部屋の空気が変わったのは、テーブルの上に一冊のファイルが置かれたときだった。
市原はソファに座ったまま、書類の束を整え、無言のまま智哉の前にそれを滑らせた。
その音だけが、部屋の静寂を裂くように響いた。
「さっきの話の続き。これが、君の今後の生活に関わる契約書だよ」
柔らかい声だった。けれど、智哉には重く聞こえた。
紙の束はずしりと存在感を放ち、その厚みに喉が鳴る。
「……契約……」
声に出してみても、意味は遠かった。
「君がここで生活する条件。そして、借金の返済方法について」
市原は一枚ずつ書類を開きながら、淡々と説明を続ける。
生活費、居住費、衣食住、医療、雑費──すべて市原の全額負担。
代わりに、智哉はこの部屋で生活し、市原の“仕事”を手伝う。
掃除、洗濯、資料の整理、連絡管理、運転、同行。
まるで、家庭内の雑務と秘書業務を掛け合わせたような条件だった。
「これ……働くってことですか」
「うん。労働の対価として生活を提供する。すごくシンプルでしょ?」
市原は笑った。けれど、その笑みの中に温度はなかった。
「あと、君は学生だから。一応“勉学の時間”も配慮してる。だけど──」
そこまで言いかけて、市原は一枚の紙を抜き出す。
「──来年度、学費の引き落とし口座はすでに無効化されてる」
「……え」
「つまり、大学に通い続けるには、別の資金源が必要ってこと」
市原は書類を指で叩いた。
「これは、1年間で必要な返済総額の試算。6800万の元本に、利息や違約金を合わせて──7500万弱」
言葉のすべてが、現実だった。
でもその現実は、智哉の理解より先に胸を圧迫してくる。
「……無理、です。そんなの……どうやっても……」
「だから、こうして君に“選ばせてる”んだよ」
市原の声には、優しさに似た何かが混じっていた。
けれど、それは決して救いじゃない。
「掃除も、洗濯も、料理も。最初は教えるよ。時間をかけて慣れればいい。君は、頑張り屋だったから」
「……それだけ、なんですか?」
喉が渇いたまま、絞り出した言葉。
だがその問いは、予想どおりの形で裏切られる。
「うん。あと一つだけ」
市原はゆっくりと立ち上がった。
ソファを回り込んで智哉の前に立つ。
その影が、智哉の膝にまで伸びる。
「“こういうこと”も、含まれてるから」
言い終えると同時に、ふいに顔を寄せてきた。
唇が触れた。
それだけ。
けれど、智哉の心臓は暴力的に跳ねた。
「っ……やめて……っ」
ようやく肩を引いたとき、市原の声が耳元に触れた。
「なに、初めてだった?」
その問いは、からかうようでいて、どこか確信的だった。
「……おかしい、です……そんなの、契約じゃない……」
「じゃあどうやって返すの?」
市原の声が変わった。
あの穏やかさの奥にあった冷たさが、今はむき出しになっていた。
「バイト?学生ローン?それとも──身体売る?」
智哉は息を呑んだ。
「お前の顔なら、すぐ客がつくよ。大学やめて、風俗で稼ぐ? 君が拒否するなら、選択肢はそれしかない」
「……いや……」
「知らない男に抱かれて稼ぐか、俺の“管理下”で生活するか。選べるのは君だよ」
市原は笑っていた。だが、目はやはり笑っていなかった。
智哉の体が強張る。
「……そんな、……選択肢……」
「じゃあ、これ」
再びファイルが智哉の前に置かれる。
最終ページの欄外には、自分の名前と、署名欄。
そしてその下に、小さく「代替履行型債務整理契約」と記されていた。
「君は、もう守られていい立場にいるんだよ」
市原の言葉は、まるで“救い”のように聞こえた。
けれど、それが本当に救いなのか──
今の智哉には、もうわからなかった。
目の前の契約書に、そっと指先が触れた。