「そうだ、次の授業を決めました!」
食器類を片付け終えたサラは、もう使わないバスケットを向こうの木の下へ持って行く。僕とサラのあいだを隔てていたものがなくなった。
「昼食後の最初の授業は、ダンスにします!」
「……ダンス……」
「曲は私が歌います。いいですよね?」
戻ってきたサラの笑顔に引き込まれるようにして僕はうなずき、立ち上がる。嬉しそうなサラがスカートの裾をつまんでお辞儀をした。
王都で令嬢たちの動きを学んだサラは、優雅で洗練された動きがちゃんとできる。それを僕は何度も見ている。
だけど、いまこのときのお辞儀は様子が違った。サラのお辞儀はちょっとぎこちなくて、どことなく不恰好なもの。子どもだった頃のサラがしていたのと同じもの。
ねえ、サラ。どうしていま、そんなお辞儀をするの?
頭を上げたサラが手を伸ばしてくる。
僕は手袋に包まれた小さな手を取る。
「ららららーららー、らららららーららー」
あの思い出のワルツを歌い出したサラが女性パートで動き始めるから、僕は思わず男性パートで動き出した。
サラは何も言わない。
スムーズに男性パートを踊る『エレノア』に対して、サラは不思議に思わないの?
貴族だからどちらでも問題なく踊れるって考えでいるの? でも。
「らららららららー、らららららららー」
歌うサラは頬を紅潮させて僕を見つめる。それがまるで何もかも見通してるみたいで、僕は踊りながらドギマギする。
ねえ、サラ。
どうしてお辞儀がぎこちなかったの?
どうしてこの曲でダンスを踊るの?
どうして今日は、野外授業なんて言い出したの?
サラは何も取り繕うところのない、無邪気な微笑みを浮かべて、僕に囁く。
「楽しいね」
うん、そうだね。
僕もとても楽しい。
「らーららーららーら、らららら」
いつの間にか僕も歌いだしていた。
湖のほとりで、二人の声が風に乗って流れていく。
穏やかな時間が過ぎていく。
ああ、幸せだなあ。
ねえ、サラ。もしかして、本当は、僕の正体に気付いてる?
……ううん、気づいてなくてもいい。僕がグレアムなんだって言っても、きっとサラは怒らない。『先生と生徒遊びだったね、子どものころの延長だね』って笑って許してくれるはずだもの。
曲調が変わって二人の顔が近づく。
その機を逃さず、僕は思い切って囁いた。
「ねえ。聞いてほしいことが」
「ららら……」
サラの歌が止まった。
それは僕の話を聞いてくれるつもりだから。
――じゃ、ない。
目を見開いたサラは僕の肩の後ろへ視線を向けて立ち尽くしてる。
なにが起きたんだろうと思って振り返ると、こちらへ向かってくる馬車があった。
え? 馬車? ……誰の?
ふいに風が吹く。
さっきまでのサラが終了の合図に使っていたベル、それが地面に転がって、リリリリリンリンと鳴った。
甲高いその音を聞いて僕はハッとする。
先日も『約束の花束をあなたに』の話を聞いた後に「サラは“エレノア”が“グレアム”だって気付いている!」なんて思って、正体を明かそうとしたよね。あのときも「絶対そんなことない」って思い返したじゃないか。今回はまさに言う寸前、本当に危ないところだったんだぞ。まったく、どぉぉぉしてちっとも学習しないんだ? 僕のバカ!
頭を抱えたくなったところで、小さなサラの声がする。
「……嘘でしょ……どうして、お父さんが……」
よく見ると向かってくる馬車は陽の光をはじいて金ぴかに輝いていた。モート家の金ぴかな部屋と同じ空気感だね。ジェフリーの馬車っていうのも納得だ。
僕は繋いでいた手をそっと離してサラと距離をとる。呆然としているサラはそんなことにも気づいていない感じだった。ちょっと寂しい気持ちと同時に湧き上がってくるのは疑問だ。
サラが今日、
だけどまさかその用事の中で、僕の女装に関して勘付く何かがあったわけじゃないよね? で、糾弾するため馬車を走らせてるとか? ひいいい!
……なんて、考えてても仕方ないか。
「サラさん、ジェフリー卿がいらっしゃるなら出迎えなくてはいけませんわ。靴を履きましょう」
「あ……」
ぼんやりとした様子のサラは僕を見て力なく頷き、ノロノロと動きだす。無言のまま互いに靴を履くと、サラが敷き布を片付け始めた。先ほどまでの穏やかさが嘘だったみたいに重苦しい空気だ。
一方で、軽やかに走ってくる馬車は僕たちに近くなったところで止まり、中からはやっぱりジェフリーが降りて来た。今日はシルクハットを被ってないなあ。もしかしたらそれは、ジェフリーに続いて姿を見せた若い男性のせいなのかも。
不思議なんだけど、彼が現れた途端に僕は、辺りがパッと輝いたような気がしたんだ。
彼の着ている薄い紫の服はなめらかで艶やかで、いかにも高級そうな布を使っている。胸元の大きな宝石は色鮮やかな青で、肩の金の飾りだってとても豪華。すっごくキラキラしい人物だ。
でも、彼が目を引くのは物理的に輝いてるせいじゃない。なんていうのかな、まとってる空気がすっごく華やかなんだ。きっと人と接するのが得意で、いつも場の中心にいて、人々に囲まれていることに慣れているんだね。姉上と同じタイプだ。ほら、ウエーブがかった短い黒の髪をふとかき上げる仕草や、ジェフリーに話しかけられて答えるときの表情や物腰だって、すごく人目を引くよ。
ジェフリーが来た理由は分からないけど、来るっていう事実だけを考えるならまあ、分からなくもない。だってサラの父親なんだから。
でも、あの男の人はなんだろう。どうしてジェフリーと一緒にいるんだろう。
瞬間、彼が僕を見た。その仕草は予定されていたようなというか……なんだろう。彼は僕に会いに来たような気がしたんだ。そんなことあるはずないのに。
そう、そんなはずはないんだよ。
だったらジェフリーに連れられた彼は何者? どうしてここに?
異質な存在の放つ違和感で僕の心が大いにざわめく。
……嫌な予感がする。
「おお、やはりここにいたんだな、サラ!」
妙に朗らかな様子でジェフリーが手を挙げる。
「幸いなことに話がスムーズにまとまってね、どうしてもお前に報告したくて馬車を走らせてしまったよ。――紹介しよう。こちらはルーク・センシブル様。お前の夫となる方だ!」
嫌な予感が当たってしまったその瞬間、僕はどんな顔をしていたんだろうね。