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第8話 行き場のない出口

契約書に指をかけたまま、智哉はじっと動けずにいた。


目の前には署名欄。

印刷された自分の名前の下に、空欄の枠がひとつだけ、ぽつんと口を開けている。


そのわずかなスペースに、すべてがかかっているのだと思うと、手が動かなかった。


「書かなくていいよ。無理にとは言わない」


市原の声は、静かだった。

それなのに──心の奥を揺さぶる。


「……帰ります」


ほとんど、掠れた声だった。


智哉は立ち上がり、ふらつく足で部屋の出入口に向かおうとする。

そこに、逃げ道がある気がした。


けれど──


「帰るなら、あっちだよ」


市原が指差したのは、玄関ではなかった。


部屋の奥にある、もうひとつの扉。

見たことのない、そのドア。


智哉が戸惑うように視線を戻すと、市原はふっと笑った。


「外に出たければ、もちろん止めない。でも……そのあとのことは、俺には関係ないよ」


ソファから腰を上げ、ゆっくりと近づいてくる。


「出ていくってことは、借金の全額を“自分で”なんとかするってこと」


一歩ずつ迫るその足音が、やけに大きく響いた。


「その場合は、債権の管理が別の会社に移る。あとは、普通の取り立て。俺はもう関われない」

「……普通の、取り立て……?」

「うん。電話、張り込み、訪問。大学にも行けなくなるだろうね」


肩をすくめる仕草は、あくまで軽い。


「バイトもできない。奨学金も、審査が通らない。家も契約できない。携帯も止められる」


言葉の端々に、現実の鋭さが混ざる。


「社会的信用ってやつが、ゼロになるって話」


智哉は足を止めた。

視線が、市原の胸元に落ちる。


なにひとつ、反論できない。

事実だ。そう言われれば、そうとしか思えなかった。


「──でも、君がここに残れば、全部整えてあげられる」


市原は静かに言った。


「部屋も、生活も、勉強の時間も。君に必要なもの、全部。俺が用意する」

「……」

「だから選んでいい。名前を書いてもいい、逃げてもいい──君の自由だよ」


優しい声だった。


けれど、それは逆に、逃げ道を潰していく音に聞こえた。

テーブルの上の契約書に、視線が戻る。

あの名前の下に、何かを書き込んでしまえば、もう戻れない。


でも──


「……これに、サインしたら……何が始まるんですか」


絞り出すように、問いかけた。


「説明するよ。全部。……でも、サインしてからね」


市原は、変わらずに笑っていた。

けれどその瞳の奥には、焦らず、確信を持った光が宿っていた。


智哉の手が、ゆっくりとペンを取る。


契約書に触れた瞬間、インクの重さが手に伝わった気がした。


──選べない。

──でも、選ばされた。


震える手で、ひと文字、またひと文字と、名前を書いていく。


終わった。


書き終えた瞬間、市原の指がその手を包んだ。

そのまま、指先を引き寄せられる。


そして──


「ようこそ」


そう囁いた声と共に、智哉の“サインを終えた手の甲”に、静かに口づけが落とされた。


「智哉だけの檻へ」


指先に落ちた温もりが、じん、と胸の奥に広がった。

それはまるで、指輪をはめる代わりの儀式みたいだった。


甘くて、恐ろしい──

優しさの形をした檻が、音もなく閉まった。


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