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第5話 旅の始まり

「ん……。朝……?」

 草地で眠り込んでいたレオンの顔に、明るい日光が差し込む。


 彼はまぶたを擦りながら体を起こし、大きくあくびをした。


「こんなにもきれいな空なのに、大地は狂気で満ち溢れている。……どこを間違えちゃったんだろう」

 レオンが見上げた空は、美しい青といくつかの小さな白い雲で彩られていた。


 ところが視線を下ろすと、痛んだ世界が視界に入ってくる。

 体を破壊され、痛みの狂気に溺れる傷屍人が。傷屍人に傷つけられた大地が。


 皆が美しい世界を望んだはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。


「起きたか、レオン。昨日の旅の疲れは取れたか?」

 声に振り返ると、ガトリムが何やら作業をしていた。


 立ち上がったレオンは彼の元に歩み寄り、何をしているのかを確認する。

 どうやら朝食を作っているようだ。


「昨晩はぐっすり眠れたので、疲れは大丈夫です。ガトリムさんの方こそ大丈夫ですか? 一晩中見張りをしてくれていたみたいですけど……」

「昨日も説明したが、俺は炎の傷屍人。内に宿る熱のせいで眠れないんだ。だから気にすることはないぞ」

 ガトリムが言うには、彼が傷屍人になってからの約百年間、一度として眠れていないらしい。


 そんな状況で正気を保っていられるのはとてつもない精神力だが、それだけの痛みと苦しみに苛まれているという裏返しでもある。


「僕たちが住んでいた森の集落から、もうあんなに離れてしまったんですね。皆さん、苦しまずにいられているでしょうか……?」

「……それは無理だろうな。だが、どうしても苦しまずにいて欲しいと願ってしまう。俺の手で打ち斃してきた奴らに対しても、何度もその想いを抱えたよ」

 ノヴァとの戦いの後、森の集落で体を休めたレオンとガトリムは、老人たちを弔ってから森を出てきていた。


 例え意味がないことであろうとも、せずにはいられない。

 いままでは傷屍人を忌むべき存在と見ていたレオンも、彼らを救いたいという想いが芽生えだしていた。


「姉さんは、なぜ人を使った実験なんかするようになってしまったんでしょうか……」

 レオンは、この時まで怖くてできなかった質問をガトリムにぶつける。


 望む答えは返ってこないだろう。それでも、彼の意見を聞きたかった。


「ごく普通の人間に危害を加えようとする心理は分からん。だが、一つだけ分かることはある」

「分かること?」

 レオンの疑問に、ガトリムは右腕に巻かれた自身の包帯を解くことで答えを示す。


「姉さんも傷屍人なんですね……。でも、どうして? 姉さんはケガを負っている様子はなかった。痛みに苦しんでいる様子もない。それに変わってしまったとはいえ、意識自体はあるみたいですけど……」

「人間が苦しみに狂うのは、肉体の痛みだけじゃない。心の痛みに耐えきれず、狂ってしまうこともある。彼女は、言うなれば心の傷屍人。意識については、俺と同等なほどに強い想いを抱いていると言ったところか」

 心の痛みに狂い、傷屍人となってしまう人間。


 レオンの心に、また一つ理解できない情報が刻み込まれる。


「そうそう。お前の家で休ませてもらった時にされた質問で、答えていないものがいくつかあったな。傷屍人を斃す理由と……。後一つ、何か言ってなかったか?」

「え? えーっと、確か……。食料や備品を分けてくれるのはなぜか、と聞いた記憶があります。でも、そちらはなんとなく分かりました。見たかったんですよね? ほんの少しでも人々が笑顔になる様子を」

 レオンの回答に、ガトリムは気恥ずかしそうにうなずく。


 そして、空へと視線を移しながらこうつぶやいた。


「俺も、少し違えばごく普通の傷屍人と同じ存在になっていた。だからこそ、奴らが傷つける姿を認められなかった。誰かに分け与えられる俺と、一般の人間たちを傷つける傷屍人が同一だと考えたくなかったんだ」

 ガトリムもまた狂気に侵され、人々を襲う存在となる可能性があった。


 レオンは小さくショックを受けつつも、今日まで意識を保ち続けたガトリムに敬意を抱く。


「傷屍人になってしまった人たちには失礼かもしれませんけど、ガトリムさんは彼らとは全然違いますよ。僕を助けてくれましたし、何より目的を持って行動をしている。彼らはそれすらも持てなくなってしまったんですから」

「とても立派な目的とはいえんがな。なにせ、最終的な目的は復讐だ。俺を、俺たちを傷屍人に変えるような実験を行った、『創造機関』の奴らに」

 怒りに震えるガトリムの背を見て、レオンは怖気づいてしまう。


 僕には優しく語り掛けてくれるのに、姉さんや『創造機関』には憎悪に満ちた怒りをぶつけていた。

 彼の身に起きた出来事を思えば、とても止められないものだと分かるのだが。


「全ての原因を斃すことができたとして、止まってくれるのですか? 今度は他の人たちを傷つける、なんて言わないですよね……?」

「その時次第だな。復讐という目的が消え、ただの傷屍人に成り下がる可能性は十分にある。可能であれば、恨みを晴らすと同時に消滅したいが……」

 ガトリムの言葉に、レオンは落胆してしまう。


 これほどに強い人物であろうとも、生きることを望んでくれない。

 生きてさえいれば、苦痛を消す方法が見つかるかもしれないのに。


「どのような理由があれ、元は善良な人々を俺は狩ってしまった。罰を受ける覚悟はできているさ」

「そんな悲しい覚悟をする必要なんて……」

 レオンには、死にたい、消滅したいという想いが分からなかった。


 生きたいという想いが先行すべきではないかと、どうしても考えてしまうのだ。


「僕が子どもだから、皆さんの気持ちが分からないんでしょうか……」

「例えお前が大人だったとしても、理解する必要はない。とどのつまり、俺は痛みから逃れようとしているだけだからな。お前が思うような人物ではないさ」

 言いながら、ガトリムは傍らに置かれたツボに手を伸ばした。


 中からペースト状の何かを取り出し、調理中の料理へと投入していく。


「それ、集落の皆さんが好きだった……。もしかして、作っている料理って……」

「ああ、老人たちが最期に食べようとしていた料理だ。俺たちが食べることで、少しくらいは慰めになるかと思ってな。ほら、皿の用意くらいはしてくれよ」

 振り向いたガトリムの笑顔には、優しさが込められていた。


 やはり、彼は立派な人だ。いまを生きる人たちだけでなく、人として生きられなくなってしまった存在たちのことも考えているのだから。


「ガトリムさん。僕、あなたを傷屍人から元の人間へと戻したいです。方法も分かりませんし、できるかどうかすら分かりませんけど……。あなたと旅をして、見つけ出したいと思います」

「……良いんじゃないか。姉を探すという目的が無くなった以上、新たな目的を見つけ、歩いた方がいいからな。何はともあれ、まずは飯だ。さあ、食うぞ!」

 食器を駆使し、盛りつけられた料理を口に入れる。


 少しだけしょっぱいが、レオンは身も心も温まっていくのを感じるのだった。


「これからどこに向かうつもりなんですか?」

「そうだな……。とりあえず、俺がちょくちょく滞在していた集落に向かおうと思う。お前の装備の新調に加え、圧縮箱の補充をしなければならないからな。ついでに、アイツらに会っておくかな」

 ガトリムが言うアイツらとは誰のことか分からなかったが、きっと、彼と同じで優しい人なんだろうなとレオンは思う。


「飯と片付けが終わったら、南に向かって歩くぞ。数日間の旅路になる上に、道中傷屍人と出会うこともあるだろう。気を引き締めろ」

「はい! 分かりました!」

 ガトリムとレオンは旅に出る。


 傷屍人を狩りながら、傷屍人を生み出した『創造機関』に復讐するために。

 傷屍人となってしまった人々を、元の人間に戻すための技術を得るために。


 前日、とある研究所——


「酷い臭い……。我ながら、とんでもない生活をしてきたんだね……」

 自分が使っている研究所に戻ってきたノヴァは、自身の過ちを心に刻み込みながら掃除を行っていた。


 血しぶきに肉片に黒い焦げ跡。

 ここで行われていたのは、不死に苦しむ人々を元の人間に戻すための実験——のはずだった。


 当初は目的を持って行っていたというのに、いざ正気に戻ってこの惨状を見つめ直すと、ただただ過ちへと突き進んでしまったことを否が応でも気付かされる。


「髪、短くなっちゃったんだね……」

 鏡に映る短髪姿の自分を見て、ノヴァは深くため息を吐く。


 改めて自分の姿を確認してみると、かなり不気味な表情をしているように思えた。


「髪が長かったら、ただの化け物ね……。私ったら、こんなにひどい顔をしてたんだ……」

 研究に没頭しすぎたせい? それとも、あまりにもひどい研究を行い続けていたから?


 自身のことなど、どうでもよくなってしまったからなのかもしれない。


「なんで、こんなになるまで気付かなかったんだろ。なんで、あんな実験をすべきなんて考えちゃったんだろ」

 人を傷つける実験が、許されていいはずがない。


 いまからでも止めなければ。


「でも私の心には、傷屍人たちを助けたいという想いがいまだに存在している。彼らを救うには、実験を繰り返さなきゃいけない。私の心を押し潰し、狂わなくてはならない。そうしないと、とても耐えられない……」

 ノヴァの瞳から、涙が流れ出す。


 一切の狂気が混ざっていない、美しい涙が。


「ガトリムさん……。私、あなたのそばで生きてみたいと思ってしまいました。私が表面に出てきたのは、それが理由なんでしょうね……」

 全てを捨て去る覚悟で死なせるための実験を繰り返していたというのに、初めて淡い想いを抱いてしまった。


 生きて、彼と歩んでみたいという想いを。


「でも、私はどうすればいいの……? たくさんの罪なき人々を実験台にし、私の体は罪まみれ。あなたに触れることも、近づくことすら許されない」

 震える両手を、ノヴァはじっと見つめる。


 すると突然、左手が彼女の首を締め付けだした。


「だったら、私があの方に触れてあげるわぁ……。罪を微塵も感じていない私だったら、何の問題もないでしょう……?」

 ノヴァは苦しみながら、自分が映る鏡に視線を向ける。


 そこには、狂気の瞳を宿したもう一人のノヴァの姿があった。


「あなた、もう目覚めて……! 消えてよ! この体は私の……!」

「いまさら急に目覚めて生きてみたいなんて、何を考えているのよ。私は私らしく、死にたいという想いを抱き続けていればいいの。じゃないと、私が存在する理由が消えちゃうじゃない……」

 美しく彩られていたはずのノヴァの瞳が、狂気の色に染まっていく。


 光が戻りかけていた彼女の心が、暗闇に覆われていく。


「ああ、愛しのガトリム様……。一瞬でもためらってしまった私をお許しください……。私が最高の実験を、最高の痛みと共に与えて差し上げますので、どうかしばらくお待ちくださいね……!」

 研究所に、狂気の高笑いがこだまする。


 狂気に歪められたノヴァの笑う影が、研究所の壁に映りこんでいた。

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