……ダメだ、こうしていても埒が明かない……。
力を振り絞って身を起こし、頭を振って、血溜まりを踏み越え……僕は、なおも廊下を進む。
けれど、悪夢から漏れ出したような光景は……廊下の先々に残されていた。
依然として生きた人間の気配には出会えないまま、それらから目を背けたくなって――僕はまた適当な部屋に潜り込もうと、ドアが開きっぱなしになっていた部屋に近付く。
けれど――その中に入ることは、出来なかった。
ドアの前から離れて、壁に手を突いて……今度こそ僕は堪えきれずに、こみ上げるものをひたすらに嘔吐した。
喉の奥が痛くなるほど繰り返しても、吐き出されるのは少量の胃液ばかりで……口の中に、痺れそうな苦みだけが広がる。
その部屋には……確かな、見覚えがあった。
……だけど、そんな……そんなバカな話があるもんか……、あれは……!
四方を囲む白い壁と、そして、隅に片付けられた寝袋のような拘束具――。
……あれは、間違いない、
――目が回る。全身に悪寒が走る。
まるで思考が……まとまらない。
あの夢の中で、それも幻覚として見たものが、なぜここで確かな実体として存在するのか。
ひとしきり胃液を吐き出して、疲弊しきって、ようやく何とか気を持ち直した僕は……もう一度、改めてドアの中を覗いてみる。
幻覚のように消えることなく――やはり小さな部屋の隅に、拘束具は、あった。
わけが……分からない。
酷い高熱に侵されたように、頭がぼうっとしてくる。
考えることも、動くことも億劫になって……けれどそれでも、僕は突き動かされるように何かを求めて、また歩く。
そうして……施錠されているドアが続く中に、1つだけ微かに開いているドアを見つけると、ふらふらと中に入り込んだ。
――瞬間、以前と同じ部屋に入ったのかと錯覚してしまった。
それぐらいに似通った造りをした部屋が、やはり点きっぱなしになったディスプレイや散乱した書類――と、同じような具合に荒れていた。
血痕や死体がないのも同じだったけど……これについては、ひとまず一息つく上ではありがたかった。
手近なデスクに手をついて、息を整えながら……僕は周囲に視線を巡らせる。
ただそれが、何かを探すためなのか、それとも――何もないことを確認したいがためなのか、それは僕自身にも分からない。
そうして、ふと目に付いたのは……点きっぱなしになっているPCのディスプレイだった。
いや――正確には、そこに表示されていた単語の一つだ。
開かれたままのファイルのタイトルを見る限り、それは何かの論文の日本語訳のようだけど……その文中に、『裏側』という単語が何度も現れていたのだ。
〈ここで述べるところの『裏側』とは――。
有と無のように、絶対的ですらある二元論をも含めた、我々の認識する真理によって支配されたこの世界……。
そのすべてを、『表側』と定義した上でのものとなる〉
論文は、そう前置きされていた。
ぼうっとしている頭と意識を繋ぎ止めようと、必死に考えを巡らせる。
そんな僕を手助けするかのように……論文の合間には、これを読んでいた研究者によるものだろうか、考察の覚え書きらしきものも記されていた。
〈まず理解しておかなければならないのは、この世界における『表と裏』というのは、よく言われる表社会と裏社会を指しているのでも、ましてや光と影を指しているのでも無い、ということだ。
それら、人間が
――『裏側』とは、簡単に言ってしまえば、決して
地球ばかりか宇宙も含めた、この世界におけるあらゆる法則……それが何一つ通用しないことを仮定として定義づけすることで、何とか存在を説明出来る――そんな世界のことだ。
我らの世界の『真理』に対しての、『裏側』のようなものなのだ〉
つまりは……たとえばコインに表と裏があること、そのあまりにも当たり前な事実が、揺るぎ無い事実として存在できる世界を『表』として――。
それに対してまさに『裏』に存在する、人間の知識と感覚なんかではまったく認識・理解出来ない世界が、『裏側』なのだということらしい。
……読み進めると、合わせ鏡を覗き込んでいるような気分になってきた。
このまま読み続ければ、さらに意識が不安定になるような気がしたけれど……それでもなぜか、僕は目を離せずにいた。
論文は語る――世界とは薄紙のようなものである、と。
表と裏が交わることはないが、しかし互いに、ぼんやりと透かし見ることは出来るのだと。
そしてその接点となるのが――いわゆる『夢』と呼ばれるものであり。
かつて夢見により数々の啓示や閃きを受けてきたとされる世界中の
しかし、そうした干渉が年月とともに蓄積されたためかは分からないが、表と裏の、境界線とでも呼ぶべきものが曖昧になり始めた――論文はそう続ける。
〈……それは一見、不可思議ながらごく些細な、錯覚で済ませられそうな事象である。
だが、真剣に向き合って検証してみれば、それらが総じて、時間と空間に異常を来した結果だという結論に至る。
その点から考え得るのは、表裏の境界線が曖昧になったことで、時として裏側が表に侵食(あくまで便宜的な表現として)するような事態が起こり……その際、真理の異なる2つの世界の鬩ぎ合いにより、拮抗した時空間は、本来の普遍的な流れに対して異常を見せるのではないか――ということである。
つまり、侵食が起こった領域においては、『時間と空間の固着』そのものか、あるいはその痕跡が見られるということになる――〉
さらにページを進めると、ここでも、研究者の考察が補足されていた。
〈この論文が書かれた時点では、時間と空間の固着が主な現象と見られていた。
しかし実際には、時間に関して言うならば、感覚が完全に欠如するわけでもなく……流れながらも停滞し、停滞しながらも流れるといった、固着という一言では到底説明しきれないほど異常な状態にある、というのが実態のようだ。
さらに最近では、同時に起こる現象は、さらに多岐に渡ることが報告されている〉
……時間と、空間の……異常……。
その言葉は、あの総じてありえない時間を指す時計と――。
毒々しく金色に輝きながら、ひたすらに動かない太陽を、否応なく連想させた。
そして――最後に論文は、そうした事象の痕跡と見られる些細な出来事が年々、世界中で着実に増え続けていることの危惧に触れていた。
いずれその規模、そして歪みが大きくなって……世界そのものを覆い、あるいは表と裏が逆転することになるかも知れないと。
ゆえに、そうなる前にさらなる原因の究明と、対処法の発見に力を注ぐべきである、と――。
突拍子もない話だとは思った。
けれど、今の僕にそれを笑い飛ばすことなんて出来るわけがなかった。
あの悪夢は――まさしく、そういう状況の中にあったのだから。
だけど、なぜだろう……。
こんな論文を見るのは間違いなく初めてのはずなのに、その内容だけは、既に知っていたような気がする。
まったく別の形で、誰かがこんなことを教えてくれていたような――。
気付くと、論文の最後には、また後から付け加えられたらしい文章があった。
ただそれは……これまでのような研究者の考察とは、まるで違うものだった。
『究明? 出来るわけがない。
対処法? あるわけがない。
俺たちの手元にあるのは、真理どころか、規則程度のものでしかない。
真理なんてものがあるとしても、それは向こうにしかない。
だから俺たちに出来ることなんてせいぜい、接点になるものを消すことだけだ。
水際で平穏を引き延ばすぐらいしかないんだ。
……なのに、こいつらは余計なことをした。
理解出来るはずもないのに、理解しようとした。
馬鹿馬鹿しくも、余計なことをしたんだよ。
――だから、こうなってるんだ』
そんなことは一言も書いていないのに……それはまるで、僕に宛てて書かれたもののように思われた――そこはかとない、悪意とともに。
知らず知らず息を呑みながら、僕は何かに引きずられるようにして……既に完結している論文のページを、その書き足された文章からさらに先へと送っていく。
そして――論文の著者が最後に、署名の後に続けて記したらしい一文を見出した。
〈この論文を執筆するにあたり、惜しまずその才を提供してくれた我が朋友、
数々の示唆を与えてくれた、彼女の令嬢ユリに――深い感謝を捧げる〉