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第2話 消された生活

気づけば、息を止めていた。

ソファに沈んだまま、胸が上下するのをじっと待っていた。


少し落ち着いてから、もう一度、家の中を見渡す。

もしかして、自分の勘違いだったかもしれない。

家族が本当に出かけただけなら──いや、あの紙切れ一枚で済ませる理由があるのなら、どこかに生活の痕跡が残っているはずだ。


智哉は立ち上がり、改めてキッチンへ向かった。


冷蔵庫のドアを、ゆっくりと開ける。

中には、何もなかった。

──いや、正確には「何ひとつないように整えられていた」。


仕切りごと外されたタッパーも、開封途中のケチャップも、使いかけのマヨネーズも、どこにも見当たらない。

透明なプラスチックの棚は拭かれており、曇りひとつなかった。

卵のパックも、納豆も、ヨーグルトも、ビニール袋さえない。


冷凍室を開ける。こちらも同じだった。

霜のない引き出しに、パックのひとつも残っていない。

アイスも冷凍うどんも、なにもかも、まるで最初からなかったみたいに消えていた。


野菜室。空。


調味料の棚。空。


パントリーにしていた小さな引き出しの中も、空。

乾物、缶詰、買い置きのティッシュ、トイレットペーパー、紙皿、輪ゴム、割り箸。

何もかもが、痕跡ごと消されていた。


「……はは……」


思わず、小さな笑いが漏れた。

笑うしかなかった。

これは──ありえない。


この整頓は、生活を「リセット」するような作業の結果だった。

単なる片づけじゃない。

偶然でもない。


明らかに、「消すために」手をかけた形跡が、ここにはあった。


智哉はキッチンに立ったまま、次にどこを確認すべきかを考えた。

そして、食器棚へ向かう。


扉を開けると、棚板の上に残っていたのは、自分が使っている青いマグカップと、無地の小皿ひとつ。

他の食器は、何もなかった。


三人家族の生活感が、跡形もなく消えていた。


そういえば──と思い立ち、洗面所へ戻る。

洗濯機の奥にある収納を開ける。洗剤も柔軟剤もなかった。

使用中のボトルも、ごみ箱も、全部ない。

衣類を入れていたかごも、バスマットも、消えている。


リビングに戻り、書類棚の引き出しを開ける。

契約書類や年賀状、学校の資料……そういった“紙の生活”も、何もなかった。


何かを慌てて片づけた様子はない。

何日もかけて、計画的に準備され、きれいに“持ち出された”形跡だった。


逃げたんだ。

誰にも知られないように。

──俺にさえ、気づかれないように。


自分の存在が、まるで“外された”ような感覚に襲われた。


リビングの壁にかけられた家族写真。

それも、なかった。

あった場所の壁には、画鋲の跡すら残っていない。


アルバムもなくなっていた。

父の趣味だったレコードプレーヤーも。

母が集めていた小さな観葉植物も。


一個、残っていなかった。


智哉はダイニングテーブルの椅子に座り、もう一度、あの紙切れを見つめた。


『ちょっと出てくる』


言葉の軽さに、苛立ちがわいてくる。

“ちょっと”で済ませる内容じゃないだろ。

どこまで俺を馬鹿にしてるんだよ。


でも、そこにあるのは事実だけだ。

紙切れと、空っぽの家。

消えた家族。


そして、残されたのは自分ひとりだけ。


スマホを取り出す。

母の番号をもう一度タップする。

コール音の代わりに、機械音声が淡々と流れた。


「おかけになった電話は──」


通話を切り、父にもかける。

やっぱり、同じだった。


もう一度、メッセージアプリを開く。

母のアイコンはまだ灰色。プロフィール欄は空白。

ブロックされたのか、それともアカウントごと消されたのか。


家族グループの履歴も、やっぱり戻っていない。

智哉の指が、小さく震える。


もしかして、と思い、銀行のアプリを開こうとする。

ログインには父と共有していた口座が必要だ。

でも──認証が通らない。

すでにパスワードが変更されているか、口座自体が凍結されたか。

全くアクセスできない


すべての接点が、意図的に遮断されていた。


家族がいない、という事実だけじゃない。

“自分という存在が、最初から除外されていた”。

その感覚が、ようやく全身を冷やしていく。


言いようのない孤独。

けれど、その中には小さな恐怖と、もう一つ──

「何かが、これから始まる」という、漠然とした不安があった。


智哉は立ち上がり、玄関へ向かった。

そっとドアノブを回す。

外の空気は冷たかった。

でも、ここよりはずっと生きていた。


──本当に、俺だけが取り残されたのか?


その答えに答えるものは、ここにいない。


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