僕は診察室を出た。
右手の廊下を進むと、重たそうな鉄扉が、ぽっかりと口を開けている。
空気の層が変わったような気がして、自然と足が止まった。
(……ここは、地下倉庫への入口か)
噂が頭をよぎる。
“院長が地下倉庫に何かを隠した”。という噂。
懐中電灯の光を差し込んでみても、奥は闇に包まれていて、何も映らない。
それでも、冷たい空気が、確かに肌を撫でた。
(他を探してから……だな)
喉を鳴らし、僕は一度踵を返す。
軋む階段を上がり、二階へと向かった。
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二階は、廊下に色褪せた匂いが漂っていた。
古い病院特有の、埃と薬品の混ざったようなにおい。
小さな患者部屋、大きな共同部屋。
そしてその奥に、手術室とレントゲン室がひっそりと並んでいる。
どれも、時代に取り残されたような古びた造りだった。
僕は一番手前にあった小さな患者部屋の扉を押す。
きぃ……
鈍く軋む音が、やけに響く。
部屋の中には、ボロボロのベッドが一台。
壁紙は剥がれかけていて、角には埃をかぶった古い鏡が立てかけられていた。
懐中電灯を向ける。
反射で一瞬、目を細めたその時──
「……っ!」
鏡に浮かび上がった“それ”を見て、息が詰まった。
赤黒い血の手形。
じわじわと滲んで、浮かび上がってきた。
風が、どこからか吹き抜ける。
視界が埃に霞む中、
『お兄ちゃん……だれ……?』
その声が、耳元に囁くように届いた。
全身が凍りついた。
僕は反射的に振り返る。
そこに、いた。
動画に映っていた、あの少年。
カルテに書かれていた名前──誠也。
「どうして、ここに来たの?」
真っ黒な瞳が、じっと僕を見つめていた。
首をかしげながら、ぼろぼろの白い病衣をまとって立っている。
病的に痩せた体。
その細い手足は、揺れるたびにギシリと軋むように見えた。
「……友達を、探しに来たんだ」
喉の奥が張りつくようで、声が震えた。
それでも、目を逸らさずに言葉を続けた。
「彼らも僕も……この場所に踏み入って、本当に……ごめん」
霊は怖い。
でも、謝らなきゃいけないと思った。
ここは、この子の“家”なんだ。
少年は、沈黙のまま僕を見つめていた。
やがて、ぽつりと──
「……ここは、誠也の場所なのに」
その言葉と同時に、
少年の口元から、赤い液体がすうっと垂れた。
「っ……!」
次の瞬間。
僕の体が、何かに叩きつけられたように宙を浮いた。
そして、そのまま——
ドゴンッ!!
背中が壁にぶつかる。
懐中電灯が床を転がり、光が揺れた。
「ぐぁっ……!」
呻き声が漏れた。
目を上げると、誠也が宙に浮いていた。
怒りの滲む表情で、僕を見下ろしている。
しばらくそのまま見つめた後、
彼はゆっくりと背を向け、部屋を出ていった。
残された空間には、
冷たく、重たい沈黙だけが残る。
「い……てて……」
背中をさすりながら、なんとか体を起こす。
その時だった。
カツ、カツ……と、階段を上がってくる足音。
(……誰か来る?)
足音は、ゆっくりと、でも確実に近づいてくる。
僕は転がっていた懐中電灯を拾い上げ、構えた。
──そして。
その光が、僕の顔を照らした。
まぶしさに目を細める。
「先輩……!?」
聞き覚えのある声が響いた。
(……この声……!)
光の中から現れたその顔に、僕は息を呑んだ。
そこにいたのは──
驚いた表情の、美琴だった。
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