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第4話 再会

リビングのドアが、ゆっくりと開いた。


薄暗い廊下の向こう、照明の下にスーツ姿ですっと現れる。

顔が見えなかった人物が、明るみに浮かんだ。


「──やぁ。久しぶり」


低くて、やわらかい声だった。

でも、それ以上に胸に響いたのは、その顔だった。


一瞬、息が止まった。

頭の中で何度も否定した名前が、現実の輪郭を持って眼前に現れた。


市原さん。


間違いない。

眉の形も、目元の下がり方も、覚えていたままだった。

でも──


(ちがう……これ、知ってる人の顔なのに)


そこにある笑みは、確かに柔らかかった。

けれど、目が笑っていなかった。

瞳だけが、まるで静かな水面のように濁っていた。


「……市原、さん……?」


名前を口にした瞬間、足元が少しだけぐらついた気がした。


「うん、そうだよ。合ってる。智哉くん……だよね」


そう言って、市原が一歩だけ近づいてくる。

スーツの着こなしは完璧だった。ネクタイの締め方も、皴のなさも。

でも、シャツの第一ボタンが少し外れていて、襟元が微妙に乱れていた。


そんな小さな“ほころび”が、今の彼を象徴しているように思えた。


「……な、なんで……ここに……」


震えた声が喉の奥から漏れる。

目の前の市原は、あの頃の市原じゃなかった。


学校での面倒見が良い先輩。

年上の彼は、当時の智哉にとってまるで“お兄ちゃん”みたいな存在だった。

中学生の市原に勉強を教えてもらって、ノートに書いてくれた文字はいつも丁寧で。

「よくできたね」と褒められたことが、とても嬉しかった。


──でも今。


その人が、こんな風に目の前に現れるなんて。


「ひどい話だよね。家族に置いてかれるなんて」


ふと、声が聞こえた。


市原が、まるで遊びにでもきたかのように、リビングへと入ってくる。

スーツの男たちはドアの外で控えていた。

誰も何も言わない。ただ、完璧な沈黙が続いている。


「……なんで、市原さんが」

「たまたまだよ。偶然……仕事で知っただけ。君の名前を見て、懐かしくなってさ」


懐かしい、なんて。


それは、あの頃の市原の声じゃなかった。

言葉のトーンは似ているのに、空気が違った。

柔らかいのに、底の見えない、冷たい“計算”のにおいがした。


「……偶然、て……」

「えー……信じられない?」


返されたその言葉に、嫌な笑みが添えられていた。


「まあ、信じられなくてもいいけど──でも、俺は本気で君のこと心配して来たんだよ」


智哉は一歩、下がった。

さっきまで自分が座っていたダイニングの椅子の背に、そっと手を置く。


「……なんで、そんなこと……」


言いかけたそのとき。


市原がふいに視線を外し、ドアの外を見やった。

そして、控えていたスーツの男たちに、短く言った。


「もういい。中には入らないで」


男たちは黙って一礼し、その場から離れていった。

そのまま、気配が消えた。


そして──


「智哉」


不意に、名前を呼ばれた。


直に、はっきりと、名前だけ。

その呼び方が、昔と同じで、息が詰まる。


「ここにいたって、もう誰も帰ってこないよ」

「……知ってるんですか、何が……あったか」

「知ってるよ。でも、それを今言っても君の役には立たない」


そう言って、笑った。

けれど、目はやっぱり笑っていなかった。


「行こう。うちで話そう」


市原が、手を差し出してくる。


その手を見て、ほんの少しの間だけ、昔の記憶が胸の奥をかすめた。

でも、すぐに現実が押し寄せてくる。


これは、あの人じゃない。


違う。

どこかが、根本的に違う。


「……や、です」


かすれた声で答える。

市原の表情は、変わらなかった。


「どうしても?」

「……ここにいます。俺」


市原が少しだけ肩をすくめた。


「ふぅん……そう言うと思ったよ。でもね」


そこで一歩だけ、ぐっと距離を詰める。

声が、耳元でささやくように低くなった。


「このまま、ここにいたら──次に来るのは俺じゃないよ」


意味が、すぐには理解できなかった。


「お前の家、担保になってるんだ。親御さんが残していった借金。……知ってる?」


目の前が少し揺れた。

音が遠くなる。


「何もかも突然で、ごめんね?でも──俺を拒否したら、他の人間が来る」

「他の人間……?」

「そう。それこそさっき出て行ったようなやつら、とかね。債権回収って、いろんな段階があるんだよ。俺は、君に優しい方法を選べる立場にいる」


そのとき、ようやく理解した。


この人は、助けに来たんじゃない。

奪いに来たんだ。


それでも市原は、変わらぬ調子で言った。


「行こうか、智哉」


智哉は返事をしないまま、目の前の手を見ていた。


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