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九話 古びたカルテ

「……寒い」


春の終わりとは思えない冷気が、肌をかすめる。

まるでこの場所だけが、季節から見捨てられてしまったようだった。


懐中電灯の光が、静かに空間を撫でる。

朽ちかけた椅子、転がった車椅子、黄ばんだシーツ、そして……壁に打ちつけられたままの掲示物。


空気は重く、動かない。

時だけが置き去りにされた部屋。


埃とカビと、微かに残る消毒液の匂いが混ざり、喉の奥に張りついた。

どこかに“何か”が潜んでいるような気配が、背中にまとわりついて離れない。


僕は床に落ちていた構内図を拾い上げる。

「病室エリア」「倉庫」「診察室」「院長室」……


翔太がどこにいるのかはわからない。


でも、もう戻ることはできない。


(……本当は、怖い。でも……)


その時――

奥の廊下から、きぃ……と、木が軋むような音が響いた。


息が止まる。

鼓動の音だけが、耳の奥に響いている。


足が勝手に動いていた。



「診察室」──

剥がれかけたプレートの文字が、懐中電灯に浮かび上がる。


ドアを開けた瞬間、空気が変わった。


ぴたりと止まる風。

光に照らされた診察台と、古びた器具。


乾ききった空間に残された無数の紙束。

それらは、まるで“読まれることを待っていた”かのように、机の上に積まれていた。


こんなにも多くのものを残したまま、なぜ閉院したのか。


まるで誰かに追われるように、逃げるように去った……

そんな気配だけが、空気に染みついていた。


院長が実験していた 地下に何かを隠した…


そう言った噂を思い出す。


背筋を冷たいものが這い上がる。

体の奥がざわざわと軋んだ。


無意識に、机の引き出しへ手が伸びていた。


軋む金具。鈍い音。


中にあったのは、変色した古いカルテの束。


手を止めた、その一枚。


『患者名:山口 誠也(7歳)』


(……動画で見た子だ)


光を当てながら、僕は文字を追った。



『診断名:肺結核(急性期)』

『主訴:長引く咳、発熱、倦怠感』

『入院日:昭和47年4月2日』

『経過:持続的な咳、呼吸困難。抗生剤治療反応乏しく、徐々に衰弱』

『死亡確認:昭和47年4月12日 午後3時14分』

『備考:家族の……を知り……容体急変』



今では治せる病気。

だけど、50年前なら……子どもから命を奪うには十分だった。


たった7歳の子が、その苦しみに、どれだけ耐えたのだろう。


その時だった。


カサッ。


持っていたカルテから何かが落ちる音。


一枚の、折りたたまれた便箋。


拾い上げると、そこには、子どもらしい丸い文字。



〈かぞくのみんなへ

せいやは だいじょうぶだから あんしんしてね

でも みんなとは はやく あいたいな……〉



かすれたインク。添えられた似顔絵は、微かに笑っていた。


でも、その笑顔は……どこか寂しげだった。


胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


寒気とは違う。

痛みでもない。

それは……感情の奥に沈んでいた、見えない何かだった。


遺された言葉。

ここにいたという証。

誰かを想い、残された“最後の手紙”。


その紙が、ほんのりと揺れた気がした。


風など吹いていないはずなのに――


それは、まるで“届いてほしい”という想いが、まだこの場所に残っているかのようだった。


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