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第10話 最初の外出

マンションのエントランスを抜けた瞬間、外の空気がやけに冷たく感じた。

季節は春のはずだった。

それでも、息を吸うたびに肺の奥が凍りつくようだった。


「寒い? 気温、下がってきたからね」


隣で市原が言う。声のトーンは穏やかだった。

けれど、その言葉の向こうにある本当の意図は読み取れなかった。


敷地内に停められていた黒塗りの車──

後部座席のドアが開けられる。智哉は一瞬だけ足を止め、それから乗り込んだ。市原も続く。


車内は静かで、妙に締め切られた空気が重かった。

助手席には昨日も見たスーツの男が座っている。

運転手と短く言葉を交わすと、車はすぐに発進した。


「今日は買い物だよ。君が生活していく上で必要なものを揃える」


智哉は頷いた。問い返す余地があるとは思っていなかった。

窓の外を流れていく景色は、知っている町のはずなのに、まるで別世界のようだった。

数時間前までいた家が、何年も前に失われたような感覚がする。



着いたのは、郊外の大型ショッピングモールだった。

休日の昼下がりで人はまばらだ。

市原の歩幅に合わせて、智哉は無言でついていく。


案内されたのは、日用品と衣料品が並ぶフロア。

カゴを手にした市原が、商品を淡々と入れていく。

下着、靴下、洗面道具、ノート、シャンプー、消耗品。


「必要なもの、ある?」


市原はそう言ってこちらを振り返ったが、カゴにはもう一通り揃っていた。


「こっちは? 白の方が君には似合うと思うけど」


差し出されたのは下着だった。

智哉は何も言えずに視線を落とす。

市原はそれを見て取ったのか、静かにカゴに入れる。


──俺は、何一つ選んでいない。全部この人が……。


買い物は数十分ほどで終わった。

精算の列に並ぶ市原の背を見つめながら、智哉は数歩後ろに立っていた。


そのときだった。


目が自然と、モールの出入口に向いた。


自動ドアが開き、人々が行き交う。

まぶしい光が射し込み、足元から風が流れ込んできた。


──今なら、まだ間に合うかもしれない。


一歩、踏み出せば、外へ出られる。

走れば逃げ切れるかもしれない。

誰にも捕まらずに──


けれど、足は動かなかった。


靴の裏が、床に縫い付けられているみたいに重かった。

思考より先に、身体が拒絶していた。


ほんの数メートル先の自由に、手を伸ばすことすらできない。


その瞬間、市原が振り返った。


視線がぶつかっただけで、智哉はその場に固まった。

何も言われなかったのに、それだけで十分だった。


逃げるという選択肢は、跡形もなく消えていた。



次に向かったのは、街中にある落ち着いたカフェだった。

市原が入店の手続きを済ませ、角の二人席に案内される。

注文が済むと、市原はスマホで何かを確認しながら、ふと口を開いた。


「来週から、仕事を始める。最初は付き添いと雑務から。無理のない範囲で」

「……わかりました」


小さく返事をすると、市原は視線を逸らす。


「昔から、君のこと覚えてたよ」


突然そう言われて、智哉は目を上げた。


「小学生の頃。縦割りグループで、君はよく俺にくっついてきた」

「……覚えて、ます」

「可愛かった。今も、だけど」


言われた言葉よりも、言われ方が怖かった。

そこに熱はなかった。ただ、静かで確信に満ちた所有欲だけがあった。



帰りの車内。買い物袋が足元に置かれたまま、智哉は窓の外を見ていた。

ぼんやりと、もう一度あの出口の光を思い出す。


ほんの数時間前、自分は“逃げなかった”。

その事実が、今さらになって心を重くした。


不意に、となりに座る市原が手を伸ばす。

首の後ろをすっと撫で──そして、ぐいと引き寄せた。


「──っ!」


驚く間もなく、唇が重なる。

一瞬。けれど、拒絶する隙もなかった。


浅くはない、はっきりとしたキス。


喉の奥に熱が落ちて、息が止まりそうになる。

離れたあと、市原が静かに囁いた。


「逃げられないよ。もう」


声は落ち着いていた。

支配の音色だけが、車内に残った。


智哉は、目を閉じたまま何も返さなかった。


どこにも逃げ場はない。

もう、とっくに智哉は知っていた。


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