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