リビングのドアが、ゆっくりと開いた。
薄暗い廊下の向こう、照明の下にスーツ姿ですっと現れる。
顔が見えなかった人物が、明るみに浮かんだ。
「──やぁ。久しぶり」
低くて、やわらかい声だった。
でも、それ以上に胸に響いたのは、その顔だった。
一瞬、息が止まった。
頭の中で何度も否定した名前が、現実の輪郭を持って眼前に現れた。
市原さん。
間違いない。
眉の形も、目元の下がり方も、覚えていたままだった。
でも──
(ちがう……これ、知ってる人の顔なのに)
そこにある笑みは、確かに柔らかかった。
けれど、目が笑っていなかった。
瞳だけが、まるで静かな水面のように濁っていた。
「……市原、さん……?」
名前を口にした瞬間、足元が少しだけぐらついた気がした。
「うん、そうだよ。合ってる。智哉くん……だよね」
そう言って、市原が一歩だけ近づいてくる。
スーツの着こなしは完璧だった。ネクタイの締め方も、皴のなさも。
でも、シャツの第一ボタンが少し外れていて、襟元が微妙に乱れていた。
そんな小さな“ほころび”が、今の彼を象徴しているように思えた。
「……な、なんで……ここに……」
震えた声が喉の奥から漏れる。
目の前の市原は、あの頃の市原じゃなかった。
学校での面倒見が良い先輩。
年上の彼は、当時の智哉にとってまるで“お兄ちゃん”みたいな存在だった。
中学生の市原に勉強を教えてもらって、ノートに書いてくれた文字はいつも丁寧で。
「よくできたね」と褒められたことが、とても嬉しかった。
──でも今。
その人が、こんな風に目の前に現れるなんて。
「ひどい話だよね。家族に置いてかれるなんて」
ふと、声が聞こえた。
市原が、まるで遊びにでもきたかのように、リビングへと入ってくる。
スーツの男たちはドアの外で控えていた。
誰も何も言わない。ただ、完璧な沈黙が続いている。
「……なんで、市原さんが」
「たまたまだよ。偶然……仕事で知っただけ。君の名前を見て、懐かしくなってさ」
懐かしい、なんて。
それは、あの頃の市原の声じゃなかった。
言葉のトーンは似ているのに、空気が違った。
柔らかいのに、底の見えない、冷たい“計算”のにおいがした。
「……偶然、て……」
「えー……信じられない?」
返されたその言葉に、嫌な笑みが添えられていた。
「まあ、信じられなくてもいいけど──でも、俺は本気で君のこと心配して来たんだよ」
智哉は一歩、下がった。
さっきまで自分が座っていたダイニングの椅子の背に、そっと手を置く。
「……なんで、そんなこと……」
言いかけたそのとき。
市原がふいに視線を外し、ドアの外を見やった。
そして、控えていたスーツの男たちに、短く言った。
「もういい。中には入らないで」
男たちは黙って一礼し、その場から離れていった。
そのまま、気配が消えた。
そして──
「智哉」
不意に、名前を呼ばれた。
直に、はっきりと、名前だけ。
その呼び方が、昔と同じで、息が詰まる。
「ここにいたって、もう誰も帰ってこないよ」
「……知ってるんですか、何が……あったか」
「知ってるよ。でも、それを今言っても君の役には立たない」
そう言って、笑った。
けれど、目はやっぱり笑っていなかった。
「行こう。うちで話そう」
市原が、手を差し出してくる。
その手を見て、ほんの少しの間だけ、昔の記憶が胸の奥をかすめた。
でも、すぐに現実が押し寄せてくる。
これは、あの人じゃない。
違う。
どこかが、根本的に違う。
「……や、です」
かすれた声で答える。
市原の表情は、変わらなかった。
「どうしても?」
「……ここにいます。俺」
市原が少しだけ肩をすくめた。
「ふぅん……そう言うと思ったよ。でもね」
そこで一歩だけ、ぐっと距離を詰める。
声が、耳元でささやくように低くなった。
「このまま、ここにいたら──次に来るのは俺じゃないよ」
意味が、すぐには理解できなかった。
「お前の家、担保になってるんだ。親御さんが残していった借金。……知ってる?」
目の前が少し揺れた。
音が遠くなる。
「何もかも突然で、ごめんね?でも──俺を拒否したら、他の人間が来る」
「他の人間……?」
「そう。それこそさっき出て行ったようなやつら、とかね。債権回収って、いろんな段階があるんだよ。俺は、君に優しい方法を選べる立場にいる」
そのとき、ようやく理解した。
この人は、助けに来たんじゃない。
奪いに来たんだ。
それでも市原は、変わらぬ調子で言った。
「行こうか、智哉」
智哉は返事をしないまま、目の前の手を見ていた。