「行こうか、智哉」
その声に、強制力はなかった。
あくまで、優しさの形をしていた。
けれど、智哉はその手を拒むことができなかった。
断ったところで、状況が変わるわけじゃない。
家族は消えた。電話もメッセージアプリも繋がらない。
この家にはもう、自分ひとりしかいない。
──なら、どうする。
そうは思ったものの──
選択肢は、もう最初からなかった。
市原の手に触れず、ただそのあとを黙ってついていく。
玄関の扉を抜け、外の冷たい空気に触れた瞬間、
“もう戻れない”という実感が全身を貫いた。
アスファルトの匂い。玄関前を照らす照明の白さ。
どれも、見慣れたはずなのに、今日はすべてが異物に感じた。
敷地内に停められていた黒塗りのセダンの後部座席。
ドアが無言で開けられ、市原が先に乗り込む。
智哉はほんの一瞬だけためらったあと、乗った。
ドアが静かに閉まる。
車内は異様なほど静かだった。
助手席には、先ほどのスーツの男が座っていた。
運転席の男と簡単な確認を済ませると、車がゆっくりと発進した。
「若頭直々って、珍しいっすね〜」
助手席の男が、不意に笑いながら言った。
軽い調子。けれど、その口調が逆に背筋を凍らせた。
「……え、若……?」
思わず聞き返すと、市原は肩をすくめて笑った。
「気にしなくていいよ。俺はただの債権者」
だけど、さっきの一言が、智哉の中でずっと響いていた。
──若頭。
言葉の意味はわかる。
ドラマやニュースで、何度も聞いたことがある。
でも、“市原さんが”それなのか。
だとしたら、今乗っているこの車は──
今、一緒にいるこの人たちは──
手のひらがじんわりと汗ばんでいた。
冷たい空気の中で、身体だけが妙に熱い。
市原はスマホを操作しながら、何気なく付け足す。
「……君ってさ、ほんと、昔から綺麗な顔してるよね」
唐突に、市原が言った。
「……っ、は?」
声が裏返りそうになるのを必死に抑えて、智哉は目を逸らす。
冗談だと思いたかった。
でも、市原の目はまったく笑っていなかった。
もともと色素が薄い天然の茶髪に、黒目。
派手でもなく、どこにでもいそうな配色。
自分でも“平凡な顔”だと思っていた。だからこそ──
「……なに、言ってるんですか」
ぼそりと返す。けれど、市原は悪びれもせず、続きを口にした。
「だからさ。今回君を見つけたとき、思ったんだよね。──欲しい、って」
市原の声はあくまで軽い。
でも、どこにも冗談のニュアンスはなかった。
助手席の男がちらりとこちらを見て、少しだけ口角を上げた。
その視線が、何より不快だった。
市原はもうスマホに目を戻していた。
助手席の男も、それ以降は何も言わなかった。
車はしばらく走り、大通りを抜け、高級住宅街へと入っていった。
見上げたビルのひとつ。ガラス張りのエントランスがやけに明るい。
その前で、車は止まった。
時間にすれば30分に満たない。けれどその時間は異様に長く感じた。
「着いたよ」
市原がドアを開ける。
自分だけの動作で、外へ出ていく。
智哉も、つられるようにあとに続いた。
ドアの向こうの空気は、さらに静かだった。
オートロックの扉。
エントランスの電子パネルに市原が暗証番号を入れると、即座に解錠音が鳴る。
中に入ると、ホテルのロビーのような空間が広がっていた。
人工大理石の床、シンプルな観葉植物。無音。
エレベーターに乗り込む。
扉が閉まる直前、市原がぽつりと呟いた。
「騒がしいと疲れるんだ」
意味はわからなかった。
でもその声が、やけに耳に残った。
上階へ向かって上がる。
その間、何も話さなかった。
扉が開くと、廊下は深い静寂に包まれていた。
ホテルのように整った照明、均一な光。
フロアには扉がただ一つ。
それの前で、市原が鍵を開ける。
カチャリと音を立てて、玄関のドアが開いた。
「おいで」
声をかけられ、躊躇いながら中に入る。
玄関の向こうに広がるのは、モデルルームのような空間だった。
白と黒を基調にしたインテリア。
何も置かれていないテーブル、整いすぎたキッチン。
装飾品も、写真も、個人の痕跡がどこにもなかった。
なのに、なぜか“住んでいる匂い”だけがわずかに残っていた。
冷蔵庫の稼働音、エアコンの吹き出し音。
生活している音はあるのに、生活感がない。
智哉はリビングの隅に立ち尽くした。
背後で、市原がドアを閉める音がした。
──もう、戻れない。
その確信だけが、静かに胸に沈んでいった。