冷蔵庫も、棚も、アルバムも、何もかもが消えていた。
けれど、一番確かに消えているのは──家族という事実だった。
智哉はダイニングの椅子に深く座り込んだ。
空っぽの家に、あまりにたくさんの“無”が詰め込まれていて、動く気力も失せる。
残された家具も家電も、まるで誰かが見栄えだけ整えた舞台装置のように無機質だった。
時計の音だけが続いている。
カチ、カチ、カチ。
それが家に流れる“唯一の時間”になっている気がして、ぞっとした。
スマホを握り直す。
着信履歴を再確認しても、両親からの連絡はどこにもなかった。
メッセージアプリも、既読のつかない灰色の画面がそのままだ。
自分だけが、綺麗に切り離されていた。
(……なんで、俺だけ)
考えても答えは出ない。
じわじわと喉が乾いてくる。
水を飲もうと立ち上がりかけたその瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。
画面には──「知らない番号」。
指が止まる。
迷っているうちに着信は切れた。
数秒の沈黙のあと、別の番号からまた着信が入る。
次いで、また違う番号。
──嫌な予感がした。
呼吸が浅くなる。
スマホを握る手のひらがじっとりと汗ばんでいた。
四回目の着信が切れたあと、しばらく通知が止んだ。
ようやく静けさが戻った……そう思った次の瞬間。
「ピンポーン」
インターホンが鳴った。
玄関。
その音が、今日という一日の中で一番心臓に響いた。
反射的にモニターへ歩く。
玄関のカメラに映し出されたのは、黒いスーツの男たち。
二人。いや、三人。
どれもが似たようなスーツに身を包み、無表情で立っていた。
整った立ち姿。妙に揃った髪型。どこか会社員にしては“きれいすぎる”。
そして、その後ろ。
少し距離をとって、もうひとり。
カメラの角度が微妙にずれていて、顔ははっきりと映っていない。
けれど──
その立ち方、手の組み方、わずかに揺れる肩の動き。
どこか、昔見た“誰か”に似ていた。
(……いや、でも──)
違う。
こんな場所で、こんなタイミングで、会うはずがない。
でも、身体が勝手に動かなくなった。
映らない顔の向こうに、知っている表情がある気がした。
スーツはよく似合っていた。
けれど、シャツの襟が少しだけ乱れていて、髪も以前より伸びていた。
いつも清潔感のあった人の、それとは違う。
何よりも“空気”が違っていた。
(まさか……市原、さん……?)
市原誠人。6つ上の先輩。
智哉の通う学校は幼稚舎から大学までの一貫校だ。
小学生の頃から“縦割りグループ”で一緒だった。
中学生だった市原は、年下の智哉に勉強を教えてくれた。
優しくて、笑うと目元が少しだけ下がる人だった。
あの頃の自分には、それが“世界で一番安心できる顔”に見えた。
でも──
今、モニターの奥にいるその人の“気配”は。
怖かった。
もう一度、インターホンが鳴る。
ビクリと身体が跳ねる。
咄嗟にモニターを切った。
音のない画面が壁に戻る。
心臓がばくばくと騒いでいた。
額に汗がにじむ。手が冷たい。
怖い。誰だあれ。
……いや、違う。わかってる。わかってるけど、わかりたくなかった。
再びスマホが震えた。
着信──「非通知」。
名前も、番号も、表示されない。
けれど、それは確かに、玄関の向こうと繋がっている気がした。
鳴り響くバイブレーションが、腕の骨を通じて鼓膜に響く。
そのときだった。
──カチャ。
玄関のドアノブが、音を立てた。
音は小さかった。鍵が回るような、ごく微かな動き。
でもその音だけで、智哉の全身が硬直した。
(……なんで、鍵……)
確かに、さっき自分でかけたはずだった。
玄関に目を向けたまま、一歩も動けない。
時間が止まったように、何も聞こえなかった。
そして、ドアの向こうから──
「……相原智哉くん?」
男の声が、やけに穏やかに響いた。
懐かしいはずなのに、記憶より少しだけ低くて、怖かった。
智哉は、返事ができなかった。