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第11話 最初の仕事

朝の光が、カーテンの隙間から斜めに差し込んでいた。


智哉は目を開けたまま、天井をじっと見つめていた。

この部屋の朝は、静かすぎる。

目覚ましも、生活音も、他人の気配もない。

ただ、規則的に回るエアコンの音だけが、時間の経過を知らせていた。


シーツは肌触りが良すぎて、逆に現実感がなかった。

ふかふかの枕。整いすぎた部屋。何もかもが、整いすぎている。


起き上がると、すでにクローゼットのドアが開け放たれていて、今日着る服がセットされていた。


シャツに、落ち着いた色のパンツ。

下着まで揃えて並べられている。


(……全部、用意されてる)


そのことに慣れてきている自分が、少し怖かった。


リビングに行くと、市原がダイニングのテーブルに食事を並べていた。


料理の手際は無駄がなく、静かだった。

トーストにサラダ、スクランブルエッグとコーヒー。

数日前とまったく同じ光景なのに、どこか“均一すぎる”。


市原が朝食を用意することにも、もう驚かなくなっていた。

けれど、その“生活らしさ”が演出されたものに思えて、智哉は時々、息が詰まるような感覚に襲われる。


「おはよう。よく眠れた?」


「……まあ、はい」


曖昧に返すと、市原は柔らかく笑った。

その笑顔は、いつもどおり優しかった。


「今日から仕事、って伝えたよね?」

「……はい」


返事をしながら、トーストをちぎって口に運ぶ。

味は普通に美味しかった。サラダも丁寧にドレッシングがかかっている。

けれど、どこか味気なく感じるのは、自分のせいなのかもしれない。


会話はほとんどなかった。


静かな食卓。

その沈黙さえも、予定されたもののように思えた。


朝食を終えると、すでに靴が用意されていた。

磨き上げられたローファーと、ブランド名もわからない高そうなジャケット。

一歩ずつ、自分で選ぶという行為が減っていく。

それは、楽だけど、少しずつ“自分”を剥がされていくようだった。


エレベーターの中で、市原がふと言った。


「焦らなくていいよ。全部、段階を踏んでいけばいい」

「……俺、何をするんですか」

「簡単な書類整理とか、手伝いとか。それくらいからでいい」


優しい声。

けれど、どこかで“試されている”ような緊張感が、常にあった。


車に乗り込み、都内の高級ビル街を抜ける。


やがて、静かな路地に入った先。

一見するとオフィスとは思えない白い建物の前で車が止まった。


ガラス張りの扉を抜けると、静まり返ったロビー。

人の気配は少ないが、整いすぎた空間に冷たさが漂っていた。


市原は、迷いなく歩きながら言った。


「今日は軽い仕事だけ。緊張しなくていいよ」


案内された部屋は、応接室のような作りだった。

大きなガラス窓と、革張りのソファ、奥には小さな作業机がある。

資料の入ったボックスが並び、その中に整理前の書類が積まれていた。


「ここ。あいうえお順に並べてくれればいい。分からなかったら、適当にまとめといて」

「……はい」


言われた通りに、智哉は席につく。

白い紙の束に手をかけ、無心で目を通し始めた。


名前、住所、会社名──事務的なデータが並ぶ。

ただの名簿か、取引先の一覧か。意味はよく分からない。


ふと、手が止まる。


一枚の紙に、見覚えのある名字があった。


(……相原工業)


父の名前ではなかった。けれど、確かに家で見たことのある印刷ロゴだった。

古びたクリップで留められたその束は、他のどれよりも厚く、使用感があった。


「気になる?」


後ろから声がした。


びくりと肩が揺れる。

市原が、いつの間にか真後ろに立っていた。


「そっちは、昔のデータ。あんまり関係ないから、後回しでいいよ」


何も言えなかった。

手の中の紙が、妙に重たく感じる。


「気にしなくていい。むしろ、忘れていい」


市原は優しく笑った。

でも、その声の奥には、拒否の余地がなかった。


智哉は紙をそっと束に戻し、次の資料に手を伸ばした。


──この部屋は、過去に繋がってる。


それだけが、ずっと胸の奥でくすぶり続けていた。


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