もう幾日目だろうか。
日々が過ぎていくうちに、日付の感覚がなくなっていくようだった。
そんな中で、午前中の業務は淡々と進んだ。
智哉は書類を揃え、市原の指示通りにファイリングを終える。
同じ部屋にいながら、二人の間に交わされる会話は必要最低限だった。
市原は仕事中、まるで別人のように静かで、厳しかった。
昼休憩になると、ふと市原が椅子を離れて声をかけてきた。
「昼、なにか食べたいものある?」
「……なんでもいいです」
返事はいつものように曖昧だった。
すると、市原はふっと笑い、そう言うと思った、と呟く。
いつも通りだった。
それなのに、どこかおかしいと感じたのは、昼食を終えたあとのことだ。
午後の業務が一区切りついたタイミングで、市原が近づいてくる。
「ご褒美、欲しい?」
智哉は少しだけ戸惑った。
「……べつに、いらないです」
そう答えたのに、市原はおかまいなしにソファへと手招きする。
「まあまあ、こっち来て」
断り切れず、智哉は言われたとおりにソファの端に腰を下ろした。
市原が隣に座ると、その距離は思ったよりも近かった。
「最近、頑張ってるからさ」
そう言って、市原は手を伸ばし、智哉の手を取る。
柔らかく、けれど決して逃がさない力で。
そして、手の甲にそっとキスを落とした。
「……なっ……」
唇が触れる瞬間、智哉は反射的に手を引こうとした。
その微かな動きを、市原は見逃さなかった。
「……拒否しないでよ」
声は笑っていた。けれど──その目は、冷たかった。
まるで感情が削ぎ落とされた氷のように澄んでいて、
そこにある“感情”は、拒絶を許さない種類のものだった。
智哉は背筋に冷たいものが這うのを感じた。
次の瞬間。
市原は、そのまま智哉の手首を持ち直し、ゆっくりと口元へ引き寄せる。
そして、何の前触れもなく──その手首へ、歯を立てた。
「……っ!」
一瞬、痛みとも言えない感覚が走る。
強くはない。けれど確かに、痕が残る程度の力だった。
市原は口を離し、濡れた跡が残る肌を、わざとらしく見つめる。
「君は今、俺のものってこと。ね?」
声は柔らかかった。
優しく、恋人のようにさえ聞こえる。
けれど、そこには明確な“支配”の意志があった。
キスでも、言葉でもない。
噛み痕という、原始的で逃げられない印。
「……なんで、こんなこと……」
智哉の声はかすれていた。
「あはは。俺、独占欲強いから」
市原は笑って言う。
それが、真顔よりもよほど怖かった。
(怒らないんじゃない。怒らなくても、支配できるからだ)
そう、思った。
市原の手が離れると、手首の噛み痕がじわじわと熱を持ち始めた。
痛くはなかった。
けれど、その温度が恐ろしくて、智哉は腕を胸に引き寄せた。
まるで、心臓に近づければ守れるとでも思ったかのように。
「……もう少ししたら、次の仕事がある。今日は外回りに同行してもらう」
市原が立ち上がると、さっきまでの甘い空気は嘘のように引き締まる。
智哉は黙って頷いた。
心の中にうずまく感情を、言葉にできるはずがなかった。
手首に残された痕は、赤く腫れていた。
けれど、それを覆い隠すことは、どこかで“負け”を意味するような気がして、シャツの袖をまくることはしなかった。
──ここが、境界線だ。
優しさと、命令の境界。
自由と、従属の境界。
一線を越えたのは、市原なのか、智哉なのか。
──どちらにせよ、もう戻る場所はなかった。