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第16話 確かめたくなる距離

夜が深くなるにつれ、部屋の空気はゆっくりと温度を失っていく。

窓の外、街灯の明かりがカーテン越しに淡くにじんでいた。

智哉はベッドの上に仰向けになり、目を閉じることもできずに、ただ天井を見つめていた。


その胸の奥に残っていたのは、昼間の感触。

市原が、自分の手首をなぞりながら言った言葉が、ずっと消えずにいる。


『これは、“俺のもの”って意味』

『誰にも渡さない。誰にも触らせない』


あの声、指先の温度。

すべてが耳の奥と皮膚の裏側に、まだ貼りついていた。


息苦しい。

けれど、その言葉は不思議と、智哉の中をじわじわと囲ってくる。

不安も、焦燥も、ある種の安心すら──同じ“檻”の中に一緒くたに閉じ込めて。


(……なんなんだ、俺……)


眠れないのを言い訳に、智哉は静かにベッドを抜け出した。

床に足を下ろすと、冷たいフローリングの感触が足裏をじんわりと伝ってくる。

部屋の扉を開けて、薄明かりの廊下をそろそろと歩く。


市原の部屋の前で、足が止まった。

意識してきたわけじゃない。

気づけば、立っていた。


そっと扉に耳を当てる。

薄い木の向こうから、小さく、一定の呼吸音が聞こえた。


──すう、すう、と。


それだけで、なぜかふっと力が抜けた。

誰かが“眠っている”。

それを確認するだけで、どうしてこんなに安堵するのか、自分でもわからない。


ここは“閉じ込められている”家だ。

この呼吸の主は、自分の“所有者”だ。


なのに──


(……あそこに“いる”だけで、安心してる……)


その感覚に気づいた瞬間、胃の奥がずしりと重くなった。

どうしてそんな風に思ってしまったのか。

それを否定しようとしたけど、胸の奥が妙に静かで、誤魔化しきれなかった。


──あの人がいない世界の方が、よほど怖い。


(……そんなの、間違ってるのに)


壁に手をついて、呼吸を整えようとする。

だけど、自分でも気づかないうちに、身体をドアの前に戻していた。


「……どうしたの?」


突然、真横から声が落ちてきた。

びくりと身体を跳ねさせ、顔を上げる。


ドアが開いていた。

そこには、起きていた市原が立っていた。

パジャマの前を少し開けたまま、髪が少し乱れている。


「……あ、え……っ」

「……怖い夢でも見た?」


声は穏やかで、柔らかかった。

けれど、その目は、笑っていなかった。


智哉はとっさに首を横に振った。

それ以外の答え方が、わからなかった。


「ふふ……いいよ。素直じゃなくても」


市原が、片手を伸ばしてくる。

後頭部に優しく触れたかと思うと、ぐっと引き寄せられる。


「っ──や、やめ……っ」


抗う暇もなく、首筋に唇が触れた。

舌先が這い、耳朶をなぞり、そして甘く噛まれる。


「っ……!」


声にならない声が、喉の奥で詰まる。

息が浅くなり、視界の端がじわりと滲む。


「──君が安心して生きていられる理由は、俺だけなんだから」


囁きは、耳の内側に直接落ちてきた。

その声に、全身がぞくりと震える。


抗えないとわかっているのに。

いや──抗う気力すら、残っていなかった。


「……戻ろうか。君は明日も早いんだから」


市原が額をそっと押し当ててきたあと、何事もなかったかのように言った。

智哉はただ頷くことしかできなかった。


自分で歩いて部屋へ戻り、ベッドに潜り込む。

シーツの感触は冷たくて、それでも“あたたかい”ように錯覚してしまう。


──“俺だけなんだから”


その言葉が、ずっと耳の奥に居座っていた。

市原の部屋からは、再び小さな寝息が聞こえる。

廊下の向こうに“そこにいる”ことを確認するだけで、胸の奥が静かになる自分がいた。


(……あそこに、いてくれるだけで)


その感覚に、再び自己嫌悪がにじむ。

でも、それを否定しきれない自分が、一番わからなかった。


明日もきっと、あの人の声を聞く。

あの人の指先に触れられる。

それを“嫌だ”とすら思えなくなっている自分が、怖い。


──そのことに、まだ名前をつけることはできなかった。


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