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優しい檻の中には可愛い君
優しい檻の中には可愛い君
めがねあざらし
BL現代BL
2025年04月07日
公開日
3,432字
連載中
【月・水・金/20時定期更新】 『ちょっと出てくる』──そう書かれた紙切れを最後に、両親は消えた。 冷蔵庫も衣類も通帳も、すべてを残して。 家に一人取り残された大学生・相原智哉の前に現れたのは、かつて憧れていた先輩、市原誠人。 「今回君を見つけたとき、思ったんだよね。──欲しい、って」 それは救いじゃない。甘くてやさしい檻だった。 ひとつ、またひとつ奪われながら、智哉は知らずに愛玩になっていく── 優しすぎる支配×逃げられない恋 じわじわ堕ちる追い詰め系BL、開幕。

第1話 静かな帰宅

玄関のドアを開けた瞬間、智哉は違和感を覚えた。


「……ただいま」


返事はなかった。

テレビの音も、料理をする物音も聞こえない。

夕方なら、母がキッチンにいてもいい時間だ。

でも、家の中は息を潜めたように静まり返っている。

リビングから聞こえるのは、壁掛け時計の秒針が刻む音だけ。

カチ、カチ、カチ。

空気が止まったみたいだった。

靴を脱ぎながら、玄関に目をやる。

いつもなら、母のスニーカー、父の革靴、自分の靴が無造作に並んでいるのに、今日はそれらが一足もない。

代わりに、自分のスニーカーだけが、ぽつんと置かれていた。 


まるで──


「お前だけが帰ってきた」とでも言いたげに。


(……出払ってるだけ、だよな)


自分にそう言い聞かせながらも、胸の奥にざらつく感覚が広がっていく。

リビングの明かりは消えていた。

ブラインドの隙間から差し込む夕日が、床に長い影を落としている。

ソファの上には何もない。クッションがきちんと並び、テーブルの上も、使われた気配が一切なかった。

人の気配が、ない。

本当にここに人が住んでいるのか? そんな疑問が浮かぶほどだった。

冷蔵庫の前に立つ。

ドアを開けた瞬間、冷気だけがふわりと顔に触れた。

中は──ほぼ空。

牛乳もなければ、残り物もない。ペットボトルの水さえない。

整理された棚の隅に、ラップがめくれた跡すら残っていない。

整いすぎていて、不気味だった。

きれいに拭きあげられたガラス面に、自分のぼやけた顔が映っていた。

洗面所へ向かう。

洗濯機は空。中にあったはずの洗濯物も姿を消していた。

脱衣所にかけてあったバスタオルもない。

歯ブラシスタンドには、自分の歯ブラシだけが残されていた。

母のピンクの歯ブラシも、父の黒い電動歯ブラシも、忽然と姿を消していた。


「……え?……なに……」


言葉がかすれる。

次に向かったのは、両親の寝室。

ドアを開けた瞬間、空気が違った。

妙に静かで、軽い。空っぽの箱みたいな感じ。

クローゼットの扉を開けると、スーツもシャツも一枚もなかった。

旅行用のキャリーバッグまで消えている。

タンスの引き出しもすべて空。

下着も靴下も、整然と何もなかった。

家族ごと、消えた──そうとしか思えなかった。

ダイニングテーブルの上に、一枚の紙切れがあった。

雑誌の裏紙。くしゃっとした折り目。

そこに、黒の油性ペンで走り書きされた一文。


『ちょっと出てくる』


それだけだった。

宛名も、署名もない。

裏を見ても、続きはなかった。

思わず握っていた指に力がこもる。

その言葉が、ただの外出メモであるはずがない。

これだけで、すべてを説明したつもりか?

冗談だろ。あまりにも軽すぎる。

ポケットからスマートフォンを取り出す。

母の番号をタップ。数コール後、無機質な音声が返ってきた。


「おかけになった電話は、電波の届かない場所に──」


父にかけても同じだった。

スマホの電波はフルバー。電波が届かないわけがない。

メッセージアプリを開く。

母のアイコンは灰色になっていた。

既読はつかない。タイムラインも消えている。

履歴をさかのぼっても、途中でぶつりと切れていた。

グループトークを確認する。

そこにあったはずの“家族グループ”の部屋が、まるごとリストから消えていた。

まるで──存在ごと削除されたようだった。

手が震える。スマホを置く。

これは偶然なんかじゃない。

「準備して」「意図して」消えたんだ。

──俺だけを残して。

ソファに沈み込む。

重力がいつもの倍にも感じられる。

リビングには音がない。

自分の心臓の音と、時計の秒針の音だけが空気を震わせていた。

ここは本当に、自分の家だったか?

この静けさと整頓は、生活の終わりを告げているみたいだった。

帰ってきたはずの家が、もう家じゃない。

帰る場所が──ない。

もしかしたら最初から、自分の居場所なんてなかったのかもしれない。

そんな考えが、するりと胸の奥に忍び込んでくる。

背中が冷たくなった。

喉が渇く。手足が冷える。

異常事態だと、ようやく認めた。

理解が追いついてこないまま、ただひとつだけ、明確に感じていることがあった。


──誰も、帰ってこない。



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