帰り道、市原は一言も喋らなかった。
助手席に座る智哉も、それに合わせて黙っていた。
車の中はエアコンの音だけがかすかに響いていて、たまに信号で停まるたび、その音さえ遠ざかっていく気がした。
部屋に戻ってからも、市原は無言のまま上着を脱ぎ、ネクタイを外すと、そのままソファに腰を下ろした。
珍しかった。
普段なら、手洗いをして、着替えて、それから台所へ向かうのが決まりのようになっているのに──
今は、ソファに沈み込んだまま、ただ天井を見上げている。
その横顔が、妙に遠く見えた。
「──今日は、よく我慢したね」
不意に市原が口を開いた。
顔はそのまま、天井を見つめたまま。
その言葉に、智哉は返事をしなかった。
代わりに、胸の奥がすこしだけ熱くなった。
「偉かったよ」と言われて、ほっとした。
──それが、恐ろしかった。
褒められて安心している自分に。
この関係に、慣れ始めている自分に。
「……別に、何もしてないです」
だから、そう言ったのは、せめてもの抵抗だった。
市原はふっと笑った。
「そうかな。俺には、ちゃんと“耐えてた”ように見えたけど」
その“見てた”という言葉が、またひとつ胸に重くのしかかる。
市原の視線が、自分の一挙手一投足を記録しているかのような錯覚に陥る。
しばらく沈黙が落ちた。
部屋の時計が、一秒ごとに音を刻む。
智哉はダイニングの椅子に座り、カップに注いだまま手をつけていない紅茶を見つめていた。
市原がいつも淹れる紅茶を見様見真似で智哉が淹れたものだ。
先ほど、それは市原にも出した。
やがて、市原がぽつりと呟く。
「……“ああいう子”、たまに“替えが効く”って言われるんだよね」
その言葉に、智哉は息を飲んだ。
聞かなかったふりをしようとしたのに、耳が勝手に拾っていた。
“替えが効く”。
──それって、つまり。
自分は“誰かの代用品”にもなり得る存在なのか。
あるいは、自分の代わりに誰かが連れてこられることもある、という意味か。
(──違う。もっと、根本的に……)
もしも、市原がいなくなったら。
もしも、自分の“所有者”が変わったら。
そうなったとき、自分は──
(誰に、どこで、“使われる”んだ……?)
想像するだけで、喉が渇いた。
胃の奥がきゅっと縮こまる。
逃げ出すなら今だ、と思ったことはあった。
でも、違う。
逃げ出せば、所有者が変わる。
“市原以外の誰かに売られる”可能性を想像した瞬間──智哉の足が震えた。
それは、明確な恐怖だった。
「……不安になった?」
市原の声が、突然、間近から落ちる。
気がつけば、ソファから立ち上がっていて、いつの間にか横にいた。
智哉は返事ができず、ただ首を横に振った。
そうするしか、なかった。
すると市原は、ゆっくりとしゃがみ込み、智哉の手首を取る。
シャツの袖をめくって、赤く薄れてきた“あの痕”を見つめた。
「これは、“俺のもの”って意味」
指で、噛み痕の縁をなぞる。
冷たくも、熱くもない、その指先。
でも、その触れ方だけが、異様に強く感じられた。
「誰にも渡さない。誰にも触らせない。……そういう意味」
囁くような声が、耳に落ちる。
それは、優しさではなかった。
……なぜか、ほんのすこしだけ、楽になった気がした。
それが“安心”だったのか、“諦め”だったのか、自分でも分からないまま。
(──こんなことで、安心してる……)
ダメだと思った。
でも、もう分からなかった。
どこまでが嘘で、どこからが本当で、
どこまでが所有で、どこからが保護で、
自分は一体、何に守られているんだろう。
「……安心して」
市原が立ち上がり、背中を向けてキッチンに向かう。
カップに新しいお茶を注ぎながら、ぽつりと続けた。
「君は、俺の“お気に入り”だよ」
その背中を見ながら、智哉は思う。
それは、確かに“脅し”ではなかった。
でも、“牢屋の鍵を持っているのはこっちだよ”と、笑顔で言われているのと同じだった。
その夜。
布団の中、眠れぬまま天井を見つめながら、智哉はひとつのことだけを考え続けた。
──「誰かのもの」でいることに、少しずつ慣れていく自分が、いちばん怖い。
それは、自分で自分を消していく作業かもしれなかった。
そしてその作業を、“優しさ”と呼んでしまうことの恐ろしさを──この時の智哉は、すべて理解していなかった。