「
思わず口を突いて出た、その呼びかけに応じるように――。
鮮血の滴るピッケルを手にした富永さんは……ゆっくりと、返り血に真っ赤に汚れた顔をこちらに向けた。
『あの状態』になってしまったのか――。
そう判断して、僕や
だけど――違った。
僕らを見る彼女の目は、あの不快な痙攣はしていなかった。
真っ直ぐ焦点が合っていて……僕らを、僕らとして認識しているのが分かる。
ただ、じゃあまともなのかと聞かれれば――素直に頷くことは僕には出来ない。
落ちくぼんだ目と、その目つき……そしてぞっとするような凄みを感じさせる表情からは、およそ普通じゃない――狂気めいたものが窺えた。
ホテルの前で会ったときも、違和感を覚えたけど……そのときの比じゃない。
「富永さん、君は何を……。
そこの子供たちに襲われたの? それで身を守るのに――」
「なに言ってンの……?
襲いに来るまで待ってたら遅いじゃない。
だって――」
僕の問いかけを遮って、富永さんは口を開く。
それは、最初は恐ろしく冷たい、静かな調子だったのに……急に、スイッチが切り替わったように一転して、激しくまくし立て始めた。
「コイツら、夢を見てやがったンだよ!?
アタシは知ってる、気付いたんだから! ――そうだ、気付いたンだ!!
夢を見たヤツはああなるんだ! 襲って来ンだよ、食われて!
頭からガリガリガリガリ囓られて! 丸呑みにされて! 真っ白く溶けるんだ! 真っ白くするのに邪魔なんだ、他の色! 色んな色が! 分かンないから塗りつぶすンだよ! 塗り替えるのに邪魔なんだ!
だからその前に止めた! 殺して止めてやったンだ! 止めてやったンだよッ!!」
「富永、お前何言って……」
また目を剥いて、何とも形容しがたい――ただ、表現するなら憎悪とか憤怒とかいったものが最も近いとは思う――醜悪な形相で、さらに言葉をぶちまける。
「アンタら気付いてないの? 夢ン中から覗き込んでいやがるんだよ、何か! 小さい何かが!!
夢見たら見られる、ソイツが入ってくる! 食われるンだ! だからおかしくなるんだよッ! あの小さい――小さい小さい、小さい何かが……ッ!」
「な、何、なんなのよ……その、小さい何か、って……!」
続けて
「し、知らない……知らない知らない! 知らない……ッ!
ああ……で、でも知ってる、アタシは知ってる――!
いるんだ……! アイツらはいやがるんだよ! 夢を見たがってる……!」
富永さんの表情の変わり様は普通じゃなかった。
恐怖に青ざめていたかと思うと、また、僕らに嘲笑を向ける。
「……あ、アンタたちは、白い色があるから、アタシと同じで気付いてると思ったけど……そうか、まだ気付いてないんだ……。
なァんだ――じゃあ、コイツらと同じだッ!!」
富永さんはいきなり、足下に転がっていた子供の死体――彼女が割ったのだろうその頭を、恐ろしいほどの勢いで踏みつけた。
そして、噴き出し、飛び散る赤黒い――液体とも固体ともつかない何かに足を汚しながら、さらに何度も何度も踏みつけながら……天井を見上げて笑い出す。
「アハハ、アハハハハ!! コイツらと同じ、同じだよ! アレに食われて終わっちゃう!!
終わりだ! 夢見て、見られて、終わりだよ! アハハ! アハハハハハ!!」
そんな、背筋が薄ら寒くなるような笑い声をひとしきりあげたあと……。
富永さんは、途端に僕らに興味が無くなったように……ついと視線を外した。
そして――
「でも、アタシは気付いてる、気付いてるンだから……!
お前らなんかに食われてたまるか、真っ白にされてたまるか……!
逃げ延びてやる、生き延びてやる……!
夢見てるヤツは殺して、お前らからは逃げ延びて……ずっと生き続けてやる……!
みんな溶けて真っ白になっても、アタシは、アタシだけは生き延びてやる、生き残ってやる……!
死んでたまるか……死んでたまるか……!」
誰にでもなく、宙に向かってそうブツブツと繰り返しながら……ふらふらと歩き去っていく。
僕らはそれを――ただただ、見送ることしか出来なかった。
……その後は、モールを出るまで……僕らは終始無言だった。
入った場所から外に出て、入り口前の広場を半ばまで来た辺りでようやく……泰輔が、ぽつりと口を開いた。
「富永、アイツ……パークから出て、ホテルに集まってからは全然会わなかったけど……何があったんだろうな……」
僕が最後に富永さんと会ったのは、ホテルを逃げ出す少し前だった。
そのとき既に、少し様子がおかしかったのは確かだから……ホテルに滞在していた間に何かあったのは間違いない。
だけど、彼女をあんな風にした原因が一体何だったのかとなると……それはまるで分からない。
でも――確かなことはある。
僕は声を潜め、あまり他には聞こえないようにして、泰輔に告げた。
「……これから、あんな風になる人はどんどん増えていくんだろうね……」
「そうだな……この状態が続く限りは、そうなんだろうな。
――でも富永のヤツ、おかしくはなってたけど……言ってたことの全部が全部、ただの妄想だとは……思えないんだ」
首を捻りながら、泰輔は言葉を続ける。
「眠るって行為に危険があるんじゃないか――ってことは俺たちも話してたけど、アイツが言ってたみたいに……その上で、『夢を見る』ってことも1つのポイントなのかも知れない。
――小さい何か、ってのは……とりあえず置いとくとしてさ。
思い返せば……
それにそう考えれば、寝てるヤツみんながみんな、『あの状態』になるわけじゃないってことの理由にもなるだろ。
……実際、俺は今のところ、寝たときに夢見た記憶は無いしな」
これなら納得出来る、とばかりに頷く泰輔。
でも、彼の仮説を聞く僕は……何と言うか、底知れない気持ち悪さを感じていた。
なぜなら……僕は、見ていたからだ――夢を。
何度も、確かに、鮮明に。
内容は……どうしても、思い出せない。
でも、見たことだけは間違いない――。
一瞬、打ち明けておくべきじゃないかと思ったものの……迷った末、僕は結局、何も言い出すことが出来なかった。
あくまで仮説の上での話なんだし、別に大したことじゃないかも知れない。
でも――
「――だから、とりあえず休むときは、夢見てそうなヤツはすぐ起こすようにすれば、もしかしたら未然に防げる……って、何だ
「あ、ううん……何でもないよ」
……でも、怖かった。
打ち明けることで、この状況で、みんなから異質な存在と見られるかも知れないのが怖かった。
いや、それだけじゃない――。
何よりも、自分が自分を、異質だと認識してしまうのが怖かったんだ。
きっと、僕は運が良かっただけなんだ――そう言い聞かせながら顔を上げると、否応なく、あのまるで動かない、夕日とも朝日ともつかない金色の太陽が目に入る。
それはやはり、嗤っているように思えた。
懸命にもがく僕らを。
そして――僕を。
ふと、唐突に吐き気がした。
記憶が揺さぶられる、あの感触――。
――そんなはずは無いのに。ありえないのに。
あの太陽を、あの嗤笑を――かつてどこかで見たような気が、した。