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第5話 移動

「行こうか、智哉」


その声に、強制力はなかった。

あくまで、優しさの形をしていた。


けれど、智哉はその手を拒むことができなかった。


断ったところで、状況が変わるわけじゃない。

家族は消えた。電話もメッセージアプリも繋がらない。

この家にはもう、自分ひとりしかいない。


──なら、どうする。


そうは思ったものの──

選択肢は、もう最初からなかった。


市原の手に触れず、ただそのあとを黙ってついていく。

玄関の扉を抜け、外の冷たい空気に触れた瞬間、

“もう戻れない”という実感が全身を貫いた。


アスファルトの匂い。玄関前を照らす照明の白さ。

どれも、見慣れたはずなのに、今日はすべてが異物に感じた。


敷地内に停められていた黒塗りのセダンの後部座席。

ドアが無言で開けられ、市原が先に乗り込む。

智哉はほんの一瞬だけためらったあと、乗った。


ドアが静かに閉まる。

車内は異様なほど静かだった。

助手席には、先ほどのスーツの男が座っていた。

運転席の男と簡単な確認を済ませると、車がゆっくりと発進した。


「若頭直々って、珍しいっすね〜」


助手席の男が、不意に笑いながら言った。

軽い調子。けれど、その口調が逆に背筋を凍らせた。


「……え、若……?」


思わず聞き返すと、市原は肩をすくめて笑った。


「気にしなくていいよ。俺はただの債権者」


だけど、さっきの一言が、智哉の中でずっと響いていた。


──若頭。


言葉の意味はわかる。

ドラマやニュースで、何度も聞いたことがある。


でも、“市原さんが”それなのか。


だとしたら、今乗っているこの車は──

今、一緒にいるこの人たちは──


手のひらがじんわりと汗ばんでいた。

冷たい空気の中で、身体だけが妙に熱い。


市原はスマホを操作しながら、何気なく付け足す。


「……君ってさ、ほんと、昔から綺麗な顔してるよね」


唐突に、市原が言った。


「……っ、は?」


声が裏返りそうになるのを必死に抑えて、智哉は目を逸らす。

冗談だと思いたかった。

でも、市原の目はまったく笑っていなかった。


もともと色素が薄い天然の茶髪に、黒目。

派手でもなく、どこにでもいそうな配色。

自分でも“平凡な顔”だと思っていた。だからこそ──


「……なに、言ってるんですか」


ぼそりと返す。けれど、市原は悪びれもせず、続きを口にした。


「だからさ。今回君を見つけたとき、思ったんだよね。──欲しい、って」


市原の声はあくまで軽い。

でも、どこにも冗談のニュアンスはなかった。

助手席の男がちらりとこちらを見て、少しだけ口角を上げた。

その視線が、何より不快だった。


市原はもうスマホに目を戻していた。

助手席の男も、それ以降は何も言わなかった。


車はしばらく走り、大通りを抜け、高級住宅街へと入っていった。

見上げたビルのひとつ。ガラス張りのエントランスがやけに明るい。

その前で、車は止まった。

時間にすれば30分に満たない。けれどその時間は異様に長く感じた。


「着いたよ」


市原がドアを開ける。

自分だけの動作で、外へ出ていく。


智哉も、つられるようにあとに続いた。

ドアの向こうの空気は、さらに静かだった。


オートロックの扉。

エントランスの電子パネルに市原が暗証番号を入れると、即座に解錠音が鳴る。


中に入ると、ホテルのロビーのような空間が広がっていた。

人工大理石の床、シンプルな観葉植物。無音。


エレベーターに乗り込む。

扉が閉まる直前、市原がぽつりと呟いた。


「騒がしいと疲れるんだ」


意味はわからなかった。

でもその声が、やけに耳に残った。


上階へ向かって上がる。

その間、何も話さなかった。


扉が開くと、廊下は深い静寂に包まれていた。

ホテルのように整った照明、均一な光。

フロアには扉がただ一つ。

それの前で、市原が鍵を開ける。

カチャリと音を立てて、玄関のドアが開いた。


「おいで」


声をかけられ、躊躇いながら中に入る。


玄関の向こうに広がるのは、モデルルームのような空間だった。


白と黒を基調にしたインテリア。

何も置かれていないテーブル、整いすぎたキッチン。

装飾品も、写真も、個人の痕跡がどこにもなかった。


なのに、なぜか“住んでいる匂い”だけがわずかに残っていた。


冷蔵庫の稼働音、エアコンの吹き出し音。

生活している音はあるのに、生活感がない。


智哉はリビングの隅に立ち尽くした。


背後で、市原がドアを閉める音がした。


──もう、戻れない。


その確信だけが、静かに胸に沈んでいった。


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