目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第14話 商品

出発の準備をしている市原の背中を、智哉は黙って見ていた。

スーツの肩を軽く払って、ネクタイの結び目を直すその仕草は、朝に見せる家の顔とも、仕事中の無機質な顔とも違った。


「今日の接待はちょっとだけ顔出せばいいから。君は何も話さなくていい。ただ隣にいてくれれば、それでいいよ」


そう言って市原は、上着のボタンをかけながら軽く笑った。


「……俺、行かなきゃだめですか」

「だめじゃないけど。君がいないと“話が通らない”こともあるからね」


意味がわからなかった。

でも訊いたところで、具体的な説明は返ってこない気がした。

黙って、用意された服に袖を通していく。

智哉のものも、いつもよりもフォーマルなものだった。

シャツの袖から、手首に赤く残った噛み痕が目に入る。

慌ててもう一方の手で覆ったが、市原の視線はすでにそこに注がれていた。


「見えてても問題ないよ。誰も気にしない」


さらりと言われて、智哉は反論できなかった。

「気にしない」のは他人で、自分ではなかった。


市原が車の鍵を手にし、「行こうか」と声をかける。

乗せられたのは、小型で落ち着いたグレージュのセダン。

先日、出かけたときの車。

運転席に市原、助手席に智哉。

市原は出発と同時に、Bluetoothでスマートフォンを繋ぎ、何件かの通話を始めた。


「はい、そうですね……いえ、そちらの条件に合わせて……」

「わかりました。では先方には、私のほうから」


市原の声は、驚くほど丁寧だ。

相手を立て、語尾を和らげ、どこからどう見ても“ちゃんとしたビジネスマン”だった。


助手席で黙ってそれを聞くしかない智哉は、窓の外に目をやる。

大通りを抜け、街の中心部へ。

しばらくして車は静かな通り沿いの料亭の前で停まった。


入口に小さく看板が出ているだけの、落ち着いた佇まい。

石畳の道を進み、控えめな暖簾をくぐると、店の中は静まり返っていた。


「やあ、市原さん。随分と綺麗な子を連れているじゃないか」

「親戚の子なんだ。まだ学生で、いろいろ教えてやってるところで」


店内に案内された個室で、市原は智哉をそう紹介した。

相手はスーツ姿の中年男性。会釈を交わしただけで、それ以上の挨拶は求められなかった。


ただ、一瞬注がれた視線が気になった。

まるで、値踏みをするような、その目。

緩く息を吐きだして、智哉は目を伏せた。


卓上に置かれた湯呑みの横、手を軽く添えられる。

ほんの一瞬、市原の指が智哉の指先に触れる。


自然を装っているが、それは明らかに“所有”を示す仕草だった。


会話の内容は理解できないものが多い。

金融、地価、契約、投資……智哉にはわからない単語ばかり。

けれど、たまに相手の男がこちらに目を向けて、意味ありげに微笑むのだけは、よくわかった。


(俺……飾り?いや……商品……?)


誰も何も言わない。

けれど、空気だけがすべてを語っていた。


ふと、隣の個室のほうで、笑い声が上がった。

何気なく視線を移すと、スーツ姿の別の幹部と並んで、若い男が座っていた。


二十歳前後だろうか。

愛想よく笑い、酒を注ぎ、皿を下げている。


そのとき、手元がちらりと見えた。


──手首。赤く、噛まれたような痕。


息を呑む。


一瞬のことで、市原は気づいていたのか、いなかったのか。

智哉は慌てて視線を戻した。


食事が終わる頃には、あたりはすっかり夜になっていた。


帰りの車の中、市原は静かにハンドルを握っていた。

けれど、無言のままではいさせてくれなかった。


「──気づいた?」


唐突に、そう言った。

智哉は少しだけ戸惑って、それでも答える。


「……さっき、同じような……」

「ふふ、そうかもね」


それだけで、あとは何も言わなかった。


けれど、黙っていてもわかった。

“商品”なのだ。

あの男が連れていた“子”も。


彼らにとって、自分たちは“使われるため”にいる。


「この世界じゃ、誰が客で誰が商品か、曖昧になるからね」


市原は、助手席の智哉に視線を寄越さないまま言った。


曖昧。

けれど、曖昧であることが一番、残酷なのかもしれない。


赤信号で止まったとき、窓の外に、さっきの若い男が別の車に乗り込む姿が見えた。


笑っていた。

けれど、その笑顔の意味は、もうわからなかった。


車が再び動き出す。

その振動が、どこか他人の身体を通じて伝わるような距離感で、智哉の体に染みていった。


──自分は、どこに向かってるんだろう。


答えは、わからなかった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?