「今日も、よくやったね」
午後の事務所は静かだった。
書類をひと通りまとめ終えたタイミングで、市原がそう言った。
智哉は、ソファに座り直したまま、曖昧に頷く。
よくやったと言われて、嬉しくないわけじゃない。
けれど、「褒められることで状況が肯定されていく」ような気がして、素直には受け取れなかった。
「ちょっと、外に出ようか」
市原は、そう続けた。
「……どこか、行くんですか?」
「ご褒美。昨日も今日も頑張ったでしょ。甘いもの、嫌いじゃなかったよね」
問いかけじゃなかった。
知っている、と言い切るような声音だった。
断る理由も、選択肢もなかった。
車はいつもの黒塗りじゃなかった。
どうやら市原のものらしく、それで移動する。
今日は珍しく、市原自身が運転席に座っていた。
スーツではなく、淡いベージュのシャツに落ち着いた黒のパンツ。
そのカジュアルな装いに、智哉は一瞬だけ視線を奪われた。
(……市原さん、私服……)
その姿は、さながら雑誌のモデルのようだった。
怖いはずなのに、視線を逸らせなかった。
助手席の窓の外には、人が行き交う街の景色。
信号待ちで止まったとき、隣の車に乗っている家族連れが目に入る。
母親が後部座席の子どもに振り返って何かを話していた。
それだけのことで、胸がざわつく。
市原は何も言わなかった。
ただ、落ち着いた表情でハンドルを握り、次の角を曲がる。
車が止まったのは、小さなカフェだった。
ガラス張りの外観に、木製の看板。
中はそこまで混んでおらず、落ち着いた雰囲気の空間だった。
席に着くと、市原がさっとメニューを開く。
「これ、君が好きそうだと思って」
開かれたページには、フルーツの乗ったパフェと、期間限定の苺ミルク。
智哉は反射的に言葉を飲み込んだ。
甘いものが好きだ、と誰かに言った記憶はない。
それでも、当たっていた。
「……なんで、知ってるんですか」
「そりゃ、ずっと君を見てたからね」
冗談のような響き。
けれど、目は笑っていなかった。
軽口に聞こえたその言葉が、真実だとすぐにわかってしまう。
──ずっと。
その一語に、背筋がひやりとした。
智哉は思わず、手元のメニューに視線を落とした。
注文を済ませると、市原はスマホをひと目見て、それを伏せた。
短い沈黙が落ちる。
「……どう?こういう時間」
「……普通、です」
智哉は答えた。
ほんとうは、“普通”なんかじゃない。
けれど、“楽しい”とも、“嬉しい”とも、簡単には言えなかった。
そう答えるには、あまりに物事が複雑すぎる。
やがて、パフェとドリンクが運ばれてきた。
ガラスの器に盛られた苺とアイスが、やけに眩しかった。
口に運ぶと、甘さがじんわり広がる。
久しぶりの感覚だった。
ここ最近、“美味しい”と思って何かを食べた記憶が、なかった。
(──これ、嬉しいと思ってる時点で、ダメなんじゃないか)
何も言わずにスプーンを動かす智哉に、市原は「ほらね」と微笑んだ。
店を出たとき、陽が少しだけ傾いていた。
商業施設の出入り口が、通りの向こうに見えた。
そのときだった。
智哉の中で、ふいに何かがはじけた。
幾日か前のショッピングモールでの時と、同じ。
──あそこまで、走れば。
人混みを縫って、横断歩道を越えて、逃げられるかもしれない。
携帯がなくても、金がなくても、とりあえず今は──
「逃げるなら今だよ」
市原の声が、すぐ横から落ちた。
「えっ……」
反射的に振り向くと、市原が、にこやかに笑っていた。
まるで、冗談を言っているような口ぶり。
けれど、その目だけは、まったく笑っていなかった。
「走る?飛び出す?構わないよ。だけど、その先の生活も、君が考えるんだよ」
智哉の半歩だけ出た足が止まった。
代わりに、市原の手が伸びてくる。
「……そう、よく我慢できたね」
そう言って、軽く手を取られる。
繋がれたわけじゃない。ただ、手の甲に、あたたかな掌が重なっただけ。
けれど──それだけで、十分だった。
「……外ですから……離してください」
「ふふ、そうだね……じゃあ二人きりの時にもう一度」
小さな声で、市原が囁いた。
それは、脅しでもなければ、命令でもなかった。
ただ、あらかじめ決まっている“予定”のように。
そして、市原に導かれるまま、ふたたび車へ向かった
歩きながら、智哉は思った。
この人は、自由すらも“与えてから奪う”。
少しずつ、少しずつ。
自分が“喜ぶもの”の形を、塗り替えていくつもりなのだと。
智哉がそう気づいた時にはもう、遅かった。