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第6話 残されたもの

部屋は、静かすぎるほど静かだった。


生活音のないリビング。

整いすぎた空間に、智哉はひとりだけ、ぽつんと座っていた。


市原がキッチンからマグカップを持って戻ってくる。

薄い色の紅茶のようなものが入っていて、湯気がゆるく立っていた。


「嫌だったら飲まなくてもいいよ。落ち着くかと思って」


そう言って、自分のカップを手に持ったまま、市原は向かいのソファに腰を下ろした。


「……ここ、住んでるんですか」


思わず出た言葉に、市原は軽く笑った。


「まあ、そんな感じ」


曖昧な返事だった。

でも今は、それ以上の意味を問う気力もなかった。

マグカップに手を伸ばす。

持ち上げると、予想以上にあたたかかった。


「……智哉」


名前を呼ばれて、視線を上げる。


「ちゃんと話さなきゃいけないことがある」


市原さんは、笑っていなかった。

あのリビングで最初に見せた“懐かしい先輩の顔”は、もうなかった。


「君のご両親、6800万円の借金を残して、逃げた」


一言目が、それだった。

胸の中に落ちるまでに、数秒かかった。


「……ろくせん……は……」


言葉が、音にならなかった。


「6800万。担保にしてた不動産が差し押さえられて、それでも足りなかった分。連帯保証人に名前が残ってたのが、君」


聞いたことのある単語ばかりなのに、意味だけが理解できなかった。


「まって、それ……俺、知らない、そんなの……サインなんて──っ」

「未成年のうちは、親権者の同意で契約できる。君の名前が書かれてる書類、見たよ」


市原はカップをテーブルに置いた。


「借金の原因は、君の父親がやってた会社。事業資金が底をついて、追加の投資で銀行から借り入れ。最初はちゃんと返してた。けど……一年くらい前から、返済が滞ってたみたいだね」


情報を淡々と並べる市原の声が、逆に現実味を帯びていた。


「母親のほうも、パート収入を担保にクレジットローン組んでる。合算して6800万。それが、今“残されたもの”」


“残されたもの”──その言葉に、急に手のひらが冷たくなる。


「……だから、俺が……?」

「うん。君は“負債の継承者”になった。書類上は、ね」


視界が歪んでいく。


思い返しても、何も覚えていない。

サインをした記憶もなければ、そんな話をされたこともない。


でも、市原の口調は揺るがなかった。


「書類は、本物だよ。家の名義も、保険の名義も、全部追跡済み」

「……ちょっと待って……そんな、いきなり、どうすれば……」

「いきなりじゃない。これは、“君の両親が選んだこと”だよ」


一拍置いて、市原は続けた。


「そして、俺が“君の選択肢を作るために”ここにいる」


紅茶の湯気が、わずかに揺れる。

その柔らかさと、言葉の重さの差が怖かった。


「もちろん、強制じゃない。でも……今日、俺が来なければ、明日には別の取り立て屋が来てたと思う。これはさっきも教えたよね?」


智哉の指先が、かすかに震える。


「……なんで、そんなこと……」

「なんで、って?」


市原の声が静かに、微かに、笑いを含む。


「“俺は優しいから”って言ったら、信じる?」


その一言が、凍った空気に溶けた。

でも、どこにも逃げ場はなかった。


「……じゃあ……俺、これから……」

「まあまあ、それは今から話すよ」


市原が立ち上がる。

ソファの背に手をかけ、カップを片付けるように持ち上げる。


「まず、“現実を知ってもらう”のが大事だからね。君がどういう立場かを、ね」


智哉は何も返せなかった。

ただ、胸の奥に重たく沈んだのは、数字と紙と、そして一枚の逃げ場のない事実。


──俺が背負う、ってことなんだ。


それだけは、確かだった。


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