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第15話 所有の証明

帰り道、市原は一言も喋らなかった。

助手席に座る智哉も、それに合わせて黙っていた。


車の中はエアコンの音だけがかすかに響いていて、たまに信号で停まるたび、その音さえ遠ざかっていく気がした。


部屋に戻ってからも、市原は無言のまま上着を脱ぎ、ネクタイを外すと、そのままソファに腰を下ろした。


珍しかった。

普段なら、手洗いをして、着替えて、それから台所へ向かうのが決まりのようになっているのに──

今は、ソファに沈み込んだまま、ただ天井を見上げている。


その横顔が、妙に遠く見えた。


「──今日は、よく我慢したね」


不意に市原が口を開いた。

顔はそのまま、天井を見つめたまま。

その言葉に、智哉は返事をしなかった。

代わりに、胸の奥がすこしだけ熱くなった。

「偉かったよ」と言われて、ほっとした。


──それが、恐ろしかった。


褒められて安心している自分に。

この関係に、慣れ始めている自分に。



「……別に、何もしてないです」


だから、そう言ったのは、せめてもの抵抗だった。

市原はふっと笑った。


「そうかな。俺には、ちゃんと“耐えてた”ように見えたけど」


その“見てた”という言葉が、またひとつ胸に重くのしかかる。

市原の視線が、自分の一挙手一投足を記録しているかのような錯覚に陥る。


しばらく沈黙が落ちた。

部屋の時計が、一秒ごとに音を刻む。


智哉はダイニングの椅子に座り、カップに注いだまま手をつけていない紅茶を見つめていた。

市原がいつも淹れる紅茶を見様見真似で智哉が淹れたものだ。

先ほど、それは市原にも出した。


やがて、市原がぽつりと呟く。


「……“ああいう子”、たまに“替えが効く”って言われるんだよね」


その言葉に、智哉は息を飲んだ。

聞かなかったふりをしようとしたのに、耳が勝手に拾っていた。


“替えが効く”。

──それって、つまり。


自分は“誰かの代用品”にもなり得る存在なのか。

あるいは、自分の代わりに誰かが連れてこられることもある、という意味か。


(──違う。もっと、根本的に……)


もしも、市原がいなくなったら。

もしも、自分の“所有者”が変わったら。

そうなったとき、自分は──


(誰に、どこで、“使われる”んだ……?)


想像するだけで、喉が渇いた。

胃の奥がきゅっと縮こまる。

逃げ出すなら今だ、と思ったことはあった。


でも、違う。

逃げ出せば、所有者が変わる。

“市原以外の誰かに売られる”可能性を想像した瞬間──智哉の足が震えた。


それは、明確な恐怖だった。


「……不安になった?」


市原の声が、突然、間近から落ちる。

気がつけば、ソファから立ち上がっていて、いつの間にか横にいた。


智哉は返事ができず、ただ首を横に振った。


そうするしか、なかった。

すると市原は、ゆっくりとしゃがみ込み、智哉の手首を取る。


シャツの袖をめくって、赤く薄れてきた“あの痕”を見つめた。


「これは、“俺のもの”って意味」


指で、噛み痕の縁をなぞる。

冷たくも、熱くもない、その指先。

でも、その触れ方だけが、異様に強く感じられた。


「誰にも渡さない。誰にも触らせない。……そういう意味」


囁くような声が、耳に落ちる。

それは、優しさではなかった。

……なぜか、ほんのすこしだけ、楽になった気がした。

それが“安心”だったのか、“諦め”だったのか、自分でも分からないまま。


(──こんなことで、安心してる……)


ダメだと思った。

でも、もう分からなかった。


どこまでが嘘で、どこからが本当で、

どこまでが所有で、どこからが保護で、

自分は一体、何に守られているんだろう。


「……安心して」


市原が立ち上がり、背中を向けてキッチンに向かう。

カップに新しいお茶を注ぎながら、ぽつりと続けた。


「君は、俺の“お気に入り”だよ」




その背中を見ながら、智哉は思う。

それは、確かに“脅し”ではなかった。

でも、“牢屋の鍵を持っているのはこっちだよ”と、笑顔で言われているのと同じだった。



その夜。

布団の中、眠れぬまま天井を見つめながら、智哉はひとつのことだけを考え続けた。


──「誰かのもの」でいることに、少しずつ慣れていく自分が、いちばん怖い。


それは、自分で自分を消していく作業かもしれなかった。

そしてその作業を、“優しさ”と呼んでしまうことの恐ろしさを──この時の智哉は、すべて理解していなかった。


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