目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第十二話 戻らぬ想い

【記憶の追想:温もりの残る日々】


目の前に、懐かしいような、それでいて知らない景色が広がっている。


さっきまでの、あの薄暗いトンネルの闇は完全に消え──

今は、温かい夕陽のオレンジ色の光が、大きな窓から斜めに差し込む、どこかの家の玄関の扉の前に、僕は立っていた。


使い込まれた木の扉の、少しざらついた感触が、僕の手にリアルに伝わってくる。


そして、ふわりと、微かな──でも確かに覚えのある家の匂い。


それは、炊きたての白いご飯の甘い香りと、古い木材が持つ独特の、少しだけ埃っぽい香り──

そんな空気が、僕の鼻腔を優しくくすぐった。


『ただいまー! お母さん、帰ったよー!』


僕の身体が、まるで誰かに操られているかのように自然に動き──

僕のものではない、少しだけ甲高い、若い女性の声が、喉の奥から軽やかに溢れ出る。


玄関で乱暴に靴を脱ぎ捨てる音と、カラリと開いた引き戸の音が、家の中に小さく響き渡り、

磨き込まれた廊下の、ひんやりとした木の温もりが、足の裏にじんわりと心地よく広がっていく。


『あら、詩織、おかえりなさい』


台所の方から、僕が待ち望んでいた、お母さんの温かい声が耳に届く。


目の前には、少しだけ疲れたような顔。

でも、その口元には、いつもの優しい笑みが確かに浮かんでいて、

背後から差し込む夕陽の光が、彼女の輪郭を柔らかく、金色に照らし出している。


その姿を見ただけで、僕の胸の奥に、じわじあと安心感が広がり──

心が、ふっと軽くなるのを感じた。


『今日から新学期だったけど、学校はどうだったかい? 新しいクラスには、もう慣れたのかい?』


お母さんが、エプロンで手を拭きながら、優しく尋ねてくる。


その声に滲む、飾らない優しさが、僕の心を、まるで陽だまりのように温かく包み込んでくれる。


『んー、まあ、ぼちぼちかな! 新しい友達もできたし、結構楽しいかも!』


僕は、努めて明るく、そして少しだけおどけてそう答えると、自然と笑顔が頬にこぼれた。


『そうかい、それなら良かった。ほら、早く手を洗って、食卓に上がりな。もうすぐご飯だからね』


お母さんのその優しい笑顔に、学校でのちょっとした疲れや、新しい環境への緊張感が、すーっと溶けていく。


ああ、やっぱり、この家に帰ってきて良かった。

ここが、私の、一番安心できる場所なんだ。


──そして、場面が切り替わる。


今度は、白い蛍光灯の光と、無機質なデスクの灰色が目に飛び込んでくる。

昼間のオフィスだろうか。まるで映画のワンシーンのように、景色が目まぐるしく変わっていく。


今は、白い蛍光灯が煌々と照らす、どこかの会社の職場。


目の前には、古びたパソコンのモニターが、ぼんやりと青白い光を放っている。


その周りには、おびただしい量の書類の山が、まるで雪崩を起こす寸前のように、乱雑に高く積まれていて──

ツンとした事務的なペンのインクの匂いが、この息の詰まるような空間に漂っていた。


『はぁ……もう、ここの計算、どうすればいいのよぉ……。

専門外だって言ってるのに、難し過ぎて、本当に頭が痛くなってきた……』


仕事の、どうしようもない悩みと焦りが、僕の頭の中を完全に埋め尽くし、重いため息が何度も漏れる。


肩が、まるで鉛でも乗っているかのように重く、さっきからパソコンを打つ手が完全に止まっていた。


頭が、万力で締め付けられるようにズキズキと痛い。


──すると、その時。


背後から、ふいに優しく、そしてどこか安心するような、柔らかな男性の声が聞こえてきた。


『詩織さん、お疲れ様。仕事の調子は、どうかな?

もしかして、何か困ってることでもあるのかい?』


彼が、そっと僕の肩に、大きな手を触れる。


その、不意に触れた温もりに、僕の胸が、ドキリと大きくときめいた。


頬が、カッと熱くなり──

心臓が、まるで壊れたみたいに、トクン、トクンと早鐘を打つのを感じる。


ああ、この人は……この温もりは……

私が、心の底から想いを寄せている、大切な、大切な人。


【記憶の追想:喪失の雨】


『あ……あの、ここの計算式のところが、どうしても難しくて……』


自分でも情けないほど、弱々しく、そしてか細い声でそう呟くと──

彼は、困ったように笑いながらも、そっと僕の隣に近づき、モニターを覗き込んでくれる。


『どれどれ? ああ、ここのロジックは、確かに少しややこしいかもしれないね。でも、大丈夫だよ、一緒に考えよう』


その、どこまでも穏やかな声と、優しく、そして的確な手つきが──

僕が抱えていた仕事の悩みを、まるで春の雪のように、あっという間に溶かしていく。


心が、ふわりと軽くなり、彼の隣にいるだけで、温かい、幸せな気持ちが、胸いっぱいに広がっていく。


あんなに頭を悩ませていた仕事の悩みも、彼のおかげで──

きっと忘れられない、素敵な思い出に変わっていくんだろうな。


──そして、また場面が変わる。


今度は、あの、忘れもしない、雨の夜。


「なんでっ……! なんで、お母さんは、私たちの結婚を、どうしても認めてくれないのよっ!!」


私の、抑えきれない怒りと、深い悲しみとが、ぐちゃぐちゃに入り混じった絶叫が──

冷たく静まり返った家の中に、まるで雷鳴のように響き渡る。


「男なんて、どいつもこいつも、皆同じなんだよっ!!

 どうせすぐにアンタを裏切って、泣かせて、お前をズタズタに傷つけるに決まってるんだ!!」


でも、それでも……!


「彼は、そんな人じゃないっ!! 私が愛したあの人は、絶対に、そんな人じゃないのっ!!」


私は、涙ながらに、そう叫び返した。


「いいや、同じさね!! この世の男なんてものは、みんな、みんな同じなんだよ!!

 お母さんはね、アンタにだけは、お母さんと同じような、あんな惨めで辛い思いは、絶対にしてほしくないんだよ!!


 お願いだから、分かっておくれよ、詩織……!」


でも、私の想いは──お母さんには、どうしても届かない。


「お母さんこそ、お願いだから、私の話をちゃんと聞いてよっ!!

 一度でいいから、彼に会ってさえくれれば……きっと、分かってくれるはずなのに……!」


「嫌だね!! そんな男の話なんて、聞く耳すら持っちゃいないよ!

 男なんて、どいつもこいつも、ろくでもないもんなんだ!!」


「もう……もう、知らないっ!! お母さんのバカ!!

 あたしはもう、こんな家、絶対に出て行ってやるんだからっ!!」


【記憶の追想:砕けた未来】


家を飛び出すと、まるで私の心を映したかのように──

外は、バケツをひっくり返したような、激しい雨が降っていた。


視界が、黒く滲んで、冷たい無数の雨粒が、容赦なく私の頬を叩きつける。


雨でぐっしょりと濡れた重い髪が、顔に鬱陶しく張り付き、前がよく見えない。


足元で、泥水が跳ね上がり、今日おろしたばかりのクリーム色のトレンチコートが、みるみるうちに泥で汚れていく。


でも、そんなこと──今の私には気にしてる余裕なんて、どこにもなかった。


頭の中が、どうしようもない怒りと、そして深い悲しみでぐちゃぐちゃになっていて──

自分でも制御できないほどの感情が、まるで嵐のように、心の中で激しく渦を巻いている。


『お母さん……なんで、分かってくれないの……!?

 どうして、信じてくれないの……!』


声が、情けなく震え、熱い涙が──

頬を伝う冷たい雨と混じり合って、とめどなく滑り落ちていく。


怒り。悲しみ。絶望。そして、どうしようもないほどの孤独感。


全ての感情が、もう限界を超えて溢れ出して、止まらない。


『なんで……なんで、私の大切な人を、信じてくれないのよ……っ!!』


喉が張り裂けんばかりに震え、嗚咽にも似た叫びが──

雨音にかき消されるように漏れる。


『でも……結局、そうは……そうは、ならなかった…。』


──え?

今、詩織さんの声が……?


次の瞬間。


僕の視界が、突然、強烈な赤色に染まった。


目の前が真っ赤に焼け、

鼓膜を突き破るような、けたたましいクラクションの音が、すぐそこまで迫ってくる。


そして──全てを悟った、その瞬間。


「———ッッ!!!!!」


僕の……いや、詩織さんの全身が──


まるで鉄塊にでも打ち砕かれたかのような、鈍く低い音を立てて、無惨に、砕け散った。


痛い。痛い痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。いたい。


イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ。


骨が、まるで枯れ枝のように軋み、砕ける不快な音が、頭の中に直接響き渡る。


視界が、ぐらぐらと激しく揺れ、

自分がどこにいるのかも、何をしていたのかも、分からない。


地面に叩きつけられた身体の下で、アスファルトの冷たさが全身に広がり、

生温かい血の匂いが、肌の上を這うようにしてまとわりついてくる。


動けない。苦しい。


息が、できない。


いたい。いたい。いたい。いたい。


いたい。いたい。いたい。いたい。


いたい。いたい。いたい。いたい。


(……お母さん……ごめんなさい……。

私まで、裏切っちゃった……ごめんなさい……)


胸の奥深くに──

ズドン、と、何か絶望的に重たいものが、容赦なく落ちてくる。


私まで──お母さんを、たった一人、残して逝ってしまうなんて。


こんな最期を、私は……望んでなんか──いなかったのに。


光も、音も、身体の感覚も──


全てが、急速に。

そして確実に。

遠ざかっていく──



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?