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第17話 境界を越える音

朝の廊下に、静かな足音が重なった。


シャワーを浴びたばかりの智哉は、洗面所から出てきたところだった。

濡れた髪をタオルで押さえながら歩いていると、正面から市原が部屋を出てくる。

パジャマの上にガウンを羽織り、髪は寝癖で少し乱れていた。


「濡れたままだよ」


市原が足を止め、軽く目を細める。


「風邪ひく。貸して」


そう言って、智哉の手からタオルを取る。

拒否の言葉が口を出る前に、もう頭にそれが当てられていた。


「……自分でやります」


押し返すように答えると、市原は一瞬だけ視線を落とした。

けれど、表情は変わらなかった。


「ほんと? じゃあ、次からはちゃんと乾かして。風邪でも引いたら困るから」


市原はそう言って、優しい手つきで髪を拭く。

声の調子はあくまで穏やかだった。


けれど、その手を離しかけたとき、少しだけトーンを落として、こう付け足した。


「……大事な身体なんだから」


その言葉は、冗談でもなければ、ただの優しさでもなかった。

押しつけるでもなく、逃げ道を塞ぐように、柔らかく、けれど深く沈んできた。

智哉はその声を、耳の奥で反芻しながら、自室へ戻る。

何事もない朝の風景。なのに身体が軽く反応してしまう。


(もう、こういうのにいちいち動揺してる時点で……)


智哉は胸元をぎゅっと握った。

さっきの声が、まだ耳の奥に残っていた。


その日、午前中に予定は入っていなかった。

午後は市原の事務所で、書類の整理だ。


慣れた手順。ルール通りの処理。

けれど、それを続けている自分に、ふとした違和感がよぎる。

この業務を始めてまだ日が浅いはずなのに、もう“身体が覚えている”。


(……慣れすぎだろ)


そう思いながら、ページを繰る指を止めた。

記憶じゃなく、感覚で動いてしまう自分がいた。

抗うでもなく、ただ適応していくことに──怖さがあった。


午後、エレベーターの前で市原と再び並んだ。


移動中、市原はスマートフォンを見ながら歩いていたが、

ふと、ガラスの自動扉の前で立ち止まり、智哉のほうにちらりと視線を向けた。


「……顔が強張ってる。緊張してる?」


問いかけは柔らかく、けれど不意打ちだった。


「してないです」


答える声が少しだけ上ずって、自分でも苦笑する。


市原はにやりと笑っただけだった。

それ以上、何も言わずに歩き出す。

けれどその一瞬の間に、確かに“見透かされた”気がして──

智哉はほんの少しだけ、自分の表情を意識して直した。


(こうやって、ペースを握られるの、悔しいのに)


感情はあるのに、それが出せない。

出したところで、どうにもならない。

そんな“枠”の中で、今日もまた一日が回っていく。


その時。


「失礼します」


控えめなノックとともに、扉が開いた。


現れたのは、スーツ姿の若い男だった。

長めの前髪、浅い笑顔。

彼は市原に書類を手渡すと、一瞬だけ智哉の方へ視線を向ける。


その目に、明確な“観察”の色が宿った。


「……この子、手伝いしてるんですか?」

「うん、大事な子だから。変なこと言わないでね」


市原が肩越しに軽く笑って答える。

それは冗談に聞こえるトーンだったが、空気には微かな緊張が走った。


男はすぐに話題を戻し、用件だけ済ませて部屋を出ていった。

ドアが閉まったあとの静寂が、やけに重く感じた。

智哉はファイルの角を揃える手を止め、そっと深呼吸をした。


(……あの目)


あの視線は、「どこの誰だ?」ではなかった。

「何に使われてる?」という、見透かすような視線だった。

不快感に指先がわずかに震える。


智哉が渡そうとしたファイルを受け取りながら、互いの指先が触れ合った。


「冷たい手、ちゃんと動いてる?」


ふいに、市原が隣から声をかけてくる。


(……前ならすぐに引っ込めたのに)


そう思いながら、智哉はそのまま手を引かずにいた。

もう、自分の中で“触れられること”の優先度が、書き換えられてしまっている。


何事もなく時間が過ぎ、既に夜。

静まり返った部屋で、智哉はベッドに座っていた。


あの男の視線が、まだどこかに残っているような気がして、落ち着かない。


(あんな風に見られるの、嫌だ)


けれど、それと同時に、

市原の隣にいたときだけは、誰にも“奪われない”と感じたのも事実だった。


(俺……今、完全に、あの人に囲われてるんだ)


今さらすぎる実感。

けれど、他人の目が入ることで、その構造が改めて露わになる。


それが、怖かった。


“商品”として見られたとき、自分の価値はどこにあるのか。


『──逃げたい?』


自分の内面に問いかけるような声が、耳に落ちる。

けれど、その問いに、もう答えを持っていなかった。


(優しい人じゃない。……なのに、段々と俺はこの人が怖くなくなってる。それが、いちばん怖い)


距離があるようで、逃げられない。

触れられていないのに、心は囲われている。


カーテンを閉めていない窓の外、空にかかる薄雲の向こうで、月だけがやけに眩しかった。

部屋も、その温度も、もう“外”の感覚とは別物だった。


“ここ”にいることが、だんだんと普通になっていく。


そのことだけが、ただ、恐ろしかった。


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