気づけば、息を止めていた。
ソファに沈んだまま、胸が上下するのをじっと待っていた。
少し落ち着いてから、もう一度、家の中を見渡す。
もしかして、自分の勘違いだったかもしれない。
家族が本当に出かけただけなら──いや、あの紙切れ一枚で済ませる理由があるのなら、どこかに生活の痕跡が残っているはずだ。
智哉は立ち上がり、改めてキッチンへ向かった。
冷蔵庫のドアを、ゆっくりと開ける。
中には、何もなかった。
──いや、正確には「何ひとつないように整えられていた」。
仕切りごと外されたタッパーも、開封途中のケチャップも、使いかけのマヨネーズも、どこにも見当たらない。
透明なプラスチックの棚は拭かれており、曇りひとつなかった。
卵のパックも、納豆も、ヨーグルトも、ビニール袋さえない。
冷凍室を開ける。こちらも同じだった。
霜のない引き出しに、パックのひとつも残っていない。
アイスも冷凍うどんも、なにもかも、まるで最初からなかったみたいに消えていた。
野菜室。空。
調味料の棚。空。
パントリーにしていた小さな引き出しの中も、空。
乾物、缶詰、買い置きのティッシュ、トイレットペーパー、紙皿、輪ゴム、割り箸。
何もかもが、痕跡ごと消されていた。
「……はは……」
思わず、小さな笑いが漏れた。
笑うしかなかった。
これは──ありえない。
この整頓は、生活を「リセット」するような作業の結果だった。
単なる片づけじゃない。
偶然でもない。
明らかに、「消すために」手をかけた形跡が、ここにはあった。
智哉はキッチンに立ったまま、次にどこを確認すべきかを考えた。
そして、食器棚へ向かう。
扉を開けると、棚板の上に残っていたのは、自分が使っている青いマグカップと、無地の小皿ひとつ。
他の食器は、何もなかった。
三人家族の生活感が、跡形もなく消えていた。
そういえば──と思い立ち、洗面所へ戻る。
洗濯機の奥にある収納を開ける。洗剤も柔軟剤もなかった。
使用中のボトルも、ごみ箱も、全部ない。
衣類を入れていたかごも、バスマットも、消えている。
リビングに戻り、書類棚の引き出しを開ける。
契約書類や年賀状、学校の資料……そういった“紙の生活”も、何もなかった。
何かを慌てて片づけた様子はない。
何日もかけて、計画的に準備され、きれいに“持ち出された”形跡だった。
逃げたんだ。
誰にも知られないように。
──俺にさえ、気づかれないように。
自分の存在が、まるで“外された”ような感覚に襲われた。
リビングの壁にかけられた家族写真。
それも、なかった。
あった場所の壁には、画鋲の跡すら残っていない。
アルバムもなくなっていた。
父の趣味だったレコードプレーヤーも。
母が集めていた小さな観葉植物も。
一個、残っていなかった。
智哉はダイニングテーブルの椅子に座り、もう一度、あの紙切れを見つめた。
『ちょっと出てくる』
言葉の軽さに、苛立ちがわいてくる。
“ちょっと”で済ませる内容じゃないだろ。
どこまで俺を馬鹿にしてるんだよ。
でも、そこにあるのは事実だけだ。
紙切れと、空っぽの家。
消えた家族。
そして、残されたのは自分ひとりだけ。
スマホを取り出す。
母の番号をもう一度タップする。
コール音の代わりに、機械音声が淡々と流れた。
「おかけになった電話は──」
通話を切り、父にもかける。
やっぱり、同じだった。
もう一度、メッセージアプリを開く。
母のアイコンはまだ灰色。プロフィール欄は空白。
ブロックされたのか、それともアカウントごと消されたのか。
家族グループの履歴も、やっぱり戻っていない。
智哉の指が、小さく震える。
もしかして、と思い、銀行のアプリを開こうとする。
ログインには父と共有していた口座が必要だ。
でも──認証が通らない。
すでにパスワードが変更されているか、口座自体が凍結されたか。
全くアクセスできない
すべての接点が、意図的に遮断されていた。
家族がいない、という事実だけじゃない。
“自分という存在が、最初から除外されていた”。
その感覚が、ようやく全身を冷やしていく。
言いようのない孤独。
けれど、その中には小さな恐怖と、もう一つ──
「何かが、これから始まる」という、漠然とした不安があった。
智哉は立ち上がり、玄関へ向かった。
そっとドアノブを回す。
外の空気は冷たかった。
でも、ここよりはずっと生きていた。
──本当に、俺だけが取り残されたのか?
その答えに答えるものは、ここにいない。