「――――!」
幾つもの光景が――記憶が。
論文著者による、ユリの名があるその一文を見た途端、文字通りに……閃いた。
それは、学校の教室で、帰り道で、遊びに出た先で――。
僕に、不思議な話を聞かせてくれる……幼いユリの姿だった。
裏側という存在。
そこにいる、白くて小さなピエロのようなもの。
見てはならない、裏を覗く夢。
見られてはならない、裏からの夢――。
すべて、彼女が教えてくれていた。
何でも――本当に何でも知っている、金色のカタツムリが、教えてくれていたことだった。
そうだ、そして……。
もう一つ、思い出したことがある。
――そう。もう何年も前に、ユリは外国に行ったんじゃないか……。
なぜ今まで忘れていたのか――忘れようがないぐらいなのに。
とにかく……だからユリが、僕らの高校の修学旅行にいたはずがないんだ。
そうだ、だからあれはやっぱり……夢なんじゃないか。
でも――。
また、思考がどろりとぬかるんで――不安定になる。
すべてを夢だと片付けようとしても、得体の知れない不安のようなものがまとわりついて邪魔をするし――。
だからといって現実だと定義しようにも、やはり矛盾が思考を泥沼へと引きずり込むんだ。
頭が――痛い。
そもそも、今こうしているここが現実かどうか、それさえ曖昧な気がしてきて……何か確かなものはないかと、僕は藁にも縋る思いで辺りの資料を漁ってみる。
素人にはまるで理解出来ない、何か研究の計測データらしきものばかりが出てくる中……僕はデスクの上の紙束の中に、前に見つけたものと同じような新聞記事を見つけた。
束になったそれらは、やはり
目を通してみると――救助活動が進むにつれて、信じられないほどの犠牲者数が明らかになっていく過程が記されていた。
報じられる度に死者の数だけが増え――生存者はまるで出てこない。
それは、大地震と大型台風、そしてそれに伴う二次災害だけによるものとするには、不可解なほど膨大な数字だった。
だから――。
地震に伴う火山の活性化が有毒ガスの噴出を促したのではないか――。
ミシカルワールド建設とともに進められた都市開発が、地盤に悪影響を及ぼしたのではないか――。
あるいは、その開発事業が利益を重視するあまり、災害時の安全対策を軽視していたのではないか――。
などなど、様々な説が流れ、世間を騒がせたようだ。
――結果として、観光客も含めて、当時島にいた人間はそのほとんどが死亡か行方不明。
僅か1パーセントにも満たない生存者も、その甚大な精神的ショックからか、社会復帰は絶望視されるという――世界的にも類を見ない異例の大惨事になったと、新聞は大きく報じている。
だけどそれも、時間の経過につれ、段々と扱いは小さくなり――やがて記事にされるのは何らかの節目の時だけになっていく様子が、何枚ものコピーを見ていくうちに分かる。
さすがに規模が規模だけに、その節目の記事などはそれなりに大々的な特集となっているようだけど――いや、今の僕にとって問題なのは、そんなことじゃなかった。
最後のコピーをデスクに放るとすぐに、側にあったデジタル時計とパソコンの両方で時間を確認する。
――どちらも、指している日時はまったく同じ。
これで……手術室のような場所で目を覚ましたとき、鏡を見て、自分自身に違和感を覚えた理由が分かった。
最初に新聞記事のコピーを見たとき、近くにあった時計で、あの日から10日後だと計算したけれど……そうじゃなかったんだ。
正確には、今は――。
あの修学旅行から、『5年と10日後』……だったんだ。
こまめに収集されたらしい新聞の日付も、周りにある時計も……何もかもが、僕の最後の記憶から、5年が経過していることを表している。
疑う余地は――なかった。
「……5年、だって……?」
気付けば、5年もの歳月が流れていたという事実に……僕はしばし呆然とする。
……でも、それなら……。
あの出来事はやっぱり、夢ってことになるんじゃないのか……?
ふっと、そんな考えが頭を過ぎる。
けれどそれもすぐ、新聞記事が語る、不可解なほど膨大な犠牲者――という事実が突き崩してしまう。
あの悪夢が現実なら――その犠牲者数も、生存者の精神的ショックというのも、決して不可解では無くなるのだから。
……でも――そう定義すること自体が、そもそも無茶なんじゃないのか……?
さっきの論文に感化されてしまっているだけじゃないのか……?
いやでも、ユリの記憶は――。
考えれば考えるほどに頭痛も目眩も、ますます酷くなっていく。
もう何もしない方がいいという気持ちも、決して小さくない。
それでも――僕は憑かれたように、資料を漁る手を止められない。
そして今度は、地図のようなものが目に止まった。
見覚えがある、これは――鐘目島だ。
よく見るとその地図の端にも、ちょっとした所見らしきものが書き留めてあった。
〈……鐘目島は、数多く残る土着の伝承(この件については、特に鐘目島に関する別途資料の十五〜十七号を参照)などから、裏側との境界が他所に比べて曖昧になりやすい、一種の特異点ではないかと推測される〉
〈中でも、かつて権力者によって巧妙に隠蔽された経緯がある、原因不明の人間消失、発狂、虐殺事件の発生地点である、
〈――以上の事柄から、特級観察対象が鐘目島へ立ち入ることにより、何らかの現象を誘発する可能性は高いと考えられる。
よって、監視担当者には、一層の警戒を心がけるよう徹底すべきである〉
……なんだ、これ……。
特級観察対象? 監視担当……?
その正体ははっきりしなくても、いや増す不安を振り払おうと……資料を探る手を早める。
そうするうち、数字や数式を羅列した計測データらしきもの以外に、『特級』という語が混じり……なおかつ、素人の僕が見ても意味の分かりそうなものがPCの中にファイルとして見つかった。
どうやら、監視カメラの映像記録らしい。
『一号観察房・特級』とタイトルがつけられたそのファイルの日付は、知らない間に過ぎていた5年も加えて……およそ今から12年前となっていた。
震える手でマウスを動かし、恐る恐るそれを再生させる。
「――っ!?」
再生が始まった途端……思わず耳を塞ぎそうになった。
映像よりもまず先に溢れ出たのは、耳障りという程度ではすまない、恐ろしげな金切り声だった。
これだけでも充分、気が弱い人間なら卒倒してしまうんじゃないかというぐらいに禍々しい、即座に再生を止めてしまいたくなるほどの声。
だけど――僕にとっての衝撃は、むしろその後にあった。
音声にやや遅れて始まった映像――。
それは、ついさっき見た、あの白い小さな部屋で……あの拘束具をつけられた子供が、芋虫のようにのたうつ姿だったのだ。
「…………!」
季節的には暑いぐらいで、空調も整っている部屋にいるのに――なのに、はっきり冷たいと感じる汗が、背を伝い落ちていく。
――映像の中では、子供がひたすら芋虫のようにのたうち回り……。
静まり返るこちらの空間には、その子が発する、おぞましい金切り声だけが木霊する――。
石のようになっていた手を何とか動かして映像を止めるまで、しばらくはその状態が続いていた。
「はーっ、はーっ、はーっ……!」
大口を開けて、必死に酸素を取り込み……息を整えるのには、またしばらくかかった。
今の金切り声は、まるで……映像を見た僕自身が発していたかのようですらあった。
いや、もしかしたら……本当にそうだったのかも知れない――。
……ともかく、これ以上探っても、この部屋にはもう何も無いみたいだと……。
そう判断した僕は、得体の知れない衝動に突き動かされるまま――別の部屋を探して廊下をさまよう。
そして熱に浮かされたように時折朦朧とする意識を引きずり、開いている部屋を探して無意識のうちに辿り着いたのは……。
何の皮肉か、おあつらえ向きに、今までの部屋よりはるかに広い――資料室らしき場所だった。
何らかのカテゴリーで分類されている棚が、奥に向かって一定間隔で並び……。
手前の壁際には、映像や音声をはじめとする、電子化された資料の検索・閲覧に使われるらしいPCが数台、間仕切りを挟んで並んでいる。
あと、あるのは――死体だ。
ここから見えるだけで、血溜まりの中に倒れ伏して動かない白衣の人間が2人はいる。
ただ、近寄ってまでそれをさらに詳しく調べる気力は……今の僕には無い。
とにかく、手近なPCで資料を探ってみようとするも……どうやら個人認証が必要らしく、操作することが出来ない。
けれど、居並ぶ1台1台を順番に試していくと……。
誰かが――恐らくは倒れている人間のどちらかだろう――途中まで使っていたのか、認証が既に済んだ状態のものが見つかった。