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第9話 最初の朝

目が覚めた瞬間、天井が見知らぬ白だった。


しん、とした空間に、時計の秒針だけが規則正しく響いている。

空調の音さえも薄く、ベッドのシーツが肌に吸い付くような柔らかさを持っていた。


昨日のことが、夢だったのかもしれない。

智哉は一瞬、そんな都合のいい錯覚に身を委ねそうになった。


けれど、右手の甲に残る感触が、すべてを現実に引き戻す。


──ようこそ。智哉だけの檻へ。


あの言葉と、唇が触れた温度が、じん、と思い出された。

鳥肌が立つ。布団の中で、指先が小さく震えた。


ゆっくりと起き上がる。

部屋は、まるでモデルルームのように整っていた。


白とグレーを基調にした壁紙と、無駄のない家具。

テレビもなく、デスクには一切の文房具もない。

置かれているのは、小さな時計とミネラルウォーターのボトル一本。


──生活するための部屋。

けれど、生活感はどこにもない。


唯一の収納であるクローゼットを開けると、きっちりと並んだ衣類が目に入った。

新品のシャツ、下着、スラックス、ルームウェア。

それぞれがサイズぴったりに用意されていて、タグまで外されている。


(……昨日の夜、誰かが……)


市原以外に、この空間に手を入れられる人間はいない。

そう思った瞬間、背中が薄く冷えた。


シャワーを浴びて、無言で着替える。

鏡に映った自分の姿は、昨日までの“大学生・相原智哉”ではなかった。


誰が用意したかも分からない服を着て、誰の意図で整えられた部屋に立っている──

それだけで、自分の意思が削られていくような感覚だった。


ふわりと、香ばしい匂いが廊下から流れてくる。

トーストか、スクランブルエッグか。

とにかく“朝食の匂い”だった。


智哉は無意識のうちに、足を向けていた。


リビングに入ると、市原がキッチンのカウンターに背を向けたまま、皿をテーブルへ並べている最中だった。


「おはよう、智哉」


振り向いたその顔は、昨日の夜と変わらず、穏やかで、微笑んでいた。

まるで、ずっと昔から一緒に朝を迎えているかのように。


「……おはようございます」


喉の奥が乾いていた。けれど、それ以外の挨拶の仕方が思いつかなかった。


「よく眠れた? 寝具、合ってた?」


智哉は首を縦に振った。

事実、眠れたかどうかも曖昧だ。


テーブルの上には、バランスの整った朝食が並んでいた。

トースト、目玉焼き、ベーコン、サラダ、ヨーグルト。

グラスには常温の水と、淡い色のサプリメントが一粒だけ置かれていた。


(……全部、用意されてる)


完璧な、朝だった。

だけど、どこか“完成されすぎて”いて、息苦しかった。


「言いたいこと、あるなら言って」


市原が椅子を引きながら言う。

その声にとげはない。けれど、逃げ場もない。


「……この部屋、誰が……」

「君のために整えた。全部」


さらっと言って、フォークを手に取る。


「服も、家具も、スケジュールも、生活費も。俺が見てる。君のこと、全部」

「……」

「一人で頑張る必要はないって、昨日言ったよね。君は、俺の保護下にいる」


“保護”──それは、檻の中の言葉だった。


食事を口に運ぶ。

味は悪くない。けれど、何を食べても無味だった。


市原は、今日の予定を簡潔に伝える。


「午前中は、こっちの事務作業を手伝ってもらう。簡単なデータ入力。午後は、君の生活環境を整える。まだ何も入れてないからね」


ああ、もう“スケジュール”がある。

自分はここに、“いることになっている”。


「……これ、何の薬ですか?」


水の隣に置かれた、丸いサプリのようなカプセルを指して言う。


「ビタミン系。睡眠サイクル安定させるやつ」

「……飲まなきゃ、ダメですか」

「ダメじゃないけど、飲んだ方が楽だよ」


どこか、軽やかに言われたその言葉が、一番重たかった。

智哉は黙って、水と一緒にそれを飲み込んだ。

喉を通る瞬間、自分の身体が“管理下”に置かれていくような錯覚に襲われる。


たった一粒のカプセル。

それだけなのに、自分の自由がひとつ奪われた気がした。


食器の音だけが、テーブルに響く。

言葉のない空間に、冷たい静けさが満ちていく。


そして──智哉はようやく理解した。


「生活が始まった」というより、

「監視の中で呼吸を許された」──それだけだと。


この場所で与えられるものは、選択じゃない。

服も、食事も、薬も、すべて“用意されたものを、従うだけ”。


市原は食器を片づけながら言った。


「午後から、一緒に出かけよう。必要なもの、買いに行く」

「……はい」


返事は、小さくしか出なかった。


今日の空の色も、季節の匂いも、

どこにも、自分の自由の証明にはならなかった。


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