目が覚めた瞬間、天井が見知らぬ白だった。
しん、とした空間に、時計の秒針だけが規則正しく響いている。
空調の音さえも薄く、ベッドのシーツが肌に吸い付くような柔らかさを持っていた。
昨日のことが、夢だったのかもしれない。
智哉は一瞬、そんな都合のいい錯覚に身を委ねそうになった。
けれど、右手の甲に残る感触が、すべてを現実に引き戻す。
──ようこそ。智哉だけの檻へ。
あの言葉と、唇が触れた温度が、じん、と思い出された。
鳥肌が立つ。布団の中で、指先が小さく震えた。
ゆっくりと起き上がる。
部屋は、まるでモデルルームのように整っていた。
白とグレーを基調にした壁紙と、無駄のない家具。
テレビもなく、デスクには一切の文房具もない。
置かれているのは、小さな時計とミネラルウォーターのボトル一本。
──生活するための部屋。
けれど、生活感はどこにもない。
唯一の収納であるクローゼットを開けると、きっちりと並んだ衣類が目に入った。
新品のシャツ、下着、スラックス、ルームウェア。
それぞれがサイズぴったりに用意されていて、タグまで外されている。
(……昨日の夜、誰かが……)
市原以外に、この空間に手を入れられる人間はいない。
そう思った瞬間、背中が薄く冷えた。
シャワーを浴びて、無言で着替える。
鏡に映った自分の姿は、昨日までの“大学生・相原智哉”ではなかった。
誰が用意したかも分からない服を着て、誰の意図で整えられた部屋に立っている──
それだけで、自分の意思が削られていくような感覚だった。
ふわりと、香ばしい匂いが廊下から流れてくる。
トーストか、スクランブルエッグか。
とにかく“朝食の匂い”だった。
智哉は無意識のうちに、足を向けていた。
リビングに入ると、市原がキッチンのカウンターに背を向けたまま、皿をテーブルへ並べている最中だった。
「おはよう、智哉」
振り向いたその顔は、昨日の夜と変わらず、穏やかで、微笑んでいた。
まるで、ずっと昔から一緒に朝を迎えているかのように。
「……おはようございます」
喉の奥が乾いていた。けれど、それ以外の挨拶の仕方が思いつかなかった。
「よく眠れた? 寝具、合ってた?」
智哉は首を縦に振った。
事実、眠れたかどうかも曖昧だ。
テーブルの上には、バランスの整った朝食が並んでいた。
トースト、目玉焼き、ベーコン、サラダ、ヨーグルト。
グラスには常温の水と、淡い色のサプリメントが一粒だけ置かれていた。
(……全部、用意されてる)
完璧な、朝だった。
だけど、どこか“完成されすぎて”いて、息苦しかった。
「言いたいこと、あるなら言って」
市原が椅子を引きながら言う。
その声にとげはない。けれど、逃げ場もない。
「……この部屋、誰が……」
「君のために整えた。全部」
さらっと言って、フォークを手に取る。
「服も、家具も、スケジュールも、生活費も。俺が見てる。君のこと、全部」
「……」
「一人で頑張る必要はないって、昨日言ったよね。君は、俺の保護下にいる」
“保護”──それは、檻の中の言葉だった。
食事を口に運ぶ。
味は悪くない。けれど、何を食べても無味だった。
市原は、今日の予定を簡潔に伝える。
「午前中は、こっちの事務作業を手伝ってもらう。簡単なデータ入力。午後は、君の生活環境を整える。まだ何も入れてないからね」
ああ、もう“スケジュール”がある。
自分はここに、“いることになっている”。
「……これ、何の薬ですか?」
水の隣に置かれた、丸いサプリのようなカプセルを指して言う。
「ビタミン系。睡眠サイクル安定させるやつ」
「……飲まなきゃ、ダメですか」
「ダメじゃないけど、飲んだ方が楽だよ」
どこか、軽やかに言われたその言葉が、一番重たかった。
智哉は黙って、水と一緒にそれを飲み込んだ。
喉を通る瞬間、自分の身体が“管理下”に置かれていくような錯覚に襲われる。
たった一粒のカプセル。
それだけなのに、自分の自由がひとつ奪われた気がした。
食器の音だけが、テーブルに響く。
言葉のない空間に、冷たい静けさが満ちていく。
そして──智哉はようやく理解した。
「生活が始まった」というより、
「監視の中で呼吸を許された」──それだけだと。
この場所で与えられるものは、選択じゃない。
服も、食事も、薬も、すべて“用意されたものを、従うだけ”。
市原は食器を片づけながら言った。
「午後から、一緒に出かけよう。必要なもの、買いに行く」
「……はい」
返事は、小さくしか出なかった。
今日の空の色も、季節の匂いも、
どこにも、自分の自由の証明にはならなかった。