朝の光が、カーテンの隙間から斜めに差し込んでいた。
智哉は目を開けたまま、天井をじっと見つめていた。
この部屋の朝は、静かすぎる。
目覚ましも、生活音も、他人の気配もない。
ただ、規則的に回るエアコンの音だけが、時間の経過を知らせていた。
シーツは肌触りが良すぎて、逆に現実感がなかった。
ふかふかの枕。整いすぎた部屋。何もかもが、整いすぎている。
起き上がると、すでにクローゼットのドアが開け放たれていて、今日着る服がセットされていた。
シャツに、落ち着いた色のパンツ。
下着まで揃えて並べられている。
(……全部、用意されてる)
そのことに慣れてきている自分が、少し怖かった。
リビングに行くと、市原がダイニングのテーブルに食事を並べていた。
料理の手際は無駄がなく、静かだった。
トーストにサラダ、スクランブルエッグとコーヒー。
数日前とまったく同じ光景なのに、どこか“均一すぎる”。
市原が朝食を用意することにも、もう驚かなくなっていた。
けれど、その“生活らしさ”が演出されたものに思えて、智哉は時々、息が詰まるような感覚に襲われる。
「おはよう。よく眠れた?」
「……まあ、はい」
曖昧に返すと、市原は柔らかく笑った。
その笑顔は、いつもどおり優しかった。
「今日から仕事、って伝えたよね?」
「……はい」
返事をしながら、トーストをちぎって口に運ぶ。
味は普通に美味しかった。サラダも丁寧にドレッシングがかかっている。
けれど、どこか味気なく感じるのは、自分のせいなのかもしれない。
会話はほとんどなかった。
静かな食卓。
その沈黙さえも、予定されたもののように思えた。
朝食を終えると、すでに靴が用意されていた。
磨き上げられたローファーと、ブランド名もわからない高そうなジャケット。
一歩ずつ、自分で選ぶという行為が減っていく。
それは、楽だけど、少しずつ“自分”を剥がされていくようだった。
エレベーターの中で、市原がふと言った。
「焦らなくていいよ。全部、段階を踏んでいけばいい」
「……俺、何をするんですか」
「簡単な書類整理とか、手伝いとか。それくらいからでいい」
優しい声。
けれど、どこかで“試されている”ような緊張感が、常にあった。
車に乗り込み、都内の高級ビル街を抜ける。
やがて、静かな路地に入った先。
一見するとオフィスとは思えない白い建物の前で車が止まった。
ガラス張りの扉を抜けると、静まり返ったロビー。
人の気配は少ないが、整いすぎた空間に冷たさが漂っていた。
市原は、迷いなく歩きながら言った。
「今日は軽い仕事だけ。緊張しなくていいよ」
案内された部屋は、応接室のような作りだった。
大きなガラス窓と、革張りのソファ、奥には小さな作業机がある。
資料の入ったボックスが並び、その中に整理前の書類が積まれていた。
「ここ。あいうえお順に並べてくれればいい。分からなかったら、適当にまとめといて」
「……はい」
言われた通りに、智哉は席につく。
白い紙の束に手をかけ、無心で目を通し始めた。
名前、住所、会社名──事務的なデータが並ぶ。
ただの名簿か、取引先の一覧か。意味はよく分からない。
ふと、手が止まる。
一枚の紙に、見覚えのある名字があった。
(……相原工業)
父の名前ではなかった。けれど、確かに家で見たことのある印刷ロゴだった。
古びたクリップで留められたその束は、他のどれよりも厚く、使用感があった。
「気になる?」
後ろから声がした。
びくりと肩が揺れる。
市原が、いつの間にか真後ろに立っていた。
「そっちは、昔のデータ。あんまり関係ないから、後回しでいいよ」
何も言えなかった。
手の中の紙が、妙に重たく感じる。
「気にしなくていい。むしろ、忘れていい」
市原は優しく笑った。
でも、その声の奥には、拒否の余地がなかった。
智哉は紙をそっと束に戻し、次の資料に手を伸ばした。
──この部屋は、過去に繋がってる。
それだけが、ずっと胸の奥でくすぶり続けていた。