それは、騎士団の事情聴取から二日後の午後だった。
「……ミレーナちゃん、治療所にいるんだって」
そうララが呟いた時、ルークの心臓がわずかに跳ねた。
昼下がりの陽射しが窓から差し込む学園食堂の片隅。人目を避けるように座った席で、ララはトレイに手を置いたまま、ぽつりと続けた。
「騎士団の人から聞いたの。あの騒ぎのあと、すぐに隔離されたって……今は学園の付属治療所の特別区画にいるみたい」
ルークはすぐには言葉を返せなかった。
ミレーナが自分の意思で丸薬を飲んだ。あの力に溺れかけ、魔物化の兆候まで現れた。けれど――最後の瞬間、彼女はルークの呼びかけに反応した。
「……今は、眠ってるだけなのか?」
ララは首を横に振った。
「昏睡状態。医療魔術じゃどうにもならないって」
その言葉が胸の奥でひっかかる。重く、鈍く、爪で引っかかれたような感覚が残った。
「行こう」
ルークは椅子から立ち上がった。
「え?」
「ミレーナに会いに行こう。話せなくても、顔くらいは見ておきたい」
ララは驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐに頷いた。
「……うん、私もそう思ってた」
◆
治療所の建物は、学園の西側にある低い丘の上に建っていた。石造りの建物は白く、静寂と緊張感を抱かせる佇まいだった。
二人は受付で目的を伝え、通されたのは一番奥の個室。
魔力干渉防止用の結界が張られた特別病棟の中に、ミレーナはいた。
白いベッドに横たわるその姿は、まるで眠っているだけにしか見えなかった。だが、近づいてみると、その異常は明らかだった。
右腕に巻かれた包帯の下から、黒く染まった皮膚がわずかに覗いている。
脈はある。呼吸もある。けれど――彼女の“意識”は、そこにはなかった。
「魔素の……浸食が、止まらないんです」
そう言ったのは、同室にいた白衣の医師だった。老齢で、落ち着いた口調と目元の皺が印象的な人物だった。
「現在の状態は、魔力の暴走と魔素の侵食による意識崩壊の寸前です。丸薬の成分が、彼女の身体に染み込んでいる。魔力回路は過負荷を起こし、浄化魔法でも反応しない」
「……治療法は……?」
ルークが問いかける声は、思った以上に震えていた。
医師は首を振った。
「現時点では、ないとしか言えません。これまでの事例でも、魔素の侵食を受けた者は、そのまま目を覚まさないか……あるいは」
言葉を濁す。
だが、言いたいことはわかる。“あるいは”の先にあるものは、“魔物化”だ。
ルークの拳が、ぎゅっと握られた。
(俺は……何もできないのか)
あの日、必死で止めた。確かに一度は彼女を引き戻した。けれど、結局、元に戻すことはできていない。
騎士団からは疑いの目を向けられ、〈灰の焔〉の男の痕跡はどこにも残っていなかった。
ミレーナが責められることはない。だが、彼女がこのまま戻らなければ――そのすべての責任は、間接的に“止められなかった自分”に降りかかってくる。
それ以上に、胸を占めるのは無力感だった。
ベッドの傍らで、ルークは唇を噛みしめた。
(こんなにも近くにいるのに。俺はまた、何も……できない)
白いシーツに包まれたミレーナの手に、自分の手をそっと重ねた。微かに冷たいその手に、強く強く、願いを込める。
「……ごめん。俺が、もっと早く気づいてれば……」
そのときだった。
「――でも、もしかしたら」
ふいに、背後からララの声がした。
ルークが顔を上げて振り返る。
「……何か、心当たりでも?」
ララは腕を組み、考えるように視線を宙へと向けていた。
やがて、彼女はゆっくりとルークに向き直る。
「確証はないけど……なんとかなるかもしれない」
その言葉に、ルークの瞳がわずかに揺れる。
治療所の部屋に、夕陽が差し込む。
「聞かせてくれ、ララ」
ミレーナの眠る横で、二人の時間が、再び動き出そうとしていた。