目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第12話 接触

「今日も、よくやったね」


午後の事務所は静かだった。

書類をひと通りまとめ終えたタイミングで、市原がそう言った。


智哉は、ソファに座り直したまま、曖昧に頷く。

よくやったと言われて、嬉しくないわけじゃない。

けれど、「褒められることで状況が肯定されていく」ような気がして、素直には受け取れなかった。


「ちょっと、外に出ようか」


市原は、そう続けた。


「……どこか、行くんですか?」

「ご褒美。昨日も今日も頑張ったでしょ。甘いもの、嫌いじゃなかったよね」


問いかけじゃなかった。

知っている、と言い切るような声音だった。


断る理由も、選択肢もなかった。


車はいつもの黒塗りじゃなかった。

どうやら市原のものらしく、それで移動する。

今日は珍しく、市原自身が運転席に座っていた。


スーツではなく、淡いベージュのシャツに落ち着いた黒のパンツ。

そのカジュアルな装いに、智哉は一瞬だけ視線を奪われた。


(……市原さん、私服……)


その姿は、さながら雑誌のモデルのようだった。

怖いはずなのに、視線を逸らせなかった。


助手席の窓の外には、人が行き交う街の景色。

信号待ちで止まったとき、隣の車に乗っている家族連れが目に入る。

母親が後部座席の子どもに振り返って何かを話していた。

それだけのことで、胸がざわつく。


市原は何も言わなかった。

ただ、落ち着いた表情でハンドルを握り、次の角を曲がる。


車が止まったのは、小さなカフェだった。

ガラス張りの外観に、木製の看板。

中はそこまで混んでおらず、落ち着いた雰囲気の空間だった。


席に着くと、市原がさっとメニューを開く。


「これ、君が好きそうだと思って」


開かれたページには、フルーツの乗ったパフェと、期間限定の苺ミルク。


智哉は反射的に言葉を飲み込んだ。

甘いものが好きだ、と誰かに言った記憶はない。

それでも、当たっていた。


「……なんで、知ってるんですか」

「そりゃ、ずっと君を見てたからね」


冗談のような響き。

けれど、目は笑っていなかった。

軽口に聞こえたその言葉が、真実だとすぐにわかってしまう。


──ずっと。


その一語に、背筋がひやりとした。

智哉は思わず、手元のメニューに視線を落とした。


注文を済ませると、市原はスマホをひと目見て、それを伏せた。

短い沈黙が落ちる。


「……どう?こういう時間」

「……普通、です」


智哉は答えた。

ほんとうは、“普通”なんかじゃない。

けれど、“楽しい”とも、“嬉しい”とも、簡単には言えなかった。

そう答えるには、あまりに物事が複雑すぎる。


やがて、パフェとドリンクが運ばれてきた。

ガラスの器に盛られた苺とアイスが、やけに眩しかった。


口に運ぶと、甘さがじんわり広がる。

久しぶりの感覚だった。

ここ最近、“美味しい”と思って何かを食べた記憶が、なかった。


(──これ、嬉しいと思ってる時点で、ダメなんじゃないか)


何も言わずにスプーンを動かす智哉に、市原は「ほらね」と微笑んだ。


店を出たとき、陽が少しだけ傾いていた。

商業施設の出入り口が、通りの向こうに見えた。


そのときだった。

智哉の中で、ふいに何かがはじけた。

幾日か前のショッピングモールでの時と、同じ。


──あそこまで、走れば。


人混みを縫って、横断歩道を越えて、逃げられるかもしれない。

携帯がなくても、金がなくても、とりあえず今は──


「逃げるなら今だよ」


市原の声が、すぐ横から落ちた。


「えっ……」


反射的に振り向くと、市原が、にこやかに笑っていた。

まるで、冗談を言っているような口ぶり。


けれど、その目だけは、まったく笑っていなかった。


「走る?飛び出す?構わないよ。だけど、その先の生活も、君が考えるんだよ」


智哉の半歩だけ出た足が止まった。

代わりに、市原の手が伸びてくる。


「……そう、よく我慢できたね」


そう言って、軽く手を取られる。

繋がれたわけじゃない。ただ、手の甲に、あたたかな掌が重なっただけ。


けれど──それだけで、十分だった。


「……外ですから……離してください」

「ふふ、そうだね……じゃあ二人きりの時にもう一度」


小さな声で、市原が囁いた。


それは、脅しでもなければ、命令でもなかった。

ただ、あらかじめ決まっている“予定”のように。


そして、市原に導かれるまま、ふたたび車へ向かった

歩きながら、智哉は思った。


この人は、自由すらも“与えてから奪う”。


少しずつ、少しずつ。

自分が“喜ぶもの”の形を、塗り替えていくつもりなのだと。


智哉がそう気づいた時にはもう、遅かった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?