「……こっちは止めといた方が良さそうだ。階段が所々崩れてた」
少し先の様子を見てきた
「そう……。
仕方ない、無理して上って本格的に崩れたりしたらそれこそ危険だし、別のところをあたってみよう」
みんなにそう提案して同意をもらいながら、僕は――思った以上に早く自分が落ち着きを取り戻していることに、自分で少し驚いていた。
――給湯室を覗いたときに見た光景については、疲れたりしているせいで幻覚を見ただけだと自分に言い聞かせて、誰にも言わずにいた。
幻と片付けるにはあまりにはっきりとしたものだったけど……そう決めてかかると、思った以上に気が楽になったからだ。
そうして、みんなと一緒に地下通路を進むうちに……いつの間にか、あれは本当にただの幻に過ぎなかったんじゃないか、とまで思えるほどになっていた。
……いや、きっと……本当にただの幻だったんだ。
だからこそ、こうしてあっさりと短い時間で記憶の隅に追いやって、平静を取り戻せたに違いない――。
「次は……こっちの方か。行こう」
パンフの地図で、次に地上へ出られそうな近い場所に目星をつけ、僕らは歩き出す。
この地下通路こそ、迷宮と呼べそうなほど広い上に入り組んだ場所だったけど……。
所々の床や壁に、きちんとアトラクションやエリアの名前と方向が表記されていたから、地上と地下って違いはあるものの、パンフの地図と照らし合わせて大体の方角が掴めるので、迷うようなことはなかった。
その途中で、掃除用具や整備道具のしまってある部屋を見つけた僕と泰輔は、さっきのようにまた、いざというとき扉を塞ぐのにも使えるはずだと、モップの柄と、さらに工具箱から役に立ちそうな物をいくつか拝借しておいた。
「ナイフとか刀みたいな、いかにもな物があれば良かったんだけどなあ」
大振りのモンキーレンチをベルトに挟み込みながら、泰輔は物騒なことを言う。
けど彼のことだから、沈みがちになる気分を少しでも盛り上げようという冗談なのはまず間違いない。
「場所が場所だけに、切れない剣ぐらいならあるかもね」
僕は苦笑を返しながら、何かの役に立つかと、ボルトとナットの詰まった小袋なんかをポケットに突っ込む。
そのときポケットの中で手に触れたスマホを、何気なく取り出してみた。
そうして、画面の時刻表示に、思わずため息をもらす。
「お……なんだ
道具部屋から出てくるなりため息をつく僕を心配してくれたのか、声をかけてきた
「もう夜の8時過ぎなんだなって思って……。
みんな、お腹とか空かない?」
「いや……。
そっか、8時か……いい加減晩メシの時間も過ぎてるし、散々走ったしで、疲れて腹減っててもいいようなもんだけどなあ。俺、全然食欲無いわ」
康平の発言に、みんなして口々に同意する。
かく言う僕も、やはり食欲なんてこれっぽっちも無かった。
疲れすぎているせいか、凄惨なものを見続けたせいか……それか、異常な状況下にあるせいで、空腹なんて感じている余裕も無いのかも知れない。
「あ、何か欲しくなったら……あたし、アメとかお菓子なら、持ってるから」
「さんきゅ。じゃ、ミント以外のアメ、なんかくれ」
「そっか、泰輔、スースーするやつ苦手だったっけ」
オレンジそのものか、それともミックスしたものか……柑橘系の爽やかに甘い香りがした。
「ミント以外って……子供か、アンタは」
「悪かったなー。
でも、ピーマンとかニンジンなら食える――」
慌てて彼に続いた僕らは、たちどころにその理由を理解した。
誰もが反射的に息を呑み、あるいは視線を逸らす。
そこに広がる光景は、まるで――ペンキを容器ごと滅茶苦茶にぶちまけた、ヘタなアートのようだった。
すぐ手前にある、休憩室と書かれた開きっぱなしのドアの内側から、通路のずっと先の方へ向かって――床といい壁といい天井といい、あらゆるものが、赤黒い液体と、その内に浮かぶ生々しいぬめりのある肉塊で、乱暴に彩られていたのだ。
場に濃密に澱んでいた生臭い血の臭いに、柑橘の甘くて爽やかな香りなんてたちどころに呑み込まれてしまう。
「こっちを行くのは……まずいな」
真っ赤に塗り込められた休憩室には動く者の姿は無く、通路を行くに従って血糊が減っている惨劇の跡を目でたどれば……。
それを引き起こした
ただ……この軌跡が逆じゃなかったのは、ある意味幸いだったかも知れない。
もしそうなら、僕らはその存在と鉢合わせすることになっていたんだから。
「遠回りになるけど……向こう側から回っていこう」
僕の一言が呪縛を解くきっかけになったように、僕らは慌ててきびすを返し、T字路の別方向へと逃げ込む。
――自分たちがまだ危険の真っ直中にあることを、僕らは思い知らされた。
この地下通路に逃げ込んでからここへ来るまで、血や死体といった、惨劇を連想するものを目にしなかったからだろう。
僕らはきっと、もう安心なんじゃないかと、そんな風に思い始めていた――いや、思おうとしていた。
それが、あの揺るぎ無く生々しい現実に、あっさりと打ち砕かれてしまったんだ。
別の道をとってしばらくの間は、誰も一言も発さなかった。
ただ、大きなショックを受けはしたものの、先の美樹子のように、誰かがパニックを起こしたりするようなことは無かったのが、幸いと言えば幸いだった。
「ルートを……決め直そう」
沈黙を最初に破ったのは祥治だった。
彼はまだ重苦しさの抜けきらない声で、けれどもなるべく普段通りの口調を装ってそう言うと、立ち止まって地図を出すように指示する。
応えて美樹子がパンフを取り出し、みんなで輪になってそれを覗き込んだ。
そして互いに、気を落ち着かせるためにも色々と意見を出し合いながら、初めに予定していたものを大きく迂回する新しいルートを決め直して……また当面の目的地に向かって歩き出した。
これまでと違って、周囲に細心の注意を払いながら行動することになったので、進み具合は遅い。
けれど、こうして警戒しておく必要があるってことを、僕らは痛感したばかりだ。
「……祥治。祥治は、人を襲うあの状態……なんだと思う?」
トイレの中など、一目ではそれと分からないところにも注意を払いつつ……僕は側にいた祥治にふと尋ねてみた。
「僕と康平は、まるで悪霊とかが憑いたみたいだ、って話してたんだけど……」
「――そんなことがあるわけないだろ」
祥治はぴしゃりとその説を否定する。
もっとも、彼ならそう言うだろうと思っていたので、納得しても驚きはしなかった。
僕らのうちで言えば、あと芳乃も同じく、そうした心霊現象とか非科学的な説は、真っ向から否定するタイプだ。
「そうだな……確か狂犬病は、水を避けるようになるから恐水病とも言うだろう?
そういった、人格や性格にまで影響を与えるような奇病の類じゃないか?
それが何によって引き起こされているのか分からないのが困るところだが……発症している人間には何の繋がりも無さそうだし、まず病原体の感染ルートとしては空気感染、だが感染力そのものは低い――とか、そんなところじゃないかと俺は思う」
「……なるほどね……」
祥治の説に、僕は素直に頷いた。
……確かに、安易に心霊現象なんかに結びつけて処理してしまうよりは、よっぽど現実的で納得出来る。
もっともこの説にしたって、なぜ突然こんな風に発症し始めたのか、とか、疑問を差し挟む余地はいくらでもあるわけだけど……そうした説明のしようが無いところもあることは、当の祥治も承知しているだろう。
でも、そんなことは当たり前だ。
僕らは医者でも学者でもないんだから。
こうして手持ちの僅かな知識から予測を立てて、危険を回避するのに役立ちそうなことを考え、いざとなったら手探りで実践して確かめていくしかないんだ。
「真相のほどは……結局、分からないけどな」
「そうだね。でも、分からないからって投げ出したらダメだと思って。
今の祥治みたいに仮説を立てたり、出来る限り考えていくべきだと思うんだ。
そうすれば……きっといざというとき役に立つって、僕はそう思う」
「……そうだな。それは俺も同じだ」
僕の意見に、トイレの隣りにある小さな倉庫のような部屋を確認し終わった祥治は……力強く頷いて同意してくれた。