玄関のドアを開けた瞬間、智哉は違和感を覚えた。
「……ただいま」
返事はなかった。
テレビの音も、料理をする物音も聞こえない。
夕方なら、母がキッチンにいてもいい時間だ。
でも、家の中は息を潜めたように静まり返っている。
リビングから聞こえるのは、壁掛け時計の秒針が刻む音だけ。
カチ、カチ、カチ。
空気が止まったみたいだった。
靴を脱ぎながら、玄関に目をやる。
いつもなら、母のスニーカー、父の革靴、自分の靴が無造作に並んでいるのに、今日はそれらが一足もない。
代わりに、自分のスニーカーだけが、ぽつんと置かれていた。
まるで──
「お前だけが帰ってきた」とでも言いたげに。
(……出払ってるだけ、だよな)
自分にそう言い聞かせながらも、胸の奥にざらつく感覚が広がっていく。
リビングの明かりは消えていた。
ブラインドの隙間から差し込む夕日が、床に長い影を落としている。
ソファの上には何もない。クッションがきちんと並び、テーブルの上も、使われた気配が一切なかった。
人の気配が、ない。
本当にここに人が住んでいるのか? そんな疑問が浮かぶほどだった。
冷蔵庫の前に立つ。
ドアを開けた瞬間、冷気だけがふわりと顔に触れた。
中は──ほぼ空。
牛乳もなければ、残り物もない。ペットボトルの水さえない。
整理された棚の隅に、ラップがめくれた跡すら残っていない。
整いすぎていて、不気味だった。
きれいに拭きあげられたガラス面に、自分のぼやけた顔が映っていた。
洗面所へ向かう。
洗濯機は空。中にあったはずの洗濯物も姿を消していた。
脱衣所にかけてあったバスタオルもない。
歯ブラシスタンドには、自分の歯ブラシだけが残されていた。
母のピンクの歯ブラシも、父の黒い電動歯ブラシも、忽然と姿を消していた。
「……え?……なに……」
言葉がかすれる。
次に向かったのは、両親の寝室。
ドアを開けた瞬間、空気が違った。
妙に静かで、軽い。空っぽの箱みたいな感じ。
クローゼットの扉を開けると、スーツもシャツも一枚もなかった。
旅行用のキャリーバッグまで消えている。
タンスの引き出しもすべて空。
下着も靴下も、整然と何もなかった。
家族ごと、消えた──そうとしか思えなかった。
ダイニングテーブルの上に、一枚の紙切れがあった。
雑誌の裏紙。くしゃっとした折り目。
そこに、黒の油性ペンで走り書きされた一文。
『ちょっと出てくる』
それだけだった。
宛名も、署名もない。
裏を見ても、続きはなかった。
思わず握っていた指に力がこもる。
その言葉が、ただの外出メモであるはずがない。
これだけで、すべてを説明したつもりか?
冗談だろ。あまりにも軽すぎる。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
母の番号をタップ。数コール後、無機質な音声が返ってきた。
「おかけになった電話は、電波の届かない場所に──」
父にかけても同じだった。
スマホの電波はフルバー。電波が届かないわけがない。
メッセージアプリを開く。
母のアイコンは灰色になっていた。
既読はつかない。タイムラインも消えている。
履歴をさかのぼっても、途中でぶつりと切れていた。
グループトークを確認する。
そこにあったはずの“家族グループ”の部屋が、まるごとリストから消えていた。
まるで──存在ごと削除されたようだった。
手が震える。スマホを置く。
これは偶然なんかじゃない。
「準備して」「意図して」消えたんだ。
──俺だけを残して。
ソファに沈み込む。
重力がいつもの倍にも感じられる。
リビングには音がない。
自分の心臓の音と、時計の秒針の音だけが空気を震わせていた。
ここは本当に、自分の家だったか?
この静けさと整頓は、生活の終わりを告げているみたいだった。
帰ってきたはずの家が、もう家じゃない。
帰る場所が──ない。
もしかしたら最初から、自分の居場所なんてなかったのかもしれない。
そんな考えが、するりと胸の奥に忍び込んでくる。
背中が冷たくなった。
喉が渇く。手足が冷える。
異常事態だと、ようやく認めた。
理解が追いついてこないまま、ただひとつだけ、明確に感じていることがあった。
──誰も、帰ってこない。