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-Ⅳ- 夢を見る。夢に見られる

1.なかったことに


「―――ッ!?」



 目を開いた瞬間、視界に広がったのは――白い天井だった。

 見覚えがあるともないともつかない、行き過ぎた清潔感が殺風景にすら感じるほどに、白い……。



 ……どうなってるんだ?

 僕は、確か……そう――。



 これより前、最後に見た光景を思い出して……思わず頭に手をやる。


 ――手に触れるのは、髪の毛だけだった。

 温かいのに冷たくなる、あの、血のぬるりとした嫌な感触は無い。



 ……そうだ、確かに、撃たれて……。でも……。



「生き、てる……?」



 ともかく状況を把握しようと、身を起こす。


 ……辺りには、まるで用途の分からない電子機器がずらりと並んでいて……壁の一面には、こちらを監視するためのような、ガラスで隔てられた部屋がもう一つ見える。

 そして僕自身は、病院の入院患者が着ているような服を着て、その中央――手術台とも、実験台ともつかない台の上に寝かされていた。


 そして――この広い部屋のどこを見渡しても、人の気配がまるで無い。



 ……夢を、見ていた……? いや、でも、あれは……。



 取り敢えず身体が動くことだけを確認して、僕は……体中に張り付けられていた、周囲の電子機器から延びた電極のようなものを手当たり次第引き剥がし、台を下りる。


 素足に、タイル貼りの床がひやりと冷たい。


 壁の一角には、飾り気のない無骨な鏡が貼り付けられていた。

 自分の状態をきちんと確認しておこうとそれを覗き込んで、僕は……奇妙な感覚に囚われた。


 そこに映っているのは、確かに僕だった。間違いない。

 ただ……何だろう、微妙な違和感を感じて――。

 服装のせい、だろうか……。


 頭を振りながら、改めて、部屋の出入り口らしいドアに近付く。

 横開きの大きなドアには、特に鍵はかかっていなかったみたいで……少し力を込めただけで簡単に動いた。


 部屋の外は、中と同じような雰囲気の、白い廊下が続いていた。


 それは病院や研究所といった装いだけど……その雰囲気は、普通にそれらに対して抱くものよりも、はるかに冷たく感じられた。

 むしろ、率直なイメージとしては……牢獄、という方が近いかも知れない。


 そして何より、この空間は――驚くほど静かだった。

 空調の音や、機械の作動音のようなものは微かに聞こえるものの……それ以外の、たとえば人が発する不規則な物音とか、そういった生活感のある音がまるでしないのだ。

 それは……まったくの無音よりも、むしろはるかに息苦しく、重々しい静寂だった。



 ――嫌な寒気が、背筋を伝う。



 とにかく、誰か――あるいは何か。

 何でもいい、状況を把握するためのものを探して、僕は廊下を進む。


 ひたすらに白い廊下が続き――そして、こんな所に来た記憶はまるで無いのに、見れば見るほど、初めて見た気がしないのが……とにかく気持ち悪い。



 ……僕は……何でこんなところにいる?

 一体何がどうなってるんだ……。



 人の出入りをチェックするためのゲートらしいものが、厳重に幾重にも設置された、物々しい部屋を抜けて……さらにこれまでと同じような、病的に清潔感のある廊下へ出る。


 やっぱり、まるで人の気配は感じられなかったけれど……それでも人の姿を探して、僕は鍵のかかっていない、手近な部屋に入った。


 PCの置かれた小綺麗なデスクが並ぶ小さな部屋は、何かが起こったのか――そのときの混乱をそのまま封じ込めたかのような状態だった。

 幾つものモニターやディスプレイは点けっぱなしのままで放置され……デスクからこぼれ落ちた書類か資料らしき紙束は、拾われることなく床に散乱し、あまつさえ踏みつけた跡さえ残っているような始末だ。


 何気なく、一番目に付いたそのうちの1枚を拾い上げてみる。


 ……それは、新聞記事のコピーのようだった。

 一面を飾る大見出しが、その記事が『鐘目島かなめじま大災害』についての続報であることを告げている。


 記事は――震度7を数える直下型の大地震発生後、さらに折悪く到来した大型台風により待機を余儀なくされていた、自衛隊による鐘目島への救助活動が、丸一日経ってからようやく開始されたことを報じていて……。



「――そんな、バカな……」



 旅行先の鐘目島で地震があったという事実も、そして日付も、僕の記憶と違いはない。

 けれど……台風なんて知らないし、ましてやたった1日2日で救助が来たなんてことは絶対にない。

 僕らはあの島で、1ヶ月近くを過ごしたはずなのだから――。


 だけど、何度見直そうと、記事の内容が変わることはない。

 それに、デスクの上に置いてある置き時計が、今が、あの記憶にある止まったままの日から、僅か10日後の夜であることを示している。

 つまり――



 ……やっぱり……夢を見ていたのか、僕は……?



 旅行中に地震に遭い、それで大怪我をして――そしてこの病院に担ぎ込まれ、眠っている間に夢――それもとびきりの悪夢を見ていた……そういうことなのだろうか?

 恐ろしいほど鮮明な光景ではあったけど……そう考えれば、説明はつく。


 動かない太陽も、異常な時間も、不可解な幻覚も……変わってしまった人間も。

 血に染まったあの赤い世界と、ありえない出来事すべてに――説明がつくんだ。


 悪夢のような出来事を、悪夢と片付けてしまえるという救いに、僕は心底安堵した。

 いかに鮮明でも、夢でしかないのなら……すべて『なかったこと』になるのだから。


 助かった、良かった、という気持ちが、これまで感じていた正体不明の重苦しさを、随分と軽くしてくれた。


 ……あとはとにかく人を探して、詳しい話を聞けば――。


 僕は小走りになって部屋を出、さらに廊下を進んだ。

 誰かに会って、その口から改めて今見た新聞記事のことを語ってもらえれば……。

 僕が見た赤い世界を、とてもリアルな夢だと笑い飛ばしてくれれば……。

 そうすればあれを、僕自身の心持ちというだけでなく、正真正銘、本当に夢として片付けてしまえるのだ。


 気が急かすままに足を早め、突き当たりまで行ったところで角を曲がる。

 そして――



「…………!」



 僕は、見慣れた光景に……出くわした。



「そん、な……」


 ……喉の奥に絡みつくような、鉄錆びた臭いが鼻を突く。

 白い壁も、床も――赤黒く、ぬめりのある染料で、乱雑に塗りたくられていた。


 そして廊下にいくつも折り重なって転がる、その染料の出所――。

 それは、見慣れた……けれどもう見ることはないと思っていた、人の――無残な死体だった。



 ……どうなってるんだ。

 一体、何がどうなってるんだ……!?



 つい今まで感じていた安堵感との落差に、一瞬、目の前が真っ暗になった。

 思わず壁に寄りかかって、身体を支える。

 こみ上げる吐き気を抑え込む。


 そうしながら、改めてちらりと見てみれば……死体はどれも、白衣を纏っていた。

 この場所の雰囲気からして、医者か、研究員といったところだろうか。



 ……夢は、終わったはずじゃなかったのか? 死が溢れ返る悪夢は……!



 頭が疼くように痛み始める。目眩がする。

 つい今までいた悪夢そのものの世界と、今ここにある現実との区別が……ふっと、揺らぐ。


 悪夢の延長に現実があるのか、悪夢こそが現実でその延長が夢なのか――そんな取り留めのない考えが頭の中をぐるぐると回る。


 素足の裏を通して伝わる、冷たい廊下の感触が……恐ろしいほど、頼りなかった。



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