出発の準備をしている市原の背中を、智哉は黙って見ていた。
スーツの肩を軽く払って、ネクタイの結び目を直すその仕草は、朝に見せる家の顔とも、仕事中の無機質な顔とも違った。
「今日の接待はちょっとだけ顔出せばいいから。君は何も話さなくていい。ただ隣にいてくれれば、それでいいよ」
そう言って市原は、上着のボタンをかけながら軽く笑った。
「……俺、行かなきゃだめですか」
「だめじゃないけど。君がいないと“話が通らない”こともあるからね」
意味がわからなかった。
でも訊いたところで、具体的な説明は返ってこない気がした。
黙って、用意された服に袖を通していく。
智哉のものも、いつもよりもフォーマルなものだった。
シャツの袖から、手首に赤く残った噛み痕が目に入る。
慌ててもう一方の手で覆ったが、市原の視線はすでにそこに注がれていた。
「見えてても問題ないよ。誰も気にしない」
さらりと言われて、智哉は反論できなかった。
「気にしない」のは他人で、自分ではなかった。
市原が車の鍵を手にし、「行こうか」と声をかける。
乗せられたのは、小型で落ち着いたグレージュのセダン。
先日、出かけたときの車。
運転席に市原、助手席に智哉。
市原は出発と同時に、Bluetoothでスマートフォンを繋ぎ、何件かの通話を始めた。
「はい、そうですね……いえ、そちらの条件に合わせて……」
「わかりました。では先方には、私のほうから」
市原の声は、驚くほど丁寧だ。
相手を立て、語尾を和らげ、どこからどう見ても“ちゃんとしたビジネスマン”だった。
助手席で黙ってそれを聞くしかない智哉は、窓の外に目をやる。
大通りを抜け、街の中心部へ。
しばらくして車は静かな通り沿いの料亭の前で停まった。
入口に小さく看板が出ているだけの、落ち着いた佇まい。
石畳の道を進み、控えめな暖簾をくぐると、店の中は静まり返っていた。
「やあ、市原さん。随分と綺麗な子を連れているじゃないか」
「親戚の子なんだ。まだ学生で、いろいろ教えてやってるところで」
店内に案内された個室で、市原は智哉をそう紹介した。
相手はスーツ姿の中年男性。会釈を交わしただけで、それ以上の挨拶は求められなかった。
ただ、一瞬注がれた視線が気になった。
まるで、値踏みをするような、その目。
緩く息を吐きだして、智哉は目を伏せた。
卓上に置かれた湯呑みの横、手を軽く添えられる。
ほんの一瞬、市原の指が智哉の指先に触れる。
自然を装っているが、それは明らかに“所有”を示す仕草だった。
会話の内容は理解できないものが多い。
金融、地価、契約、投資……智哉にはわからない単語ばかり。
けれど、たまに相手の男がこちらに目を向けて、意味ありげに微笑むのだけは、よくわかった。
(俺……飾り?いや……商品……?)
誰も何も言わない。
けれど、空気だけがすべてを語っていた。
ふと、隣の個室のほうで、笑い声が上がった。
何気なく視線を移すと、スーツ姿の別の幹部と並んで、若い男が座っていた。
二十歳前後だろうか。
愛想よく笑い、酒を注ぎ、皿を下げている。
そのとき、手元がちらりと見えた。
──手首。赤く、噛まれたような痕。
息を呑む。
一瞬のことで、市原は気づいていたのか、いなかったのか。
智哉は慌てて視線を戻した。
食事が終わる頃には、あたりはすっかり夜になっていた。
帰りの車の中、市原は静かにハンドルを握っていた。
けれど、無言のままではいさせてくれなかった。
「──気づいた?」
唐突に、そう言った。
智哉は少しだけ戸惑って、それでも答える。
「……さっき、同じような……」
「ふふ、そうかもね」
それだけで、あとは何も言わなかった。
けれど、黙っていてもわかった。
“商品”なのだ。
あの男が連れていた“子”も。
彼らにとって、自分たちは“使われるため”にいる。
「この世界じゃ、誰が客で誰が商品か、曖昧になるからね」
市原は、助手席の智哉に視線を寄越さないまま言った。
曖昧。
けれど、曖昧であることが一番、残酷なのかもしれない。
赤信号で止まったとき、窓の外に、さっきの若い男が別の車に乗り込む姿が見えた。
笑っていた。
けれど、その笑顔の意味は、もうわからなかった。
車が再び動き出す。
その振動が、どこか他人の身体を通じて伝わるような距離感で、智哉の体に染みていった。
──自分は、どこに向かってるんだろう。
答えは、わからなかった。