【記憶の追想:温もりの残る日々】
目の前に、懐かしいような、それでいて知らない景色が広がっている。
さっきまでの、あの薄暗いトンネルの闇は完全に消え──
今は、温かい夕陽のオレンジ色の光が、大きな窓から斜めに差し込む、どこかの家の玄関の扉の前に、僕は立っていた。
使い込まれた木の扉の、少しざらついた感触が、僕の手にリアルに伝わってくる。
そして、ふわりと、微かな──でも確かに覚えのある家の匂い。
それは、炊きたての白いご飯の甘い香りと、古い木材が持つ独特の、少しだけ埃っぽい香り──
そんな空気が、僕の鼻腔を優しくくすぐった。
『ただいまー! お母さん、帰ったよー!』
僕の身体が、まるで誰かに操られているかのように自然に動き──
僕のものではない、少しだけ甲高い、若い女性の声が、喉の奥から軽やかに溢れ出る。
玄関で乱暴に靴を脱ぎ捨てる音と、カラリと開いた引き戸の音が、家の中に小さく響き渡り、
磨き込まれた廊下の、ひんやりとした木の温もりが、足の裏にじんわりと心地よく広がっていく。
『あら、詩織、おかえりなさい』
台所の方から、僕が待ち望んでいた、お母さんの温かい声が耳に届く。
目の前には、少しだけ疲れたような顔。
でも、その口元には、いつもの優しい笑みが確かに浮かんでいて、
背後から差し込む夕陽の光が、彼女の輪郭を柔らかく、金色に照らし出している。
その姿を見ただけで、僕の胸の奥に、じわじあと安心感が広がり──
心が、ふっと軽くなるのを感じた。
『今日から新学期だったけど、学校はどうだったかい? 新しいクラスには、もう慣れたのかい?』
お母さんが、エプロンで手を拭きながら、優しく尋ねてくる。
その声に滲む、飾らない優しさが、僕の心を、まるで陽だまりのように温かく包み込んでくれる。
『んー、まあ、ぼちぼちかな! 新しい友達もできたし、結構楽しいかも!』
僕は、努めて明るく、そして少しだけおどけてそう答えると、自然と笑顔が頬にこぼれた。
『そうかい、それなら良かった。ほら、早く手を洗って、食卓に上がりな。もうすぐご飯だからね』
お母さんのその優しい笑顔に、学校でのちょっとした疲れや、新しい環境への緊張感が、すーっと溶けていく。
ああ、やっぱり、この家に帰ってきて良かった。
ここが、私の、一番安心できる場所なんだ。
──そして、場面が切り替わる。
今度は、白い蛍光灯の光と、無機質なデスクの灰色が目に飛び込んでくる。
昼間のオフィスだろうか。まるで映画のワンシーンのように、景色が目まぐるしく変わっていく。
今は、白い蛍光灯が煌々と照らす、どこかの会社の職場。
目の前には、古びたパソコンのモニターが、ぼんやりと青白い光を放っている。
その周りには、おびただしい量の書類の山が、まるで雪崩を起こす寸前のように、乱雑に高く積まれていて──
ツンとした事務的なペンのインクの匂いが、この息の詰まるような空間に漂っていた。
『はぁ……もう、ここの計算、どうすればいいのよぉ……。
専門外だって言ってるのに、難し過ぎて、本当に頭が痛くなってきた……』
仕事の、どうしようもない悩みと焦りが、僕の頭の中を完全に埋め尽くし、重いため息が何度も漏れる。
肩が、まるで鉛でも乗っているかのように重く、さっきからパソコンを打つ手が完全に止まっていた。
頭が、万力で締め付けられるようにズキズキと痛い。
──すると、その時。
背後から、ふいに優しく、そしてどこか安心するような、柔らかな男性の声が聞こえてきた。
『詩織さん、お疲れ様。仕事の調子は、どうかな?
もしかして、何か困ってることでもあるのかい?』
彼が、そっと僕の肩に、大きな手を触れる。
その、不意に触れた温もりに、僕の胸が、ドキリと大きくときめいた。
頬が、カッと熱くなり──
心臓が、まるで壊れたみたいに、トクン、トクンと早鐘を打つのを感じる。
ああ、この人は……この温もりは……
私が、心の底から想いを寄せている、大切な、大切な人。
【記憶の追想:喪失の雨】
『あ……あの、ここの計算式のところが、どうしても難しくて……』
自分でも情けないほど、弱々しく、そしてか細い声でそう呟くと──
彼は、困ったように笑いながらも、そっと僕の隣に近づき、モニターを覗き込んでくれる。
『どれどれ? ああ、ここのロジックは、確かに少しややこしいかもしれないね。でも、大丈夫だよ、一緒に考えよう』
その、どこまでも穏やかな声と、優しく、そして的確な手つきが──
僕が抱えていた仕事の悩みを、まるで春の雪のように、あっという間に溶かしていく。
心が、ふわりと軽くなり、彼の隣にいるだけで、温かい、幸せな気持ちが、胸いっぱいに広がっていく。
あんなに頭を悩ませていた仕事の悩みも、彼のおかげで──
きっと忘れられない、素敵な思い出に変わっていくんだろうな。
──そして、また場面が変わる。
今度は、あの、忘れもしない、雨の夜。
「なんでっ……! なんで、お母さんは、私たちの結婚を、どうしても認めてくれないのよっ!!」
私の、抑えきれない怒りと、深い悲しみとが、ぐちゃぐちゃに入り混じった絶叫が──
冷たく静まり返った家の中に、まるで雷鳴のように響き渡る。
「男なんて、どいつもこいつも、皆同じなんだよっ!!
どうせすぐにアンタを裏切って、泣かせて、お前をズタズタに傷つけるに決まってるんだ!!」
でも、それでも……!
「彼は、そんな人じゃないっ!! 私が愛したあの人は、絶対に、そんな人じゃないのっ!!」
私は、涙ながらに、そう叫び返した。
「いいや、同じさね!! この世の男なんてものは、みんな、みんな同じなんだよ!!
お母さんはね、アンタにだけは、お母さんと同じような、あんな惨めで辛い思いは、絶対にしてほしくないんだよ!!
お願いだから、分かっておくれよ、詩織……!」
でも、私の想いは──お母さんには、どうしても届かない。
「お母さんこそ、お願いだから、私の話をちゃんと聞いてよっ!!
一度でいいから、彼に会ってさえくれれば……きっと、分かってくれるはずなのに……!」
「嫌だね!! そんな男の話なんて、聞く耳すら持っちゃいないよ!
男なんて、どいつもこいつも、ろくでもないもんなんだ!!」
「もう……もう、知らないっ!! お母さんのバカ!!
あたしはもう、こんな家、絶対に出て行ってやるんだからっ!!」
【記憶の追想:砕けた未来】
家を飛び出すと、まるで私の心を映したかのように──
外は、バケツをひっくり返したような、激しい雨が降っていた。
視界が、黒く滲んで、冷たい無数の雨粒が、容赦なく私の頬を叩きつける。
雨でぐっしょりと濡れた重い髪が、顔に鬱陶しく張り付き、前がよく見えない。
足元で、泥水が跳ね上がり、今日おろしたばかりのクリーム色のトレンチコートが、みるみるうちに泥で汚れていく。
でも、そんなこと──今の私には気にしてる余裕なんて、どこにもなかった。
頭の中が、どうしようもない怒りと、そして深い悲しみでぐちゃぐちゃになっていて──
自分でも制御できないほどの感情が、まるで嵐のように、心の中で激しく渦を巻いている。
『お母さん……なんで、分かってくれないの……!?
どうして、信じてくれないの……!』
声が、情けなく震え、熱い涙が──
頬を伝う冷たい雨と混じり合って、とめどなく滑り落ちていく。
怒り。悲しみ。絶望。そして、どうしようもないほどの孤独感。
全ての感情が、もう限界を超えて溢れ出して、止まらない。
『なんで……なんで、私の大切な人を、信じてくれないのよ……っ!!』
喉が張り裂けんばかりに震え、嗚咽にも似た叫びが──
雨音にかき消されるように漏れる。
『でも……結局、そうは……そうは、ならなかった…。』
──え?
今、詩織さんの声が……?
次の瞬間。
僕の視界が、突然、強烈な赤色に染まった。
目の前が真っ赤に焼け、
鼓膜を突き破るような、けたたましいクラクションの音が、すぐそこまで迫ってくる。
そして──全てを悟った、その瞬間。
「———ッッ!!!!!」
僕の……いや、詩織さんの全身が──
まるで鉄塊にでも打ち砕かれたかのような、鈍く低い音を立てて、無惨に、砕け散った。
痛い。痛い痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。いたい。
イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ。
骨が、まるで枯れ枝のように軋み、砕ける不快な音が、頭の中に直接響き渡る。
視界が、ぐらぐらと激しく揺れ、
自分がどこにいるのかも、何をしていたのかも、分からない。
地面に叩きつけられた身体の下で、アスファルトの冷たさが全身に広がり、
生温かい血の匂いが、肌の上を這うようにしてまとわりついてくる。
動けない。苦しい。
息が、できない。
いたい。いたい。いたい。いたい。
いたい。いたい。いたい。いたい。
いたい。いたい。いたい。いたい。
(……お母さん……ごめんなさい……。
私まで、裏切っちゃった……ごめんなさい……)
胸の奥深くに──
ズドン、と、何か絶望的に重たいものが、容赦なく落ちてくる。
私まで──お母さんを、たった一人、残して逝ってしまうなんて。
こんな最期を、私は……望んでなんか──いなかったのに。
光も、音も、身体の感覚も──
全てが、急速に。
そして確実に。
遠ざかっていく──