部屋は、静かすぎるほど静かだった。
生活音のないリビング。
整いすぎた空間に、智哉はひとりだけ、ぽつんと座っていた。
市原がキッチンからマグカップを持って戻ってくる。
薄い色の紅茶のようなものが入っていて、湯気がゆるく立っていた。
「嫌だったら飲まなくてもいいよ。落ち着くかと思って」
そう言って、自分のカップを手に持ったまま、市原は向かいのソファに腰を下ろした。
「……ここ、住んでるんですか」
思わず出た言葉に、市原は軽く笑った。
「まあ、そんな感じ」
曖昧な返事だった。
でも今は、それ以上の意味を問う気力もなかった。
マグカップに手を伸ばす。
持ち上げると、予想以上にあたたかかった。
「……智哉」
名前を呼ばれて、視線を上げる。
「ちゃんと話さなきゃいけないことがある」
市原さんは、笑っていなかった。
あのリビングで最初に見せた“懐かしい先輩の顔”は、もうなかった。
「君のご両親、6800万円の借金を残して、逃げた」
一言目が、それだった。
胸の中に落ちるまでに、数秒かかった。
「……ろくせん……は……」
言葉が、音にならなかった。
「6800万。担保にしてた不動産が差し押さえられて、それでも足りなかった分。連帯保証人に名前が残ってたのが、君」
聞いたことのある単語ばかりなのに、意味だけが理解できなかった。
「まって、それ……俺、知らない、そんなの……サインなんて──っ」
「未成年のうちは、親権者の同意で契約できる。君の名前が書かれてる書類、見たよ」
市原はカップをテーブルに置いた。
「借金の原因は、君の父親がやってた会社。事業資金が底をついて、追加の投資で銀行から借り入れ。最初はちゃんと返してた。けど……一年くらい前から、返済が滞ってたみたいだね」
情報を淡々と並べる市原の声が、逆に現実味を帯びていた。
「母親のほうも、パート収入を担保にクレジットローン組んでる。合算して6800万。それが、今“残されたもの”」
“残されたもの”──その言葉に、急に手のひらが冷たくなる。
「……だから、俺が……?」
「うん。君は“負債の継承者”になった。書類上は、ね」
視界が歪んでいく。
思い返しても、何も覚えていない。
サインをした記憶もなければ、そんな話をされたこともない。
でも、市原の口調は揺るがなかった。
「書類は、本物だよ。家の名義も、保険の名義も、全部追跡済み」
「……ちょっと待って……そんな、いきなり、どうすれば……」
「いきなりじゃない。これは、“君の両親が選んだこと”だよ」
一拍置いて、市原は続けた。
「そして、俺が“君の選択肢を作るために”ここにいる」
紅茶の湯気が、わずかに揺れる。
その柔らかさと、言葉の重さの差が怖かった。
「もちろん、強制じゃない。でも……今日、俺が来なければ、明日には別の取り立て屋が来てたと思う。これはさっきも教えたよね?」
智哉の指先が、かすかに震える。
「……なんで、そんなこと……」
「なんで、って?」
市原の声が静かに、微かに、笑いを含む。
「“俺は優しいから”って言ったら、信じる?」
その一言が、凍った空気に溶けた。
でも、どこにも逃げ場はなかった。
「……じゃあ……俺、これから……」
「まあまあ、それは今から話すよ」
市原が立ち上がる。
ソファの背に手をかけ、カップを片付けるように持ち上げる。
「まず、“現実を知ってもらう”のが大事だからね。君がどういう立場かを、ね」
智哉は何も返せなかった。
ただ、胸の奥に重たく沈んだのは、数字と紙と、そして一枚の逃げ場のない事実。
──俺が背負う、ってことなんだ。
それだけは、確かだった。