夜が深くなるにつれ、部屋の空気はゆっくりと温度を失っていく。
窓の外、街灯の明かりがカーテン越しに淡くにじんでいた。
智哉はベッドの上に仰向けになり、目を閉じることもできずに、ただ天井を見つめていた。
その胸の奥に残っていたのは、昼間の感触。
市原が、自分の手首をなぞりながら言った言葉が、ずっと消えずにいる。
『これは、“俺のもの”って意味』
『誰にも渡さない。誰にも触らせない』
あの声、指先の温度。
すべてが耳の奥と皮膚の裏側に、まだ貼りついていた。
息苦しい。
けれど、その言葉は不思議と、智哉の中をじわじわと囲ってくる。
不安も、焦燥も、ある種の安心すら──同じ“檻”の中に一緒くたに閉じ込めて。
(……なんなんだ、俺……)
眠れないのを言い訳に、智哉は静かにベッドを抜け出した。
床に足を下ろすと、冷たいフローリングの感触が足裏をじんわりと伝ってくる。
部屋の扉を開けて、薄明かりの廊下をそろそろと歩く。
市原の部屋の前で、足が止まった。
意識してきたわけじゃない。
気づけば、立っていた。
そっと扉に耳を当てる。
薄い木の向こうから、小さく、一定の呼吸音が聞こえた。
──すう、すう、と。
それだけで、なぜかふっと力が抜けた。
誰かが“眠っている”。
それを確認するだけで、どうしてこんなに安堵するのか、自分でもわからない。
ここは“閉じ込められている”家だ。
この呼吸の主は、自分の“所有者”だ。
なのに──
(……あそこに“いる”だけで、安心してる……)
その感覚に気づいた瞬間、胃の奥がずしりと重くなった。
どうしてそんな風に思ってしまったのか。
それを否定しようとしたけど、胸の奥が妙に静かで、誤魔化しきれなかった。
──あの人がいない世界の方が、よほど怖い。
(……そんなの、間違ってるのに)
壁に手をついて、呼吸を整えようとする。
だけど、自分でも気づかないうちに、身体をドアの前に戻していた。
「……どうしたの?」
突然、真横から声が落ちてきた。
びくりと身体を跳ねさせ、顔を上げる。
ドアが開いていた。
そこには、起きていた市原が立っていた。
パジャマの前を少し開けたまま、髪が少し乱れている。
「……あ、え……っ」
「……怖い夢でも見た?」
声は穏やかで、柔らかかった。
けれど、その目は、笑っていなかった。
智哉はとっさに首を横に振った。
それ以外の答え方が、わからなかった。
「ふふ……いいよ。素直じゃなくても」
市原が、片手を伸ばしてくる。
後頭部に優しく触れたかと思うと、ぐっと引き寄せられる。
「っ──や、やめ……っ」
抗う暇もなく、首筋に唇が触れた。
舌先が這い、耳朶をなぞり、そして甘く噛まれる。
「っ……!」
声にならない声が、喉の奥で詰まる。
息が浅くなり、視界の端がじわりと滲む。
「──君が安心して生きていられる理由は、俺だけなんだから」
囁きは、耳の内側に直接落ちてきた。
その声に、全身がぞくりと震える。
抗えないとわかっているのに。
いや──抗う気力すら、残っていなかった。
「……戻ろうか。君は明日も早いんだから」
市原が額をそっと押し当ててきたあと、何事もなかったかのように言った。
智哉はただ頷くことしかできなかった。
自分で歩いて部屋へ戻り、ベッドに潜り込む。
シーツの感触は冷たくて、それでも“あたたかい”ように錯覚してしまう。
──“俺だけなんだから”
その言葉が、ずっと耳の奥に居座っていた。
市原の部屋からは、再び小さな寝息が聞こえる。
廊下の向こうに“そこにいる”ことを確認するだけで、胸の奥が静かになる自分がいた。
(……あそこに、いてくれるだけで)
その感覚に、再び自己嫌悪がにじむ。
でも、それを否定しきれない自分が、一番わからなかった。
明日もきっと、あの人の声を聞く。
あの人の指先に触れられる。
それを“嫌だ”とすら思えなくなっている自分が、怖い。
──そのことに、まだ名前をつけることはできなかった。