「何とかなった、な……」
「うん……」
みんなで座り込んだまま、互いに助かったことを確認し合い、呼吸と気持ちが落ち着いてくると……やっと、今いる場所を確認する余裕が出てきた。
見渡してみると、ここは……。
先々までいくつもの十字路が見える、長い真っ直ぐな通路の端のようだった。
造りは、今まで園内でずっと接してきた、非現実を
打ちっ放しコンクリートの壁、つるりとした白い床、天井に等間隔に並んだ何の装飾もないシンプルな照明……と、機能一辺倒と言うか無機的なもので、むしろこれまでいた場所よりよっぽど、異世界にいるような気がしてしまうぐらいだ。
「ここって……もしかして、関係者用の……?」
そんな僕の疑問に答えてくれたのは
「スタッフ専用の地下連絡通路……だな。
さっき見た案内図にも書いてあったし、前にテレビの特番で見た覚えもある。
確かパーク全域に広がってて、ほとんどのアトラクションに通じてる、とか」
「あ、それ……わたしも見た。
資材とか運んだり、アトラクションの機械の整備とかをお客さんに見られないようにしたり、パレードとかに邪魔されずにスタッフの人がアトラクション間を移動したりするために作った地下通路だって話……だよね」
……彼女の中では、まだ、みんなに迷惑をかけたっていう罪悪感が残っているのかも知れない。
そんな美樹子の心境を悟ったのかどうか、祥治は一呼吸入れてから立ち上がって、普段通りの調子で「そうだ」と美樹子に頷いた。
「じゃあ、ここを通って行けば、上を行くよりもずっと早く入場ゲートまで戻れるってことじゃねえのか?」
「……地震の心配が無いなら、それもいいかも知れないけどな」
名案とばかりに声を弾ませる
「今のところ大丈夫そうだけど、さっきみたいな揺れがもう1回来たらどうなるか。
それこそ生き埋めになりかねねえだろ」
そう言いながら泰輔が触れるコンクリートの壁には、大きく亀裂が入っていた。
いや、そこだけじゃない……見れば、床も、天井も、そこかしこに同じようなヒビが見受けられる。
「そっか……そうだよな……」
「それじゃあさ……。
まっすぐ入場ゲートを目指しながら、適当なところで上に上がるってことでどう?
連絡路っていうぐらいだから、直に外に繋がってる出口もあると思うし」
大きく諦めのため息をついて腰を上げる康平に続き、僕も立ち上がると、みんなにそう提案する。
みんな考えていることは大体同じだったんだろう、その案は特に異論が出ることもなく受け入れられた。
「どのみち――」
言いながら
「さっきのヤツが、まだすぐ向こうにいるかも知れない以上、戻るのは危険なんだから。
このまま進むしかないでしょ」
芳乃に釣られて背後の扉を振り返った僕は――僕が取っ手に通したモップに、視線を釘付けにされた。
いや、正確にはその先端……そこについた血糊だ。
僕が、あの女の人の目を突いたときに付いた――。
「……っ」
頭の中で、あの瞬間の手応えと、頭の中で響いた幻聴のような擬音が甦って――今さらながら、吐き気がこみ上げてくる。
これまで凄惨な死体を見ても何とか堪えられたけど、それはむしろ、あまりにも異常すぎて現実味が無かっただけなのかも知れない。
却ってこんな普通に起こり得るようなことの方が、ストレートにショックなんだろうか。
ましてや……行為そのものの是非はともかく、それをしたのは他ならない、僕自身だ。
「……
ユリが、横合いから僕の顔を覗き込んでいた。
みんなだって当然の事ながら決して顔色は良くないけど、そんな中でも今の僕は特別ヒドく見えたらしい。
「大丈夫か景司?
ちょっとあそこで顔でも洗って来いよ、少しはすっきりするだろ」
続いて優しく僕の肩を叩いた泰輔が、そう言って通路の先、最初の十字路を指差す。
言われるまま見ると、左に折れてすぐのところにトイレのマークが付いたドアがあるのが分かった。
僕はその好意に甘えることにし、女子が申し出てくれた付き添いを断って、1人で小走りにトイレへと駆け込む。
中は真新しくて小綺麗ではあったけど、やはり特別な装飾などは無い、ごく普通のトイレだった。
地震によって剥がれたタイルやコンクリートの欠片がまばらに散っていて、一瞬、水道が生きているのか不安になったものの……蛇口の下に手を差し出すと、水は勢い良く流れ出てくれた。
ふと視線を上げ、一筋のヒビが入った、目の前の鏡に映る自分の顔を……改めて観察してみる。
確かに、自分でそうと分かるぐらいに、僕は青い顔をしていた。
だけど……それだけじゃなく、そうやってじっと見ていると、鏡の中の僕の目がやがて揺れ動いて――あの痙攣を始めるんじゃないかと、落ち着かなくなる。
そうなったところを見たことがあるような気すらしてくる――。
「ああ、くそっ!」
ひっそりと絡みつく、目に見えない何かを振り払うように……僕はわざと声を荒げ、蛇口から流れる水をすくっては顔に叩きつけるようにして、乱暴に顔を洗った。
初夏と呼ばれる季節ではあるけど、水はまだそれなりに冷たい。
そのお陰もあって、何度かそうして洗っているうちに妄想めいた不安は消えて、吐き気も治まり、泰輔が言うように頭も幾分すっきりとしてきた。
そう……これから先、安全なところへ逃げるまでに、また襲われるかも知れないんだ。
そしてそのときには、僕だけでなくみんなの身を守るためにも、今以上の暴力を振るわなきゃならないかも知れないんだ。
そう考えれば、これぐらいでへこたれていたら身がもたない――。
僕は自分自身を叱咤して何とか気を持ち直すと、ハンカチで手早く水気を拭ってトイレを出る。
そのとき気付いたのは、トイレの正面に、給湯室というプレートを掲げたドアがあることだった。
さっきまでみんなといた方向からだと、ちょうど死角になっていて見えなかったところだ。
別に何か用があったわけじゃないけど、僕は何となく、ドアの小窓から中を覗き込む。
――そして、息を呑んだ。
真っ白な壁に四方を覆われた、何もない無機質な部屋で……黒い大きな芋虫がのたうっていたからだ。
……芋虫……?
いや、違う……あれは――人間だ……!
黒い大きな、袋のような拘束具を頭から全身にすっぽりと被せられて、鎖でがんじがらめにされた人間だ。
最低限の呼吸のためだろう、小さく空けられた穴から覗く鼻と口が、それを証明している。
しかも、その大きさからすれば大人じゃない。
僕よりもずっと幼い、恐らくは小学生ぐらいの……子供だ。
そしてさらに部屋の中には、それを見下ろす、白衣姿の長身の男が2人、僕に背を向けて立っていた。
僕は――目を離せずにいた。
拘束された子供は、人の尊厳を根こそぎ奪われていると言っても過言じゃないはずだ。
……にもかかわらず、白衣の男たちは哀れんだりするわけでもなく、ただその様子を観察しているようだった。
まったく中の音は伝わってこないけど、彼らが時折何事かを話し合い、そして何かをメモしているのが分かる。
その態度には、冷静さという表現を通り越して、ぞっとするほどの冷酷さしかなかった。
皮肉にも――芋虫のように拘束されている子供の方が、よほど人間らしいと感じるほどに。
子供が、何かを叫びながら激しくその身をのたうつ。
白衣の男たちが、じっとその様を観察し、メモを取る。
子供が、のたうつ。
男たちが、観察する。
古い無声映画のような乾ききった光景を、僕はただ魅入られたように見つめ続けた。
……何かが、引っかかっていた。
何かが引っかかって、それが頭の中を小さく引っ掻いたような痛みが――した。
「おーい景司、まだかーっ?」
「――ッ!?」
泰輔が呼んでいる――そう気付いた瞬間。
小さな痛みを伴った頭の中の違和感もすっかり消えて――。
目の前、ドアの小窓の向こうに見えるのは……流し台に湯沸かし器という、ドアのプレート通り、給湯室の光景でしかなかった。