再来週の赤の曜日に、サラはどんなピクニック……いや、課外授業をするつもりなんだろう。
馬車の揺れに身を任せる僕がぼんやりと考えているうち、夕暮れの光に照らされる楢の木が見えてきた。あれを過ぎたらパートリッジ本邸の敷地内だ。馬車はしばらく進み、敷地の門をくぐって、元は“きれいな庭園だった場所”の横を通る。
そこで僕はふと思いついて壁の紐を引いた。
御者台からリンリンとベルの音がして馬車が停まる。小窓を開けた御者が「何か御用ですか」と問いかけてくるので、僕はここで下ろしてほしい旨を告げた。
この先は歩いて帰るから馬車はモート家に戻って構わない、と言ったら、御者はかなり難色を示したので、彼は僕を玄関まで送り届けるのが使命だと思ってるのかもしれないね。偉いなあ。
交渉の末、折れたのは御者だった。しぶしぶのようにうなずいて僕を下ろし、来た道を引き返していく。小さくなる馬車の姿を見送って僕はぐっと唇を引き結び、体を右に向けた。
さて……。
ここはパートリッジ本邸の庭園。……いや、正確には、“庭園だった場所”。
庭師たちがいなくなって何年も経つから惨憺たる有様になっていて、今はもう当時の面影なんてとっくになくなってる。いっそのこと「荒地」って呼んでもいいくらいの状況だよ。
どうして僕がこんな場所で馬車を下りたのかっていうと、実はこの先に『暁の王女』があるから。
『暁の王女』はとっても華やかな花だ。一本の茎の先に、フリルを重ねたみたいな大ぶりの花を一つ咲かせる。色は淡い紅。上品な香りは甘いんだけど、どことなく爽やかさもあって、あまり後には残らずスッと消えていく。
この花を見る僕の心にはいつも「森の中から眺める朝の空の光景」なんて言葉が浮かんでいたなあ。
『暁の王女』が誕生したのは今から約百年前のこと。当時のパートリッジ伯爵が「特別な花を作りたい」と思い立って、庭師と一緒に作り上げたんだ。
なんでわざわざ花なんて作ったのかというと、パートリッジ伯爵が一人の王女様に『特別な何か』を差し上げたいと思ったから。なんで『特別な何か』を差し上げたいと思ったのかというと……王女様が、パートリッジ伯爵のもとに嫁ぐと決まったから。つまり僕のご先祖様お二人の話だね。
以降のパートリッジ家は、庭園で一番日当たりのいい場所を『暁の王女』の育成地と定めて、大切に守ってきたんだけど……。
玄関へ向かう道から外れた僕は『庭園だった場所』に三歩進んだところで動きを止め、苦笑する。
「前よりずっと凄くなってるよ」
思わずもれた僕の呟きは、夕の風が運ぶ草のざわめきにかき消された。
やっぱりこの先へ行くのは無理だ。目の前には雑草が生い茂っているんだよ。あの辺りの草なんて僕の背より高いもんなあ。
玄関までの道は何とか手入れしてるけど、少しでも外れた場所はこんなふうに雑草の楽園になっている。花はとっくに枯れてるし、綺麗に刈り込まれていた樹木も枝は伸び放題で、ツルも下がり放題。『暁の王女』だってとっくに枯れて、雑草の中に埋もれてるだろうなあ。
六年前の僕は、『暁の王女』をずっと咲かせていこうって思ってた。『暁の王女』がパートリッジ家にとって大切な花だっていうのもあるけど、なにより僕自身がサラに「持っていく」って約束した花だから。
それで庭師たちがまだうちにいる間に『暁の王女』の手入れの方法を教えてもらったんだ。少しのあいだは手伝いもしたから、きっと僕は『暁の王女』を守れるって信じてた。
その考えが甘かったと思い知ったのは翌年のこと。
庭師たちが本邸から去ってしまったら、僕は『暁の王女』を咲かせられなかったんだ。
でもそのあとすぐに母上が亡くなってしまって、使用人たちは続々とパートリッジの本邸を去って行った。姉上まで「本邸から出て別邸に住む」って言いだして、父上も僕も大慌て。そんなこんなでいろいろなことがありすぎて、僕も『暁の王女』の世話をする余裕なんてちっともなかった。ようやく数か月後に行ってみたら、夏が過ぎたばかりの庭園は雑草だらけになっていたんだ。綺麗だった庭園しか知らなかった僕にとっては衝撃的な光景だった。
こんな状態なら花はぜんぶ枯れてしまってるに違いない。当時の僕はそう思い込み、『暁の王女』の世話を諦めてしまったんだ。
思い返してみれば、あのときの雑草の茂りかたなんてどうってことなかった。今と違って雑草も僕の膝あたりまでしかなかったし、『暁の王女』の元にも行けたはずだ。もしかしたら『暁の王女』だってまだ枯れてなかった可能性もある。
「……だけどここまできたら、『暁の王女』の花を咲かせるなんて、絶対に無理だけどね」
雑草と樹木の楽園を前にして僕は呟く。そこに言い聞かせるような響きを含んでいたのは、僕が僕に改めて『暁の王女』を諦めさせるためのものだったかもしれない。
あれからもう何年も経ってるし、ここまで雑草が繁茂してたら、さすがにね。
ふっと息を吐いて、肩を落として、僕は玄関へ行くために体の向きを変えて――そこで気がついた。
木の枝から透かし見えるあの一角は雑草が茂ってないように見える。ほんとうに、ごくわずかな場所だけど。
「あそこは……」
引き寄せられるようにそちらの方向へ踏み出す僕は、地面なんてまったく見ていなかった。
背後に妙な反動があり、続いて「ビリィッ!」って嫌な音がするまでね。
振り返ってみると、地面からひょっこり顔を出した木の根っこが若草色の布をヒラヒラさせていた。
おや? あれは僕のドレスと同じ色だよ? いったいどこから持ってきたんだろうね。
……おそるおそる視線を移動させると、ドレスの裾は一部分が行方不明になっている。どのくらい行方不明になってるのかといえば、僕の手のひらと同じくらい。ちょうど、木の根っこが持ってるのと、同じくらい……。
「うそだろおおお! ドレスは替えが、ないのにいいいいいいい!」
僕の絶叫が木々の間で「ないのにぃ、ないのにぃ、ないのにいぃ」って文字通り