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第13話 境界線

もう幾日目だろうか。

日々が過ぎていくうちに、日付の感覚がなくなっていくようだった。

そんな中で、午前中の業務は淡々と進んだ。


智哉は書類を揃え、市原の指示通りにファイリングを終える。

同じ部屋にいながら、二人の間に交わされる会話は必要最低限だった。

市原は仕事中、まるで別人のように静かで、厳しかった。


昼休憩になると、ふと市原が椅子を離れて声をかけてきた。


「昼、なにか食べたいものある?」

「……なんでもいいです」


返事はいつものように曖昧だった。

すると、市原はふっと笑い、そう言うと思った、と呟く。


いつも通りだった。

それなのに、どこかおかしいと感じたのは、昼食を終えたあとのことだ。


午後の業務が一区切りついたタイミングで、市原が近づいてくる。


「ご褒美、欲しい?」


智哉は少しだけ戸惑った。


「……べつに、いらないです」


そう答えたのに、市原はおかまいなしにソファへと手招きする。


「まあまあ、こっち来て」


断り切れず、智哉は言われたとおりにソファの端に腰を下ろした。

市原が隣に座ると、その距離は思ったよりも近かった。


「最近、頑張ってるからさ」


そう言って、市原は手を伸ばし、智哉の手を取る。

柔らかく、けれど決して逃がさない力で。


そして、手の甲にそっとキスを落とした。


「……なっ……」


唇が触れる瞬間、智哉は反射的に手を引こうとした。

その微かな動きを、市原は見逃さなかった。


「……拒否しないでよ」


声は笑っていた。けれど──その目は、冷たかった。


まるで感情が削ぎ落とされた氷のように澄んでいて、

そこにある“感情”は、拒絶を許さない種類のものだった。


智哉は背筋に冷たいものが這うのを感じた。


次の瞬間。


市原は、そのまま智哉の手首を持ち直し、ゆっくりと口元へ引き寄せる。

そして、何の前触れもなく──その手首へ、歯を立てた。


「……っ!」


一瞬、痛みとも言えない感覚が走る。

強くはない。けれど確かに、痕が残る程度の力だった。


市原は口を離し、濡れた跡が残る肌を、わざとらしく見つめる。


「君は今、俺のものってこと。ね?」


声は柔らかかった。

優しく、恋人のようにさえ聞こえる。


けれど、そこには明確な“支配”の意志があった。


キスでも、言葉でもない。

噛み痕という、原始的で逃げられない印。


「……なんで、こんなこと……」


智哉の声はかすれていた。


「あはは。俺、独占欲強いから」


市原は笑って言う。

それが、真顔よりもよほど怖かった。


(怒らないんじゃない。怒らなくても、支配できるからだ)


そう、思った。

市原の手が離れると、手首の噛み痕がじわじわと熱を持ち始めた。


痛くはなかった。

けれど、その温度が恐ろしくて、智哉は腕を胸に引き寄せた。


まるで、心臓に近づければ守れるとでも思ったかのように。


「……もう少ししたら、次の仕事がある。今日は外回りに同行してもらう」


市原が立ち上がると、さっきまでの甘い空気は嘘のように引き締まる。


智哉は黙って頷いた。

心の中にうずまく感情を、言葉にできるはずがなかった。


手首に残された痕は、赤く腫れていた。

けれど、それを覆い隠すことは、どこかで“負け”を意味するような気がして、シャツの袖をまくることはしなかった。


──ここが、境界線だ。


優しさと、命令の境界。

自由と、従属の境界。


一線を越えたのは、市原なのか、智哉なのか。

──どちらにせよ、もう戻る場所はなかった。


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