朝の廊下に、静かな足音が重なった。
シャワーを浴びたばかりの智哉は、洗面所から出てきたところだった。
濡れた髪をタオルで押さえながら歩いていると、正面から市原が部屋を出てくる。
パジャマの上にガウンを羽織り、髪は寝癖で少し乱れていた。
「濡れたままだよ」
市原が足を止め、軽く目を細める。
「風邪ひく。貸して」
そう言って、智哉の手からタオルを取る。
拒否の言葉が口を出る前に、もう頭にそれが当てられていた。
「……自分でやります」
押し返すように答えると、市原は一瞬だけ視線を落とした。
けれど、表情は変わらなかった。
「ほんと? じゃあ、次からはちゃんと乾かして。風邪でも引いたら困るから」
市原はそう言って、優しい手つきで髪を拭く。
声の調子はあくまで穏やかだった。
けれど、その手を離しかけたとき、少しだけトーンを落として、こう付け足した。
「……大事な身体なんだから」
その言葉は、冗談でもなければ、ただの優しさでもなかった。
押しつけるでもなく、逃げ道を塞ぐように、柔らかく、けれど深く沈んできた。
智哉はその声を、耳の奥で反芻しながら、自室へ戻る。
何事もない朝の風景。なのに身体が軽く反応してしまう。
(もう、こういうのにいちいち動揺してる時点で……)
智哉は胸元をぎゅっと握った。
さっきの声が、まだ耳の奥に残っていた。
その日、午前中に予定は入っていなかった。
午後は市原の事務所で、書類の整理だ。
慣れた手順。ルール通りの処理。
けれど、それを続けている自分に、ふとした違和感がよぎる。
この業務を始めてまだ日が浅いはずなのに、もう“身体が覚えている”。
(……慣れすぎだろ)
そう思いながら、ページを繰る指を止めた。
記憶じゃなく、感覚で動いてしまう自分がいた。
抗うでもなく、ただ適応していくことに──怖さがあった。
午後、エレベーターの前で市原と再び並んだ。
移動中、市原はスマートフォンを見ながら歩いていたが、
ふと、ガラスの自動扉の前で立ち止まり、智哉のほうにちらりと視線を向けた。
「……顔が強張ってる。緊張してる?」
問いかけは柔らかく、けれど不意打ちだった。
「してないです」
答える声が少しだけ上ずって、自分でも苦笑する。
市原はにやりと笑っただけだった。
それ以上、何も言わずに歩き出す。
けれどその一瞬の間に、確かに“見透かされた”気がして──
智哉はほんの少しだけ、自分の表情を意識して直した。
(こうやって、ペースを握られるの、悔しいのに)
感情はあるのに、それが出せない。
出したところで、どうにもならない。
そんな“枠”の中で、今日もまた一日が回っていく。
その時。
「失礼します」
控えめなノックとともに、扉が開いた。
現れたのは、スーツ姿の若い男だった。
長めの前髪、浅い笑顔。
彼は市原に書類を手渡すと、一瞬だけ智哉の方へ視線を向ける。
その目に、明確な“観察”の色が宿った。
「……この子、手伝いしてるんですか?」
「うん、大事な子だから。変なこと言わないでね」
市原が肩越しに軽く笑って答える。
それは冗談に聞こえるトーンだったが、空気には微かな緊張が走った。
男はすぐに話題を戻し、用件だけ済ませて部屋を出ていった。
ドアが閉まったあとの静寂が、やけに重く感じた。
智哉はファイルの角を揃える手を止め、そっと深呼吸をした。
(……あの目)
あの視線は、「どこの誰だ?」ではなかった。
「何に使われてる?」という、見透かすような視線だった。
不快感に指先がわずかに震える。
智哉が渡そうとしたファイルを受け取りながら、互いの指先が触れ合った。
「冷たい手、ちゃんと動いてる?」
ふいに、市原が隣から声をかけてくる。
(……前ならすぐに引っ込めたのに)
そう思いながら、智哉はそのまま手を引かずにいた。
もう、自分の中で“触れられること”の優先度が、書き換えられてしまっている。
何事もなく時間が過ぎ、既に夜。
静まり返った部屋で、智哉はベッドに座っていた。
あの男の視線が、まだどこかに残っているような気がして、落ち着かない。
(あんな風に見られるの、嫌だ)
けれど、それと同時に、
市原の隣にいたときだけは、誰にも“奪われない”と感じたのも事実だった。
(俺……今、完全に、あの人に囲われてるんだ)
今さらすぎる実感。
けれど、他人の目が入ることで、その構造が改めて露わになる。
それが、怖かった。
“商品”として見られたとき、自分の価値はどこにあるのか。
『──逃げたい?』
自分の内面に問いかけるような声が、耳に落ちる。
けれど、その問いに、もう答えを持っていなかった。
(優しい人じゃない。……なのに、段々と俺はこの人が怖くなくなってる。それが、いちばん怖い)
距離があるようで、逃げられない。
触れられていないのに、心は囲われている。
カーテンを閉めていない窓の外、空にかかる薄雲の向こうで、月だけがやけに眩しかった。
部屋も、その温度も、もう“外”の感覚とは別物だった。
“ここ”にいることが、だんだんと普通になっていく。
そのことだけが、ただ、恐ろしかった。