契約書に指をかけたまま、智哉はじっと動けずにいた。
目の前には署名欄。
印刷された自分の名前の下に、空欄の枠がひとつだけ、ぽつんと口を開けている。
そのわずかなスペースに、すべてがかかっているのだと思うと、手が動かなかった。
「書かなくていいよ。無理にとは言わない」
市原の声は、静かだった。
それなのに──心の奥を揺さぶる。
「……帰ります」
ほとんど、掠れた声だった。
智哉は立ち上がり、ふらつく足で部屋の出入口に向かおうとする。
そこに、逃げ道がある気がした。
けれど──
「帰るなら、あっちだよ」
市原が指差したのは、玄関ではなかった。
部屋の奥にある、もうひとつの扉。
見たことのない、そのドア。
智哉が戸惑うように視線を戻すと、市原はふっと笑った。
「外に出たければ、もちろん止めない。でも……そのあとのことは、俺には関係ないよ」
ソファから腰を上げ、ゆっくりと近づいてくる。
「出ていくってことは、借金の全額を“自分で”なんとかするってこと」
一歩ずつ迫るその足音が、やけに大きく響いた。
「その場合は、債権の管理が別の会社に移る。あとは、普通の取り立て。俺はもう関われない」
「……普通の、取り立て……?」
「うん。電話、張り込み、訪問。大学にも行けなくなるだろうね」
肩をすくめる仕草は、あくまで軽い。
「バイトもできない。奨学金も、審査が通らない。家も契約できない。携帯も止められる」
言葉の端々に、現実の鋭さが混ざる。
「社会的信用ってやつが、ゼロになるって話」
智哉は足を止めた。
視線が、市原の胸元に落ちる。
なにひとつ、反論できない。
事実だ。そう言われれば、そうとしか思えなかった。
「──でも、君がここに残れば、全部整えてあげられる」
市原は静かに言った。
「部屋も、生活も、勉強の時間も。君に必要なもの、全部。俺が用意する」
「……」
「だから選んでいい。名前を書いてもいい、逃げてもいい──君の自由だよ」
優しい声だった。
けれど、それは逆に、逃げ道を潰していく音に聞こえた。
テーブルの上の契約書に、視線が戻る。
あの名前の下に、何かを書き込んでしまえば、もう戻れない。
でも──
「……これに、サインしたら……何が始まるんですか」
絞り出すように、問いかけた。
「説明するよ。全部。……でも、サインしてからね」
市原は、変わらずに笑っていた。
けれどその瞳の奥には、焦らず、確信を持った光が宿っていた。
智哉の手が、ゆっくりとペンを取る。
契約書に触れた瞬間、インクの重さが手に伝わった気がした。
──選べない。
──でも、選ばされた。
震える手で、ひと文字、またひと文字と、名前を書いていく。
終わった。
書き終えた瞬間、市原の指がその手を包んだ。
そのまま、指先を引き寄せられる。
そして──
「ようこそ」
そう囁いた声と共に、智哉の“サインを終えた手の甲”に、静かに口づけが落とされた。
「智哉だけの檻へ」
指先に落ちた温もりが、じん、と胸の奥に広がった。
それはまるで、指輪をはめる代わりの儀式みたいだった。
甘くて、恐ろしい──
優しさの形をした檻が、音もなく閉まった。