マンションのエントランスを抜けた瞬間、外の空気がやけに冷たく感じた。
季節は春のはずだった。
それでも、息を吸うたびに肺の奥が凍りつくようだった。
「寒い? 気温、下がってきたからね」
隣で市原が言う。声のトーンは穏やかだった。
けれど、その言葉の向こうにある本当の意図は読み取れなかった。
敷地内に停められていた黒塗りの車──
後部座席のドアが開けられる。智哉は一瞬だけ足を止め、それから乗り込んだ。市原も続く。
車内は静かで、妙に締め切られた空気が重かった。
助手席には昨日も見たスーツの男が座っている。
運転手と短く言葉を交わすと、車はすぐに発進した。
「今日は買い物だよ。君が生活していく上で必要なものを揃える」
智哉は頷いた。問い返す余地があるとは思っていなかった。
窓の外を流れていく景色は、知っている町のはずなのに、まるで別世界のようだった。
数時間前までいた家が、何年も前に失われたような感覚がする。
着いたのは、郊外の大型ショッピングモールだった。
休日の昼下がりで人はまばらだ。
市原の歩幅に合わせて、智哉は無言でついていく。
案内されたのは、日用品と衣料品が並ぶフロア。
カゴを手にした市原が、商品を淡々と入れていく。
下着、靴下、洗面道具、ノート、シャンプー、消耗品。
「必要なもの、ある?」
市原はそう言ってこちらを振り返ったが、カゴにはもう一通り揃っていた。
「こっちは? 白の方が君には似合うと思うけど」
差し出されたのは下着だった。
智哉は何も言えずに視線を落とす。
市原はそれを見て取ったのか、静かにカゴに入れる。
──俺は、何一つ選んでいない。全部この人が……。
買い物は数十分ほどで終わった。
精算の列に並ぶ市原の背を見つめながら、智哉は数歩後ろに立っていた。
そのときだった。
目が自然と、モールの出入口に向いた。
自動ドアが開き、人々が行き交う。
まぶしい光が射し込み、足元から風が流れ込んできた。
──今なら、まだ間に合うかもしれない。
一歩、踏み出せば、外へ出られる。
走れば逃げ切れるかもしれない。
誰にも捕まらずに──
けれど、足は動かなかった。
靴の裏が、床に縫い付けられているみたいに重かった。
思考より先に、身体が拒絶していた。
ほんの数メートル先の自由に、手を伸ばすことすらできない。
その瞬間、市原が振り返った。
視線がぶつかっただけで、智哉はその場に固まった。
何も言われなかったのに、それだけで十分だった。
逃げるという選択肢は、跡形もなく消えていた。
次に向かったのは、街中にある落ち着いたカフェだった。
市原が入店の手続きを済ませ、角の二人席に案内される。
注文が済むと、市原はスマホで何かを確認しながら、ふと口を開いた。
「来週から、仕事を始める。最初は付き添いと雑務から。無理のない範囲で」
「……わかりました」
小さく返事をすると、市原は視線を逸らす。
「昔から、君のこと覚えてたよ」
突然そう言われて、智哉は目を上げた。
「小学生の頃。縦割りグループで、君はよく俺にくっついてきた」
「……覚えて、ます」
「可愛かった。今も、だけど」
言われた言葉よりも、言われ方が怖かった。
そこに熱はなかった。ただ、静かで確信に満ちた所有欲だけがあった。
帰りの車内。買い物袋が足元に置かれたまま、智哉は窓の外を見ていた。
ぼんやりと、もう一度あの出口の光を思い出す。
ほんの数時間前、自分は“逃げなかった”。
その事実が、今さらになって心を重くした。
不意に、となりに座る市原が手を伸ばす。
首の後ろをすっと撫で──そして、ぐいと引き寄せた。
「──っ!」
驚く間もなく、唇が重なる。
一瞬。けれど、拒絶する隙もなかった。
浅くはない、はっきりとしたキス。
喉の奥に熱が落ちて、息が止まりそうになる。
離れたあと、市原が静かに囁いた。
「逃げられないよ。もう」
声は落ち着いていた。
支配の音色だけが、車内に残った。
智哉は、目を閉じたまま何も返さなかった。
どこにも逃げ場はない。
もう、とっくに智哉は知っていた。